第57話 これからのこと
『彼らが未だに瘴気に苦しめられているのは、こんなところで二の足を踏んでいる君のせいではないのかね?』
ハッとした時には遅かった。
掴み損ねた瓶が滑り落ち、けたたましい音を立てて砕ける。じわじわと作業場のテーブルに広がっていくポーションを慌てて布巾で覆った。
ああ、やってしまった。大雑把に破片を片付けつつ、木目に傷がないか確認していると、指の先に鋭い痛みが走った。案の定、みるみる膨らんでいく赤い半球。
こんな傷、魔術ですぐ治る。でも、この家は次の人のために──。
「半獣人の前で血ィ流してんじゃねェよ。今頃腹ン中でも文句言えねェぞテメェ」
「……ヴェルナさん」
いつの間にか、二階の物置への階段の途中に人影があった。ビーフジャーキーを咥えた彼女は、わざとらしく段差を鳴らして降りてくる。
ヴェルナさんと顔を合わせる際、何かと縁があるのがこの作業場だ。そのせいか、ちょうどいいタイミングで不思議と彼女に会える。実は時々二階を寝床にしていると知り、こっそり毛布を置いたのはいつの頃だったか。
「それ、一応任務中の携帯食だったんですが……」
「『声』ウルセェし腹減ってんだよ。また作りゃいいだろうが」
「いや、私はもう……」
作ることはない──そう言いかけて途切れてしまった。諦めの悪い心残りに内心ため息をつく。
サフィール氏の演説からしばらく経つ。今のところはまだ正式な引き継ぎの要請はないけれど、きっと時間の問題だろう。私にできることはサディアさんが、それも数段上手く成し遂げてくれる。ミネフとしても選択の余地はないはずだ。
だから私は粛々と後片付けを始めている。今日も残りの浄化作業のためにリンテスに向かうので、持てるだけのポーションをまとめている最中だ。本音は皆に会うのが怖くて逃げているだけなのかもしれないけれど。
そこで、怪訝そうに片眉を上げていたヴェルナさんが思い当たったようにニヤリとした。
「そういやテメェ、お払い箱だって?」
「……!」
今度は瓶を落とさずに済んだ。だが無意識に力んでしまったせいか、治したはずの傷口が鈍く痛む。
「な? 純血ってクソだろ? 自分が世界で一番正しいと思ってやがる」
何が楽しいのか、ヴェルナさんはクスクス笑う。彼女なりに混血の気持ちを分かち合っているのだろうか。ただ、実力が拮抗しているならまだしも、今回は単に私の力不足である。
到底一緒の気分にはなれず、背を向けた刹那、目の前の壁が大きく軋んだ。
「殺してやろうか」
壁にめり込んだしなやかな脚。真後ろに立つ猛獣の気配に息を飲む。
「くだらねェ血に胡坐かいてる奴ら、一匹残らず」
オレは傭兵だ、と頭の上から声が降る。小雨のように静かな口調だった。まるで、ピンチに駆けつけて安心させてくれるヒーローみたいに。
乱暴で、物騒で、言葉遣いも過激。でも、本当に困っている人には手を差し伸べてくれる優しさがある。彼女は決して戦闘狂なだけじゃない。
「……いいえ。でも、ありがとうございます。そのお気持ちだけで十分です」
「…………」
「嬉しいです、本当に。ありがとう、ヴェルナさん」
振り返って、思わず噴き出しそうになってしまった。ヴェルナさんの表情が散歩を忘れられた犬みたいにぶすくれていたからだ。
咄嗟に耐えたが、そこはさすがの現役ギルド員。呆気なく見抜かれて頬を摘まれる。
「テメェなに笑ってんだコラ。殺らせろっつってんだろオラ」
「ひだだだだ」
「おーい、準備終わったかー……って、こらあ! アオに何してる犬コロッ!」
「チッ。ブンブンウルセェなクソ羽虫チビが」
「ア──ッちょっと待って喧嘩なし喧嘩なし! はい準備終わったよユーンくんお待たせっ!」
急いで荷物を担ぎ上げ、喰ってかかるユーンくんを回収。興奮冷めやらぬ彼を押し止めながら頭を下げる。
これが最後だ。次にヴェルナさんがここに来た時、私はもういない──いられない。開いたままの胸の奥で風がびゅうと唸る。
「じゃあヴェルナさん! 短い間でしたがお世話になりましたっ!」
どうか、彼女にもたらされる一日のうち、少しでも音のない安寧がありますように。そう願うことくらいは、こんな身の上にも残されていてほしいと思った。
◆ ◆ ◆
少々間隔の開いた訪問を、リンテスの人達は変わらず迎え入れてくれた。いつものように私とユーンくん、今日で最後になるための大荷物、そして──。
「『ガルヘイム』の浄化師、サディアですわ! 本日は見学に参りましたの!」
なぜか直前で馬車に乗り込んできたサディアさん。固まるこちらを歯牙にもかけず、上機嫌に鼻歌を奏でながら、彼女は道中の景色を楽しんでいた。ちなみに音程はとても個性的だった。
「よろしくお願いいたしますわ」
「おお、エルフか。初めて見たよ」
「アオイちゃんのお友達かしら」
「なんかきらきらしてるー」
堂々たる出で立ちにピカピカの笑顔。舞い降りた彼女は燦々とした太陽のようだった。色めき立つ人々を遠目に、ユーンくんがぼそりと呟く。
「……彼女、本当に見学だと思うか?」
「たぶん……でも私のやり方じゃなくて、リンテスの雰囲気とかを見に来たんじゃないかな。引き継ぎのために」
ミネフに常駐するのなら、祭を合同で開催する仲であるリンテスやパラルフェルとの付き合いは大切。最初からそのことを理解している彼女はやはり一人前なのだ。問題が起きるまで気づけなかった私とは視野の広さが違う。そうした差を思い知る度、情けなくなるばかりだ。
十中八九、私達には帰還の命が下るだろう。その後のことはもう、いくら考えてもわからなかった。
「俺は今でもやり方が間違っていたとは思わない」
だというのに、口の端を引き結んだユーンくんがきっぱりと言う。
「ミネフの現状と俺達の能力を照らし合わせて、何度も話し合って浄化計画を立てた。確かに瘴気の問題はあるが、判明したのはつい最近だ。それまでの成果はちゃんとあるし、里にだって何度も報告書を出してる。もし間違っていたならニエマが口を出してきたはずだ」
「ユーンくん……」
「そもそも今更エルフが横入りしてくること自体が腑に落ちない。奴らが一番嫌う長期間型の依頼だぞ」
希少な浄化師を適切に派遣するため、普段は里の間で公平に依頼を分担している。ただし、『ガルヘイム』は短期間で報酬が高い案件、または公的な評価を得やすい案件を抱え込みがち──その噂なら私も耳にしたことがあった。
繰り返し時間について強調していたサフィール氏を思い出す。エルフはとにかく結果を急ぐ傾向にあり、そのせいで長時間の拘束を断って依頼者と揉めたり、強引な手法で後々周辺に影響があったりと、トラブルになることもあるらしい。
ミネフの依頼も、水質の調査から瘴気を祓うという大型案件に変わりはしたが、元々一年間の赴任という制約がある。サフィール氏は了承しているのか、はたまた早々に浄化を終えて切り上げさせるつもりなのか。何にせよ、人手不足になるほど依頼が舞い込んでくる昨今、なぜそこまでして余所の、それもハーフエルフの進行中案件に介入したかったのか。
「何か特別な理由があるのかもね。でも、もう考えてもしょうがないよ。瘴気が一番の原因なら、やっぱりそれを解決できる人の方がミネフのためになるし」
「そりゃあそうだが……最初は瘴気があるってこともわからなかったじゃないか。それだってケルピーが情報源だし、そのケルピーと契約してるのは君だぜ?」
「そうだね。一ヶ月経って、やっとそこに辿り着いた。たらればだけど、サディアさんならもっと早かったかもしれない……ううん、確実に早かったんだと思う。そういうことをサフィール氏は言いたいんじゃないかな」
「なあ、アオ。やるせないのはわかるが、自分が何もできないみたいに言わないでくれ。君は精一杯やったさ。いつもずっとミネフのことを考えてた」
「せ……精一杯でもさ、それすら」
スタート地点でさえなかったでしょう。つい口走りそうになったそれを、喉の奥で必死に殺した。私が八つ当たりしてどうするというのか。
「ねえ、あなた。アカイさん、だったかしら」
弾んだ声にびくりとする。村人に囲まれながら、サディアさんがくりくりした瞳でこちらを見ていた。
「浄化はあと何人残っていらっしゃるの? 私が全部引き受けますわ。発症しない量とはいえ、瘴気が残っているのは気分が良くないもの」
「……彼女の名前はアオイだ。それと、こっちは君の自己紹介とやらが終わるまで待っててやったんだがな」
「それはどうもありがとう、小さなお友達さん。でしたら尚更、私がやってしまった方がよさそう。どうぞ、今後の参考に見ていらして?」
「あのなあ……っ!」
「はい、わかりました。すみませんがよろしくお願いします」
「アオ!」
「貴重な機会だよ。見学させてもらおう」
ユーンくんはしばらく百面相をしていたが、やがて私が梃子でも動かないと知ると、ククサを逆さに被ってふて寝を始めた。そんな彼に心の中で何度も謝って、サディアさんの隣に陣取る。
嘆くだけならいつでもできる。とにかく私は学ばなければならない。同じことを繰り返さないために──早く一人前になるために。
「じょうかって、いたい……?」
私達の前に立った幼い女の子は不安そうだった。うっすらと涙を滲ませる彼女に、サディアさんはお手本のように微笑む。
「ええ、人によってはほんの少し。でも、そう怖がらなくて大丈夫ですわ」
「えー、オレ全然痛くなかったよ。ちょっとだけモゾモゾするけど。ねー」
「……よかった」
笑いかけてくれた少年は少女の兄で、私が先日浄化を行ったばかりだった。この兄妹はほとんど村の外に出ていないせいか、周りの大人に比べて瘴気の蓄積が少ない。
だから滞りなく終わる──そう考えていた直後のことだった。
「あ゛────っ! あ゛────っ! やあぁあ────!」
召喚された奇妙なフクロウが紫の霧を吐き出した数秒後。びくんッ、と浮き上がるほど身体を痙攣させ、少女が絶叫した。身悶えし、金切り声で泣き喚く表情には、何かに怯えて逃げるような恐怖がありありと刻まれている。
そのうち、少女は胸のあたりを猛烈に引っ掻き始めた。あの時と同じ、何かを取り出そうとするような動き。しかしサディアさんは慌てる気配もなく、平坦な声で「押さえて」と囁いた。
「早く。余計な傷を負いましてよ」
「あっ、は、はい」
私は咄嗟に彼女の両腕を掴んだが、すぐに思いきり振り払われた。一見枝のように細く、力を入れれば折れてしまいそうなほどなのに。さながら生命の危機に瀕した際の馬鹿力のような、とにかくありえない膂力だった。
「もう、役に立たない人ね。まあ構いませんわ、じき終わりますから」
喉を詰まらせたような咳を繰り返し、ややあってから少女はごく少量の血の塊を吐いた。そうしてキショウの霧が回収されるまで、放心したように地面に横たわっていた。
糸の切れた人形のような彼女へ、魔力を纏った傷一つない掌が触れる。
「よく頑張りましたわね。さあ、治療しますわ。楽になさってね」
「ぁ……あの、さあ……これ、大丈夫なの……?」
「? もちろん。れっきとした浄化ですわ」
「でも……妹、泣いてたし……なんか、前と全然違うっていうか……」
「単なる方法の違いです。ポーションだって苦いでしょう? 良い薬は得てして苦いもの、優れた浄化もまた少しばかり苦しいものですのよ」
兄の少年が窺うように私を見上げた。彼だけじゃない、誰もが固唾を飲んで立ち尽くしている。それほどまでに少女の恐慌状態は凄まじかった。
サディアさんの言う通り、浄化自体はきちんと行われている。以前の男性もこの少女も、どちらの体内にも瘴気は残っていない。ただ、一つだけ引っかかる表現があった。
──『浄化』を終えたのに『治療』が必要であること。
少女に外傷はない。あの男性には発症による自傷行為があったものの、この子はそれほど瘴気に蝕まれていたわけではないからだ。身体を引っ掻いたのも服の上からで、それも途中で介入したために傷にはならなかった。つまり、『治療』の対象は外傷も含むが、それ単体に向けられたものではない。
そうなると思い当たるのは両者に共通する吐血だ。血を吐くということは、器官や臓腑のどこかが正常に機能していないということ。『治療』は吐血の原因のためのものではないか。突き詰めれば、吐血するほどの何かが発生しているのではないだろうか。
もちろん浄化の結果に差異はない。だから一概に間違っていると糾弾するつもりはないのだが、『アルヘイム』の手法では起こり得ない事象であるから、「ああも苦しがらせてまで?」というしこりのようなものがそんな疑問を生んだ。
それは私の相棒も同様だったらしく、肩にあったククサの淵が僅かに持ち上がる。
「この間から思ってたんだが、そっちの浄化はどういう仕組みなんだ? 随分独特なやり方に見えるが。それにそんな魔物、前から使ってたか?」
「…………」
ピク、とサディアさんが反応した。束の間、無表情でユーンくんを見つめた彼女は、気を取り直したように唇を吊り上げる。
「確かに近年導入したものですけれど、大事な商売道具ですもの。当然秘密です」
「そうか、残念だ。一人前の浄化師たる君に比べて、こっちはまだまだ見習い。是非とも参考にさせてもらいたかったんだが……」
「う、うん、後学のためにね! でも、そうですよね、難しいですよね……」
「エルフがいかに優れているか、里の連中に知らせてやりたかったんだがな……」
チラリ。盗み見たサディアさんは目を伏せて考え込んでいる。私とユーンくんは目配せを交わしつつ、「仕方ないですわね」と彼女が立ち上がった瞬間、素早く逆三角形の口角を貼り付けた。
「キショウは瘴気に対抗すべく編み出された特別な魔物ですの。今はまだお祖父様からの借り物ですけれど、いずれ私自身の浄化道具として、もっと立派なものを手に入れますわ」
「特別な魔物……」
「ええ、そうよ。ですからちっぽけな妖精なんてメじゃありませんの」
「ほう……?」
「そッ、その魔物すごいですねえ! どこで契約できるんでしょう? 私も検討してみたいなー、なんて……!」
「……産地はここからずっと北ですが、お祖父様がわざわざ足を運んで掛け合ってくださった、この上なく効率的な特注品です。何かとごゆっくりなハーフエルフには必要ないと思いますわ」
わざとらしく強調された口調に言葉が詰まる。サディアさんは愉快そうに目尻を蕩けさせると、腕を振ってキショウを放った。間を置かず肩に食い込んだ爪の感触に怖気が走る。
私を覗き込むフクロウの顔は無垢な子供のようにあどけない。なのに視線が、底なし沼のように黒々としたその眼が恐ろしい。羽根同士が擦れ合う音にさえ耳を塞ぎたくなる。
なぜかはわからないけれど、初めて目にした時からずっと、私はこの存在に胸騒ぎを覚えている。
「ねえ、知っていて? 私達、歳が同じですのよ。でもあなただけが見習いということは、今まで随分甘やかされたのね。過保護も困りものじゃないかしら。こうやって、巡り巡ってあなたを苦しめてる」
「……は、い」
「ふふ、どうか気を落とさないで。これから頑張ればよろしいの。私も陰ながら応援していますから」
優しくそう語る浄化師もまた、無垢で残酷なほど綺麗な笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆
それから二日が経った。
裏山への出発日は刻一刻と近づいているが、相変わらず何の音沙汰もない。そうなると気後れして町にも行けない私は、機械的に片付けと掃除を繰り返す他なかった。時折心配そうに寄り添い、でも何も聞かずにいてくれる契約者達の優しさに甘えながら。
話し合いが拗れているのだろうか。例えば、契約条件の折り合いがつかないとか。町長屋敷の壁になって聞いてみたい気もするが、私の能力がいかに足りないかを熱弁されていたら具合が悪くなりそう。もう想像だけで吐ける境地だ。
連日、シトシトと続く長雨が落ち込みをさらに助長する。これがあと何日続くのだろうか。
「……いや、ちょっと待って……実際はもうとっくに出発してるとか……!?」
そうした中で、最悪の閃きを得てしまったことをどうか責めないでほしい。私はあまりに臆病過ぎたのである。
「アオ? 出かけるのか?」
「散歩!!」
「いや絶対散歩の顔じゃないだろう。外だって雨が──」
居ても立っても居られなかった。お役御免ならそれでいい、でもあの人達が一言もなしに行ってしまうだろうか。一方で、そういうことなら今度こそ諦めもつく気がした。
とにかく踏ん切りをつけたくて、二階の私室からドタバタ駆け下り、広間の中央を爆走して、私は盛大に玄関の扉を開け放ち──。
「おお、アオ! 元気にしとったか! こんなに勢いよく出迎えてくれるとは、じじ孝行な孫じゃのう!」
「おっ、長……!?」
人好きのする気さくな雰囲気を湛えた、我が『アルヘイム』の里長──ニエマ氏その人に鉢合わせたのだった。




