第74話 氷の君
里に帰るニエマ氏を見送り、今夜は町長屋敷に泊まるサディアさんを個室に送り届け、ひとまずの事後処理を終えた私達は帰路に就いた。
「ふう……」
起き抜けで体力が戻っていないせいか、どっと疲れた気がする。サフィール氏の眼差しは本人の口より遥かに雄弁だ。ああも表立って敵意を向けられ続けるのはなかなかに応えるもので、サディアさんが終始機嫌を窺っていたのも無理はないだろう。
ここぞとばかりに大きく深呼吸すると、何か言いたそうなユーンくんと目が合った。なんとなく只事ではない雰囲気に、私は先手を打つ。
「……今日ご飯買って帰ってもいい? 献立考えるのがちょっと億劫で……」
「君の好きに。別に飯くらい作るけどな。……疲れてるのはわかってるが、これ以上引き延ばせそうにない事後処理がもう一件あるんだ」
「報告書の他に? もしかして誰かからせっつかれてる……?」
「誰かっていうか本人だろ」
ルビオンがぼそっと呟いた。聞き返してもそれ以上教えてくれず、彼はふらりと広場方面へ向かう。
「どこに行くんだ?」
「適当。俺は姉御のとこ行きたくないから。ああ何だっけ、食いモン買っとけばいいの?」
「あっ、君、逃げる気か! ちくしょう、ずるいぞ!」
空中で地団駄を踏むユーンくんにルビオンは見向きもしない。それどころかいつにも増して気怠げだ。財布を渡しながらその点を指摘すると、途端に苦虫を噛み潰したような顔をされる。
「ヒトのこと気にしてる場合じゃないと思うけど。……たぶんアンタ、放してもらえないから」
「へ」
「こら、待て! 今日は串焼きの日だろう!? チーズとソーセージもつけてもらってくれ! ソースはマスタードだからな~~~!」
マイペースなルビオンを止めるのは無理だと悟ったのか、ユーンくんは途中から普通に注文をつけていた。私は何が何だかわからないまま、ひょろりとした背中に手を振る。もう買い物もできるのか、すごいなあ。器用そうだし、一週間のうちに色々と知識を得たのかもしれない。
「……で、ユーンくん」
「さ! 気を取り直して行こうぜっ!」
「行くってどこへ、あと姉御って」
「まあまあまあまあまあ」
ユーンくんからは明らかに「頑張って張り切ってます」感が出ている。おかしいぞ、裏山の浄化という一大イベントは終わったはずなのに。さらに何かが待ち受けているということなのだろうか。
そんな相棒に連れられてやって来たのは、自宅から程近い牧場──魔物の調教師であるトアンくんの仕事場だった。
「おーい、トアン! いるか?」
「はーい!」
牧場の一角にある事務所内から声変わり前の明るいアルトが聞こえ、パタパタと駆けてくる音がする。間を置かずひょこっと癖毛を覗かせたのは、凄腕のオーナーである年若い少年。こちらを見るなり、パッと明るくなった表情に癒される。
「いらっしゃいませ! アオイさん、回復されたんですね! よかったあ!」
「うん、おかげ様で。ご心配をおかけしました」
「いいんですよー! なんたって、アオイさんはミネフの英雄ですからね!」
「い、いやー、ハハハ……」
冷や汗が伝う。英雄──アッドさんの言葉遊びかと思っていたが、気のせいではなかった。結果的に浄化は完遂できたものの、周囲の協力やユニコーンの角なしでは到底為し得なかったことである。それなのに私がそう呼ばれてしまうのは恐れ多くて、ただただ気後れするのだ。
「それで、今日はお引き取りですね? すぐ呼んできます!」
「オヒキトリ……?」
「いや、うん、まあ……見ればわかるさ」
歯切れの悪いユーンくんはここに来てもまだ何かを隠している。いい加減に白状してもらおうとククサをわし掴んだ直後、ドアが勢いよく開かれ、ビシリと亀裂が走った。
「マスター!!」
「うっ、ウルドアニスさん!?」
並の人間より頭一つ抜けた上背。澄んだ空のような水色の髪。青みがかった灰色の双眸。氷の精のようなその人は、ズンズンこちらに近づいてくると、風が起こるほど力強く両手を振りかぶり──私の肩にそっ、と置いた。
「ああ、やっと……やっとお会いできました……っ!」
彼女の瞳は心なしか潤んでいた。透き通るような白い頬も今は上気している。まるで何十年も探し続けていたものをやっと見つけたような、あまりにも感極まった様相に、私は事態を理解できていないながらも気圧されていた。マスターとは何ぞや。
「こ、こちらこそご無沙汰してます。またお会いできて光栄です」
「本当ですか。本当にそう思っているのですか」
念を押すウルドアニスさんは黒い瞳孔が全開だ。虹彩の色が薄いせいか、やたらと迫力がある。そしてなぜ敬語。
「は、はい、もちろん」
「では今後! 二度と! 私達は離れてはいけませんね! マスターも同じ気持ちとは……とても嬉しいです」
肩を包む指先に僅かに力が加わる。ひく、と思わず身体を跳ねさせてしまうと、ウルドアニスさんは素早く飛び退き、その場に片膝をついた。次いで恭しく私の手を取り、甲に額を押し当てて──。
「あなたと契約がしたいのです、マスター。どうか私を眷属の一人にお迎えください」
◆ ◆ ◆
その後どうなったかというと。我が家の食卓に水色の華が飾られることになったと言えば、十中八九おわかりだろう。
華──ウルドさんがミネフに来たのは数日前。裏山での浄化後、それぞれの帰る場所へと解散したのも束の間、彼女は故郷や三兄妹に別れを告げて単身山を下りた。だが、人間に近いといえど半身は巨人。人混みから突き出た長身はとにかく目立ち、中には魔物とみなして恐れる人もいたために、トアンくんの調教中という体で保護されたのだそうだ。
そうやって牧場で過ごすうち、ウルドさんは人間社会のあれこれを学ぶ。言葉遣いや習慣、礼儀に至るまで、それはもう「貪欲に吸収した」とは本人の談。かくして彼女は人間と同じ、否、遥かに立派な所作を身につけてしまったという。人の血があるから馴染むのが早かっただけ、と当人は謙遜していたけれど、そこまで努力できる才能自体がもはや規格外だ。
それもこれも全て私と契約するためだと宣うのだから、アルコールもないのに酩酊しかけたのは仕方がない。ないったらないのである。
「マスター」
夕食も済ませ(『花々』の串焼きは種類が豊富で、どれも美味しかった)、ベッドで報告書を綴っていた時、その控えめなノックはあった。
「どうぞ」と促せば、おずおずと扉が開かれる。牧場の時とは大違いだ。当時はかなり興奮していたからだそうだが、トアンくんには早急に弁償しよう。
「、お忙しかったでしょうか」
「大丈夫ですよ。あ、ここお座りください」
「ありがとうございます」
一瞬躊躇しかけたウルドさんを少々強引に椅子へ誘う。報告書よ、悪いが先に眠っていておくれ。大体の説明はしてあるし、記録と保管用だけなら多少遅れても許されるだろう。
ついでにお茶を淹れようと立ち上がりかけると、それとなく押し留められ、私はベッドの淵に逆戻りした。
「ウルドさん?」
「すみません……あなたに、見えるところにいてほしくて。私には魔石もないから」
まだ、あまり現実味がないのです。独り言ちるその姿に昼間の威勢はなかった。
後で知ったことだが、巨人族の構造は人間の延長線上に近い。見た目もさることながら、魔石を持たず、魔術の行使には魔力経路を必要とする。つまり、魔石を砕いて契約主の魔力を埋め込む魔術的な契約ができないのだ。
故に、私と彼女の間にあるのは互いの「契約した」という認識のみ。仮契約よりも不確かな口約束みたいなものだけ。
「不安、ですか……?」
「いいえ。山頂で、ただあなたを見送った時よりは」
伏せられた睫毛はキラキラ光っているのに儚い。綺麗で、それでいてどこか脆さを感じさせる彼女は氷そのもの。確かに目の前にいるのに、ふと気づいたら溶け消えているような──。
瞬間、私は衝動的にその髪に触れていた。細くて柔らかい。さらりと滑っていく軽やかさに夢中になっていると、ウルドさんの指が私のそれを絡め取った。
「マスター、あなたは二度も私を助けてくださいましたね。身体の中が喰い潰されるような苦痛から、そして水王を凍らせ続けなければならない呪縛から。あなたがいなければ、私の命は遠からず尽きていたでしょう」
「ええと、どういたしまして。でも、大半はウルドさんが頑張ってくださったおかげです。間に合ってよかった」
「私もそう思います。あれは試練だったのだと。証拠にあなたという存在に出会えた。死に瀕する危機を耐え抜いた証として、あなたは神々から私の元に遣わされたに違いありません」
「ど、え、そ……そう、なんですかね……?」
「はい。古来より、神とは試練と同時に褒美を与えるもの。つまりあなたは私が得た至上の宝なのです」
そのまま、私より一回り大きい両掌の中にゆっくりと仕舞われる。宝物を安置するような仕草に彼女の本音を垣間見て、心臓がドキッと跳ねた。
「ですから何としても手放すものかと、急いでこちらに馳せ参じましたが、私はどうも力任せで向こう見ずなところがあるらしく……トアンやユーン達に随分迷惑をかけてしまいました」
「ははは……そのことは後で一緒に謝るとして……じゃあ今は大丈夫そうですか? これから一緒に暮らすので、実感の方はおいおい湧いてくるんじゃないかなとは思いますが……契約についてもトアンくん達がやってる物理的な登録方法がありますし、なんだったら他にウルドさんが安心する方法でも──」
「マスターは本当にお優しいですね」
言うなり、すり、と皮膚をなぞられる。得も言われぬその感覚に、今度はもっと鼓動が早くなった。だって、低く囁いたウルドさんからは獰猛な獣のような気配が立ち昇っていて。涼やかな印象のある視線が、今は燃え盛る熱を帯びていたから。
「でも、どうか他者にはあまりご自身を切り分けないでください。宝を盗られた者がどのような行動に出るのか……知らないわけではないでしょう?」
「っ、」
「差し支えなければお見せしますが」
「わっ、わわわわかりましたッ!」
「ええ、お願いします」
打って変わってにっこり微笑まれ、唐突な差異にふにゃりとくずおれかける。山ではクールな人かと思っていたのに、意外にも喜怒哀楽ははっきりしている。そういえばイミさん達も感情表現が豊かだった。人間より巨きな分、内包するものも巨きかったりするのだろうか。
「とはいえ、マスターが私のためにくださるというなら喜んで。実は今一つだけお願いが」
「お願い……?」
「もしも許されるなら、あなたと一緒に眠っても?」
「ほ」
ぱか、と口を開けてしまった私に、ウルドさんは眉を下げる。彼女が纏う寒色も相まって物凄く哀しそうな顔だ。
「マスター、私はそれなりに多くのことを覚えたつもりです。あなたを圧死させる危険性は万に一つもないと思いますが、もし怪我でもさせようものなら死にます」
「、いっ……いやいやいや! すみません、びっくりしただけで! そんなのいつでも大歓迎です! さっ、どうぞ!」
ドッタンバッタン、ベッド中をひっくり返して毛布やクッションを掻き集めた。彼女が欲しているのは所謂パジャマパーティーだ。女子会の一種ともいう。
私の部屋は常に誰かが出入りしているようなものだし、改まって頼み込まれるほどのことでもない。ましてや死ぬだなんて。ちょっと過激なところもあるみたいだけれど、ウルドさんはたいそう律儀な人だ。断る理由なぞ欠片もなかった。
意気揚々と毛布を捲ってみせれば、数秒前まで真面目さを保っていた人物は驚いたように瞬きし、やがてくしゃりと子供っぽく破顔した。
「ありがとうございます、マスター」
「いいえ~」
いそいそと身体を小さくして潜り込んでくるのが可愛らしい。歳はいくつくらいなのだろうか。そういうこともこれから知り合っていけたらと思う。
頑なに手前側を譲らないウルドさん(私が落ちないよう壁になってくれるらしい)の奥に横になり、自然と向かい合う。彼女はずっと笑みを湛えたまま、宣言通り私から一秒たりとも目を逸らさなかった。照れ臭くて「穴が開いてしまう」と零せば、「ではこうします」と軽々引き寄せられ、あっという間に力強い腕の中。冗談抜きで心臓が弾けそうだ。
しかし、生物とは環境に順応するもの。脈打つ体温にくるまれ、背をポンポンされてしまえば、睡魔に逆らえなくなるのもまた道理である。そもそも今日は朝から晩まで事件があり過ぎたのだ。
「マスター」
うとうとと微睡んでいた矢先。小さく呼ばれて顔を上げると、寸前でぎゅっと抱き締められた。見られたくないのだな、と勝手に納得して額を埋める。
「……私は氷術の使い手ではありますが」
「はい」
「水王を凍らせたあの瞬間から、私自身の時間も止まっていたように思います。自分が僅かでも気を抜いて氷を溶かしてしまったら……そう考えると、恐怖と孤独で凍えそうでした」
「……はい」
「あなたが来てくださって、私は本当の意味で救われたのです。ありがとう、アオイ。私の宝物」
──大事にします。大切に、大切に守り抜きます。
幾度も繰り返される誓いは次第に語尾が震えていった。寒いのだろうか。私は怖がらせないようにそろりと身を乗り出し、その生き物を飼い主らしく懐に収めた。
ほら、温かいでしょう。大丈夫、もう冷たい思いはさせないよ。美しい毛並みを梳いては囁く。濡れた鼻先に首筋をくすぐられながら、夢の中の私はそうしていつまでも大きな水色の塊を撫で続けた。




