第47話 わたしの心は雨模様
背後にずっといる『後ろに……』の正体を突き止めるべく、ユーンくんと一時的に別れた私は、一目散に大通り裏の細い路地へ飛び込んだ。
続けざまに初級基礎魔術の小さな追い風で加速。一本道を全速力で駆け抜け、角に滑り込んで身を隠す。さらに念のため、もう一つ奥の角まで走った。ここまで来れば撒けただろう。
凄まじい形相というからには、私以外には姿が見えているため、相手はおそらく半透明のアレではない。それでも怖いものは怖いので、一人で休憩なんて以ての外だった。狙撃でもされて野晒しになったらどうしてくれる。
そんな私の全身を、淡いシナモンブラウンの膜が包んでいる。「結界を張ってほしい」と頼んだ際のユーンくんの呆れ顔にはグサリときたものの、元はといえば教えてくれないのが意地悪なんじゃないか。そうだそうだ、私は悪くないのだ!
「……、……!?」
「~~……! ……っ……!」
「んん?」
角の向こうが何やら騒がしい。男女の言い合うような声がだんだん激しさを増している。
「だからッ! 触るなっつってんの!」
「……ラギー?」
首を伸ばした先に、見覚えのあるホワイトピンクグレージュ。その細い二の腕は誰かに掴まれており、彼女はそれを引き剥がそうと躍起になっていた。
いつかの宿屋での光景がフラッシュバックする。ラギーの表情は、嫌悪を前面に押し出したあの時と全く同じだった。
「しつこいってば! あんたらみたいなのがいるから……っ!」
「なんだよ、話すんのもだめなのかよ、ちょっとくらい──」
「お待たせー! ごめんね、遅れちゃった!」
お腹の底から声を張れば、自然と一歩が踏み出せた。その勢いのまま、二人の間に強引に割り込む。
真正面から捉えた男性は成人手前くらいの風貌だった。気合を入れて整えたであろう眉根が寄せられ、ラギーから離れた五指がグッと握り込まれる。一瞬手が出るかと身構えたが、不思議と怯えはなかった。殺気立った魔物の方がよっぽど恐ろしいことを私は知っている。
それに、今はユーンくんの結界もある。まともに殴りつければ骨にヒビくらいは入るはずの。そのことが強く背中を押してくれた。
「ごめんなさい、私達約束してるので! じゃ、行こう」
「あっ」
小さな呟きが路地裏に反響したが、振り返らずに進んだ。ラギーの手をしっかり握り、早足で大通りへ戻る。そうして、行き交う人々のざわざわとした喧騒が耳に届いた瞬間、とてつもない安堵がこみ上げてきた。
「ふう……しばらくここにいない方がいいかな。このまま歩いて家に行こう。時間は大丈夫?」
「う、うん。今日、休み……」
「そうなんだ! せっかくのお休みなのに災難だったねえ」
俯くラギーの顔は見えない。けれど、磨かれた指先がそろりと絡んできて、彼女が味わった恐怖は窺い知ることができた。
同時にみるみる湧いてくる庇護欲。この綺麗な蝶のような人を守らなくちゃ──大役を仰せつかった騎士のような心持ちで、私はもう一度姫君の御手を握り返した。
◆ ◆ ◆
「おかえり。お、ついに『背後霊』が正体を現したか」
尾行されていないか注意しつつ、到着した我が家にて。開口一番そう告げたユーンくんに「?」が浮かぶ。
「ユーンくん、ラギーだよラギー。ちょっとお茶しようと思って来てもらったの」
「……ごめん、その『背後霊』、あたし」
「はいぃ!? ちょ、ちょっと待ってね、とりあえず落ち着いてから聞かせてくれる?」
一体どういうことなのか。取り急ぎお客様には庭の急拵えテーブルセットに座ってもらい、手早く準備に取り掛かる。
最近の食事は専らこの野外スタイルだ。ユーンくん達が半ば無理矢理連れてきてくれるようになったとはいえ、ケルピーの怒りや警戒はまだ解けていない。そんな中で得体の知れないものを口にするのは嫌だろうと、庭に調理器具を持ち込んで、料理の過程をできるだけ開示するようにしていた。
「ラギー、お腹空いてる? 結構しっかりめのおやつ出してもいい?」
「あ、嬉しい嬉しい。空いてなくても、アオが作ってくれたものなら全部食べるから大丈夫」
「んへへ、照れる。じゃあどうぞ、春野菜のパイです。召し上がれ」
キャベツとタマネギ、ベーコンの三角パイを皿に盛る。普段は色々と中身を変えて作る、我が家の定番おやつ。冷凍すれば作り置きもできるし、その日の気分で塩味と甘味を選べて便利なのである。
これに白ワインを紅茶で割った飲み物を合わせれば、立派な軽食セットの出来上がりだ。
「あったかー! ねえ、野菜の味すごい濃くない!? 超おいしい!」
「よかった。お代わりあるから好きなだけ食べてね。ユーンくん、こっちのお皿は皆で分けてくれる? ケルピーも呼んで──うわっ!?」
振り返ると目の前にいた、大きな体躯の馬。ムーンストーン色の瞳に仰天した私が映るほどの距離で静かに佇んでいる。
内心、珍しいなと思った。ほとんど口を開かないのはいつものことだけれど、ここまで近くに来たのはルルフィン湖以来かもしれない。
「びっくりした……あ、これ、今日のおやつ。中はまだ熱いから気をつけて」
「…………」
「ケルピー?」
瞬きすらない、じっと固定された視線はラギーを見ている。そのまま数秒が経過した頃、不意に皿の上のパイの半分以上が一口で掻っ攫われ、気づいた時にはケルピーの姿は消えていた。「抜け駆けだ!」と憤慨するユーンくん達の声がどこか遠くに聞こえた。
「今あたし、見られてた?」
「そう見えたけど……」
「なんだろ。でも、アオの新しい契約魔物、初めて見た。シュッとしてて綺麗な馬だね」
「ね。人型も綺麗なんだよ」
「人型? 人間になれるってこと?」
「うん、私達よりちょっと歳下くらいの男の子」
私とラギーは成人を越えた同い年で、人型のケルピーはそれに届くか届かないかくらいに感じる。丁度、今日のナンパマンとさほど変わらないような。
おっと、嫌なことを思い出してしまった。悶々としていると、芸能人みたいな美貌がずいっと視界に割り込んでくる。迫力のある上目遣いがちょっとコワい。
「つまり、今のアオは人間の男と一つ屋根の下なの?」
「人間じゃなくて魔物だよ、ラギー……そういう相手は同じ種族になるんじゃないかな……」
「えー、人間になれるならわかんないよ! 本当、気をつけてよアオ! 必要以上にニコニコしたり薄着でいたり、手料理なんて以ての外──あ゛っ!? 野郎、今フツーに食べてやがったな!?」
「いやいや……それを言うならむしろ、あんなに見つめられてたラギーの方がそれっぽいと思うよ。一目惚れとかさ」
「ううん、それこそない。絶っ対、ない。あたしがこの瞬間男になるくらい、ない!」
「わ、わかるんだ」
「わかるよ。……そういう雰囲気くらい」
グラスを傾けた手が止まる。ああそうか、美しい彼女はずっとそうした目を──。
何を言ったらいいかわからないでいる私に、ラギーは穏やかな笑みを浮かべた。
「今日、ありがとね。いつもだとカウンターがあるし獣人三兄弟もいるから、ちょっと油断しちゃってたんだ。でもアオ、超かっこよかった」
「え、えへっ、そうかなっ!? 実はユーンくんの結界があって、パンチ一発くらいなら大丈夫かなって強気になってて……」
「何だって!? 俺は殴られてもいいように結界を張ったわけじゃないぞ!?」
「うわあ聞こえてたっ! ごめんなさいごめんなさいかくかくしかじかでつい~~~!」
高速で飛んできたユーンくんが頭にビタッと張りついたせいで、パイの欠片がパラパラ落ちてくる。尖った破片が刺さって地味に痛い。そして尚食べるのをやめてくれない。
「あはは! 頭の上パイまみれ!」
「ううう……髪の毛念入りに洗わなきゃ……」
「ふふ、ふ……アオはさ、そうやって気が強い方じゃないのに、そういう時はすごく強くなるんだよね。前もそうだった。めんどくさいサルみたいな奴らにも怒ってくれてさ、いつもあたしを助けてくれる……だから今日も、見かけてつい追いかけちゃって……」
「……ラギー?」
様子がおかしい。朗らかによく動く凛々しい太眉も勝気そうな吊り目も、今はただただ伏せられて、垂れ下がる長い髪によってカーテンのように覆われていた。
「どうしたの……? 何か、あった……?」
「あたしのせいなの、あたしのせいで、宿屋はもう……」
絶望の淵で垂らされた一筋の糸にしがみつくように、ラギーは私の服を何度も掴んでは引いた。華奢な背はかわいそうなほど震えている。咄嗟に抱き留めれば、小さな嗚咽が鼓膜を揺らした。
「…………たすけて、アオ…………」
ぽた、と手首に熱いものが落ちる。喉の奥から絞り出すようなその慟哭は、まるで神への祈りに似ていた。




