第60話 町依頼:裏山の調査を開始せよ!──邂逅──
「ここが入り口です」
馬車に揺られること半刻。辿り着いたのは、ミネフからぐるっと裏手に回った山の麓だった。
目に見える範囲の斜面は緑に覆われている。一見すると自然豊かな森のようだが、朝だというのに薄暗く、鬱蒼とした雰囲気に満ちている。時折響く叫び声のような音も不気味で、何だか落ち着かない。
御者に心付けを渡し終えたフォルクさんが振り返る。
「四合目までは簡易結界を施してありますので、比較的安全かと。では参りましょう。先頭はフィオラ、最後尾には私が──」
「いいえ、私達は別の道から行きますわ。ごきげんよう」
「っ、お待ちください!」
止める間もなく、サディアさんと護衛の戦士は木々の間に消えていく。初見だというのに迷いのない足取りだった。里に似た景色とはいえ、あまりに異なるこの様相が恐ろしくないのだろうか。
「追うか?」
「……いえ、我々はこのまま進みましょう。目的はあくまで調査です。経路から逸れればすぐ魔物に勘付かれます」
「中継地点の泉についてはご説明してあります。きっとそこで合流できるでしょう」
「わかりました。では出発の前にこれを」
きょとんとする兄妹それぞれに小さな布袋を渡す。入っているのは小粒のキャンディだ。私の魔力が練り込まれた庭の果実を絞り、果汁を凝固剤で固めたものがくるまれている。こうすることでより魔力を凝縮させ、時間が経過してもその場に留まらせることができるのだ。
この凝固剤は特殊な植物の種子から作られるもので、元となる樹は里で栽培されている。わざわざ持ってきてくれたニエマ氏には感謝しかない。
「瘴気への耐性を上げる固形薬です。噛まずに飲み込んでいただければ、少なからず蓄積を防げるかと思います」
あらかじめ含んでおけば、魔力が根を張るように体内に行き渡る。魔力回復薬のような即効性はない分、細く長く持続するために魔力酔いも少ないので、瘴気の真っ只中に晒されるこのような状況に適しているはずだ。
快く受け取ってもらえた小袋のうち、余りは一つ。覗き込んだユーンくんがそこからキャンディを一粒取り出し、上機嫌に頬張る。次いでケルピーにも無理矢理押し込み、くらいそうになった頭突きをひょいと避けた。
「渡しそびれちゃったけど……サディアさん達、大丈夫かな」
「あれだけ意気揚々と行ったんだ、どうにかするだろう。キショウに吸わせまくるとかな。さ、俺達も行こうぜ」
確かにキショウなら瘴気を相殺できる。だが、果たしてその許容量はどれくらいなのだろう。例えば瘴気が呪いを上回った場合、サディアさんの浄化は追いつくのだろうか。それとも──。
膨れ上がり、風船みたいに弾けたキショウの想像に悪寒を振り払い、私は慌てて彼らの後を追った。
◆ ◆ ◆
フォルクさんの言う通り、山道は想定していたより安全だった。要所要所に配置された簡易結界の魔道具と、絶えず気を配ってくれる護衛二人のおかげで魔物にもほとんど遭遇せず(サディアさん達の方に注力しているのではと心配になるほど)、私達は周囲の浄化や水質の観察に集中できた。
そうして水の流れを辿り、ひたすら上へと登っていく。上へ、上へ、上へ──。
「アオイ様、大丈夫ですか? 泉はこの先ですので、もう少々ご辛抱を」
「……は……はひ……」
──山登りって、相変わらずしんどい。そのことだけが頭を埋め尽くし、気を抜けば棒のような足を折ってしまいそうだった。『私』は中学の校外学習以来だが、『アオイ』もあまり縁がなかったらしい。『アルヘイム』での巨木の昇り降りとはまた違う負荷が刻々とのしかかってくる。
「ゴーレム出すか?」
「う゛うん、だいじょうぶ……まりょくは、おんぞん……しといて、ほし……!」
そんな私を見かねて、ユーンくんは背中を押してくれたりする。その気持ちがありがたい。感触はないに等しいのだけれど。
修行の成果か魔力は尽きていないし、怪我もしていないのに限られたポーションを消費するわけにはいかない。どちらが魔物かわからない呻き声で踏ん張っていると、急に爪先が浮いた。
「……え、えっ?」
「ちんたらしてると日が暮れる」
滑らかな鬣が顔をくすぐる。視界いっぱいに光沢のある体毛が広がり、気づけば私はケルピーの背に乗せられていた。
「ありがとう……だ、だけどあの……重いし大変じゃない……?」
「魔物どもが寄ってくるよりマシだ。それともエサにしてほしいって?」
「すみませんよろしくお願いします」
ケルピーの上は非常に安定していた。凹凸のある地面のせいか歩行は丁寧で、馬車のような揺れも少ない。最初はきちんと身を起こしていたはずなのに、ごく緩やかな振動とひんやりした体温が心地良くて、知らず知らずのうちに首筋に齧りつくような恰好になってしまっていた。なのに彼は私を咎めなかった。
──叶うなら、一度だけでも鬣を梳かしてみたかったな。指通りの良さそうなアイアンブルーの束にそんなことを思った。
「見えました! あちらです!」
弾んだフィオラさんの声に顔を上げると、木々を円に沿って押し退けたような場所の中央に、湖面の半分凍りついた大きな泉があった。
遠目からでもわかる、水の中でもくもくと立ち昇る黒っぽい靄。全くといえるほどない生き物の気配。魚どころか水草一本見当たらない、ミネフの水源の比ではない濁り。
もう少しよく視てみようと爪先を伸ばしたところ、ケルピーが後ろ足を跳ねさせたために、私は反動で元の位置に戻される。
「降りるな、このまま行く。限界まで息吸って止めて」
「──っ!?」
「アオッ!」
次の瞬間、氷のように冷たい水が全身を覆った。ケルピーが泉へ飛び込んだらしい。もはや痛みさえ覚えるほどの低温と襲い来る水の抵抗。ざわりと蠢いた濃厚な瘴気に反応するペンダントの温度を感じながら、私は振り落とされるまいと夢中でしがみついた。
一方、水底すれすれまで沈み切ったケルピーは、微塵の迷いなく方角を定め、ぐんッと加速し始めた。速い。水を大地のように蹴り、ここがホームとばかりに水中を駆け抜ける。
その先には、岩肌にぽっかりと口を開ける縦穴があった。
「あそこを通る。抜ければ洞窟だ、そこまで我慢しろ」
「っ、っ!」
「あと苦しいから締め落とすほど掴まるな。少しくらい離しても死なない」
言われた通り、そろそろと片手を離そうとすると、なんと私の掌の皮がびょんと伸びたではないか。そのまま力を入れ続ければ、シールのように皮同士がぺりぺり剥がれていく。そういえばケルピーの皮膚は粘着質だといつか説明されたような。何にせよ、緊張が僅かに解けたので改めて姿勢を正す。
到着した穴を潜り、水棲馬は水を踏んで上昇していく。なるほど、泉の中に入り口があったのか。これなら一見わかりにくいし、水属性の魔物しか使えない。
「……ここまで凍ってんのかよ」
不機嫌に唸るケルピーの頭上には分厚い氷の蓋。どうやらこの先が洞窟内部のようだが、魔術と思しき氷には素手で触れられず、水中では炎も意味がない。火の魔石でどうにかなるだろうか。
ポケットをごそごそ探っていると、不意に一帯が波打ち、大量の水がケルピーの口内に吸い込まれ始めた。
「────!」
カッと迸る一筋の光線。ウォータージェットみたいな水流は氷の蓋を直撃し、一直線に貫いた。相変わらず冷や汗をかくほどべらぼうな威力だ。
揺蕩いながら降ってくる氷片の向こうには黒々とした空間が見える。鬱陶しそうにそれらを避けながら、ケルピーが水面に顔を覗かせた──その時だった。
「ごぼっ!?」
ほんの──ほんの一瞬だった。キラリと光る粒子のようなものがケルピーの鼻先に舞い降りたと思ったら、その首から上が一気に凍りついたのである。
ぐらりと傾いたケルピーごとバランスを崩す。私はかろうじて氷漬けを免れたものの、驚愕に飛び出した酸素は泡となり、心臓が嫌な音を立てる。
「んぐ……!」
伸ばした手が宙を掻く。沈んでいく身体がケルピーから離されていく。焦りの極致で目が回りそうなところへ、首に絡みついた何かによって、私は物凄い力で引き上げられた。
ザバッ、と振り落とされた水の代わりに、冷えた空気が急激に入り込んでくる。途端に酸素のことしか考えられなくなって、喘ぐように必死で息を吸った。耳の中で血流がドクドク鳴っていた。
「っ、ぇほえほ、げほっ! はあっ……はあっ……」
「……人、間……否……」
低い声にハッと目を開ける。辺りは暗く、遠くで揺れる火と思しき光源が時折届く程度だった。岩壁に影が映る時だけ、私の首を掴んでいる誰かを逆光が照らす。
目は二つ。指は五本。鼻も口もあるようで、背格好は私と似ている。けれどびっくりするほど手が大きかった。首と肩の間には二指しか収まりきっておらず、他の三指が足まで拘束している。
そこへ複数の足音が聞こえてきた。
「おい。何の、音だ」
「どう、した。何が、あった」
「魔物が、一匹。でも、仕留めた。あと──」
服の下から零れたペンダントが相手の指を掠める。すると、やにわに発光したそれにひどく焼かれたかのように、巨大な指が勢いよく退いた。
そうして再び水の中に逆戻りした私の真上に、吐息を感じるほど顔を寄せられる。水面の反射した眼球がぬらぬらと輝いていた。
「……この、人間に、似ている、もの」
「入り、込んだか。ここも、そろそろ、か」
「だから、おれは、言った! 隠れて、いるだけ、では、と!」
「落ち、着け。とり、あえず、いつも通り、処理、する」
「これは、どう、する」
「ああ、それ、なら──」
刹那、鋭い射出音が空間を割った。水飛沫が舞い、浸かっていた身体を後ろに引き寄せられる。
硬い土に尻餅をついた私の前で、ドン、と四肢が振り下ろされた。
「ケルピー……!」
「そ、こに、い……ろ」
ケルピーの上半身は所々氷漬けのままだった。しかし、体皮の上で揺らめく水がじわじわと氷を溶かし、彼はあっという間に元の姿を取り戻す。
いくつもの水球を纏い、ぎらついた眼が暗がりを射抜いた。
「やってくれたな、くそったれの巨人ども」
迎え撃つように真っ赤な炎が灯る。掲げられた松明の下、天井に擦れるほど巨きな人型生物が私達を見下ろしていた。




