上巻:舞台前
夏休みは栄太郎にとって心躍らない期間だった。学生に訪れる自由な三十日余り、どの生徒も待ちわびているといった輪に入れず、期間中は東北の田舎に身を隠すように過ごしていた。帰って来ると決まって、三センチ伸びる身長を恨んでいた。例外なく、今年の高校生活最後の夏休みも三センチ伸びた。
海岸に程近い高校での卒業式、栄太郎は最後尾から生徒を見下ろしていた。眺めから優越に浸れたのはわずかな時間である。下級生が栄太郎を希少価値のある動物を見るかのような眼差しを向ける。ただ、別れを惜しむ雰囲気は下を向いてやり過ごすことを許可してくれた。
居間にある支注に刻んだ鉛筆の跡が天井に近付かなくなった。桜の開花と共に栄太郎の成長は止まった。自前の測定器が不要になった栄太郎は感極まって鴨居に後頭部をぶつけた。母親は、
「気を付けなさい」
と呆れ顔で言いながら、オーダーメイドで購入したスーツを渡してきた。栄太郎は袖を通し、鏡で写した。あらゆるポーズをとっては自分の姿を確認していた。
「背が高過ぎるので、サービス業には向いていませんね」
初めての就職面接で言われた言葉だった。後にも先にも、明確に言われたのはそれっきり。しかし、栄太郎が大多数の他人の代弁に過ぎないと思い込むまでに時間はかからなかった。
ある日のこと、ふと目に留まったのは地方の新聞誌だった。栄太郎は移動サーカスの団員募集に興味を持った。記載されていた条件は身体の大きさを求めていたからだ。
ぴったりしたスーツに湾曲させた体で行きついた場所には、建設中の大きなテントがあった。その前に堂々と腕を組んで佇んでいるハーフらしき男がいる。栄太郎はハンサムで紳士的な男が苦手だった。視線から離れようとした矢先である。
「こっちだ」
声を掛けてきた。案内されたの大きなテントの影に設えてあるプレハブ小屋だった。事務所にしては寂れている。インスタントであることは火を見るより明らかだった。
彼は面接官だった。栄太郎の身体を舐めまわすように見ると、机の上に足を置いた。
「スポーツの経験もないんだな?」
履歴書の欄を見ながら聞いてきた。栄太郎は黙って頷いた。溜息で返してくる。
「無気力な若者ってさ、多いんだよな」
栄太郎は横柄な態度に愕然とした。不良に絡まれたとしても、眉を潜めた表情を向ければ雑な扱いはされなかったからだ。もちろん、腕力で負ける気がしなかった。
「特技は?」
秀でた芸は思いつかない。何かに熱中した経験がない過去に自己嫌悪している暇は無かった。答えるまでの間に『木偶の坊』や『言葉通じているの?』という罵詈雑言を浴びせてきた。
耐えきれなくなり、口を開いた。栄太郎は体が柔らかいですと言った。怪訝な表情を見兼ね、前屈で地面に掌を付いた。精一杯のパフォーマンスである。震える全身が悲鳴を上げ出しても、そのままの状態を保持した。
「もういい。俺は宇賀理だ。後はトレーニングをさぼっている志村に聞け」
宇賀理が顎で指していたのは建設中のテント内だった。
同じ平面に付いた足、栄太郎は目を疑っていた。志村の目線は栄太郎より五センチ上にあった。つまり二メートル七センチぐらいはある。体格も一まわり大きい。
「引退だよ」
見るなり、くぐもった声で呟き、練習場を見渡した。
「サーカスの主役にはなれなかった。だかな、これなら目立てたぞ」
存在自体が目立つ栄太郎にとって、その言葉は衝撃を与えた。――何言っているんだこの人? とは口出せなかった。志村がこれ、と言って触れたのは、近くにあったガラス製の水槽だ。準備運動をしているかと思うと、ミシっと音を立てて肩の関節を外し、巨大な体躯は水槽の中に吸い込まれていった。
唸り声を上げている。水槽は平均的な成人男性でも入れないのではないかと思われる体積である。露出している肩の皮膚が、透明な窓ガラスに巨大なナメクジが貼っているかのように映る。出てくる姿を見てもしばらくは未知の生物を見ている感覚になっていた。
志村が発する骨の摩擦音で我に返った。肩の筋肉をほぐし、首を回した。
「この芸はな。ガラス詰めの巨体ってな名がある。このガラス箱は商売道具だ。過度の圧力がかかれば割れて怪我する。俺らみたいな人間ならなおさら気を使うべきだ」
栄太郎は、『俺ら』という言葉に肩を揺らす。満足気に言う志村は額に大粒の汗が浮かんだ。それを丸太のような手で拭った。
「宇賀理にはいろいろ言われただろ?」
目を逸らした栄太郎は黙っている。志村は勝手に納得した。
「あれはサーカスのキャラクターだ。本当は優しい奴でな。明と暗の原理を尊重する団体なんだよ。わかるな?」
栄太郎は思わず笑顔になった。彼にも伝染し、やがて高笑いが練習場に鳴り響いた。
実家から通える距離をあえて住み込に決めた。サーカス用に作られている仮設住居には住所を持たない者もいる。テレビやパソコンはなく、薄っぺらい壁にプライベートはないも同然だった。
志村に案内された控え室ではサーカス団員がたむろしていた。大量の薬を昼ご飯代わりにかっ込む者や、鏡の前でひとり言を発しながら体を動かしている者、ご飯を食べずに瞑想している物もいた。
「あいつは減量しているだけだ」
聞こえる志村の声にもまったく反応しない。冷たい視線をちらりと向けて、直ぐに自分の世界へ入りこんでいく。栄太郎を快く迎えたのは志村だけだ。
「自己紹介は必要ない。名前を憶えてもらいたかったら目立つしかないんだよ」
終始、志村が目立つことに拘った理由を理解した。何もしないで目を引いてきた自分、それを一時で失ってしまうと、栄太郎に寂しさを与えた。
最初の練習といえば柔軟体操中心だった。中国雑技団のような軟体を持つ団員もいる。しかし、栄太郎の得意としている練習ばかりではなく、団員がこなしているトレーニングメニューは若さだけでは到底体力が持たなかった。栄太郎は何度も嘔吐し、動かない身体を拳で叩いた。
栄太郎が入団して二ヵ月後、多くの観覧客がテント内に集まった。
「良く来てくれたな!」
悪魔メイクをした宇賀理の進行でサーカスは始まった。客はその乱暴な扱いを歓喜している。
アクロバットなパフォーマンスが続き、ピエロが笑いを取った。子供から大人まで魅了する。ガラス詰めの巨体と名が付いた志村の演目は最後だった。
志村が最後の舞台になることは誰も知らなかったらしい。現れた志村は目を瞑って深呼吸した。司会進行を務めていた宇賀理は、急に声を潜める。ざわめきの余韻が一瞬にして消え去った。
「彼は当団体が始まって以来、ずっと演者としてやってきました。体に似合わず気遣い屋であり、俺が助けられた場面も少なくありません」
マイクを向けられた志村は、手を横に振って制し、運ばれてくるガラス箱の前に立った。
志村の背中に当たるガラス部分に亀裂が入った。舞台裏から見える程度で済んだのが幸いだった。大量の汗がやがてガラスを曇らし、歪んだ表情を手で覆っている。栄太郎はいつもとは違う志村だと感じていた。
ゆっくりとした動作で立ちあがり、志村は両手を広げた。少数の人が拍手し、すぐに全体へと広がった。
「鼻息荒いから曇っちゃいました……まあ、引退しても食いっぱくれはないでしょう。この巨体ですから飯を沢山食べますからね」
「それは、食いっぱくれがないとは言わないでしょ」
宇賀理が慌てて突っ込みを入れた。笑いと共に、感謝の声援が飛び交った。宇賀理から花束を贈呈され、抱き合い、大粒の涙を流した二人で幕が閉じた。栄太郎は涙を湛えた観客も含め、すべてを目に焼き付けた。