第41話 C級昇級試験:指定品を納品せよ③
こぽ、こぽ、と泡粒が水面に浮かんでいく。必死に唇を閉じるが、じわじわと胸が圧し潰されていくせいで、ほんの少しの隙間からでも命綱が溢れ出てしまう。
こちらを足蹴にする蹄にいくら爪を立てても全く効果はなかった。それどころか、嘲笑うようにますます体重をかけられる。もう痛いのかどうかすらわからない。ただただ「苦しい」という思考に支配されていた。
「アンタ、あの時のヤツだろ。『助けてくれてありがとう』なんて、俺にバカみたいなこと言ってきた」
周囲から波のように声が押し寄せてきた。目の前の水棲馬は一切口を動かしていないのに、頭の中で幾重にも音が反響する。
「人間ってほんとにぼけーっとしてるんだよなあ。喰うものに困ってないから? 今までのも全部、アンタみたいに目開けたまま黙って死んでったよ。ま、おかげで俺は喰べやすかったけど」
儚い印象を与える細面が眼前に迫る。ミシ、と胸板が軋んだ。
「アクリスよりかはマシそうだ。前は余計なのがいたから雑魚だけで引き上げるハメになったけど、今日こそ喰ってやるよ。ほら、早く吐きな。死んだら何も痛くないからさ────」
艶やかな声音が毒みたいに全身を巡る。触発されたように顎が跳ね上がり、後頭部が岩盤を擦った。空気が欲しい、力を抜きたい、楽になりたい。それしか考えられなくて、踵が何度も水底を蹴った。自由にならない身体がもどかしくて恨めしかった。
狭まっていく視野の中で、ケルピーが大きく口を開けたのが見えた。同時にあの日の光景が蘇る。上下に喰い千切られたウォーター・リーパーのように、私もああなるのか。恨み言を残しながら、ヒイヒイ泣いて死を受け入れるのか──。
「ごぼっ!」
──まさか。そんなことできるはずがない。私がここにいるのは大人しく死ぬためなんかじゃない。
「!?」
火事場の馬鹿力だろうか。思いきり引き抜いて振り被った、壊れかけのポーチがケルピーの口内に飛び込んだ。間髪入れず、ギロチンのように振り下ろされた歯が革に突き刺さる。破れたところからポーションの小瓶やシリアルバーの破片が水中に散らばった。
目を白黒させる様子に一瞬気が晴れて、思わず口の端が歪んだ。きっと舌でも切れたのだろう、にわかにケルピーの目尻が鋭くなる。吸い寄せられるように水が渦巻き始め、カッと開かれた口にみるみる水球が膨れ上がっていく。けれど、そんなものを突きつけられたところで、恐怖心などとうになかった。
ああ、だめだ。もう何も聞こえない。でも、こんなに静かな夜は久しぶり。ベッドに入る寸前まで、いつもずっと賑やかで──そうだ、彼らなら、ユーンくんなら、契約者が『大人しく』死ななかったことだけは褒めてくれるだろうか。
そうだったらいいね、と誰かが囁いた。
◆ ◆ ◆
「────……」
暗闇の片隅がかすかに明滅している。あれ、と意識が身を起こした。もう朝になったのだろうか。
「──────ッ! ゲッホ! ゴホ、ゲホゲホッ!」
ばちゃっ、と吐き出した水が広がって、眼下の土を黒く染め上げた。急速に感覚が戻ってくる。激しく咳き込んだ喉が痛い。胸のあたりにもジンジン響く鈍痛がある。
甲高い耳鳴りにこめかみを押さえつつ、のろのろと首を上げると、そこはいつの間にか湖の外だった。確かに落ちたはずなのに。私は助かったのだろうか、しかしなぜ。
『大丈夫か? この字が読める?』
唐突に角張った文字が視界を埋め尽くした。呆気に取られていれば、すぐに手帳は引っ込められ、代わりにレザーグローブの感触に頬を覆われる。
私の顔をあちこちに向けたり、下瞼を引っ張ったりして覗き込んでいるのはオルゼスタさんだった。
「げほ、お、オルゼスタさ、大丈夫です、字、読めます」
納得したのか手が離れる。そのまま、まだ咳き込む背中を優しくさすってくれた。
「助かりました……ありがとうございます」
『遅れて申し訳なかった。足跡が二つあって、どちらか少し迷った』
「足跡……あ、ケルピーが──」
スッとグローブが指差す。同じく湖から引きずり出されたのか、ケルピーは私達の後方にいた。距離はほとんどない。反射的にあの水球が思い出されて、無意識に後退してしまう。
「あ、あの、あれ、あのっ!」
『大丈夫』
「でっ、でも! 攻撃しようとしてますよっ!?」
四肢を大きく開き、大地を確と踏み締め、低く構えたケルピーが不穏な唸り声を発する。見る間に宙にいくつもの水球が発生し、形を変えていく。ウォーター・リーパーのものと同じ、半月型の水属性魔術だ。ただし数はその比ではない。無数の水の刃が寸分違わずこちらに突進してくる。
「オルゼスタさんッ!」
半狂乱で叫んでも微動だにしない。私の真横に膝をついた彼は、ある種確信めいたように真っ直ぐ前を見つめていた。最上級のギルド員が動かないのに、魔力の残りもカスカスな私に何ができようか。半ば諦めた気持ちで瞼をきつく閉じる他なかった。
「……っ!!」
大量の破裂音が湖畔に鳴り響いた。だが、いつまで経っても衝撃はやってこない。僅かに薄目を開ければ、ケルピーが苛立ったように滅茶苦茶に首を振っていた。
「ふざけるな……ふざけんな、このっ!」
ノーモーションで一筋の光線が放たれる。水を凝縮したそれは、目にも止まらぬ速さでこちらを射抜くかと思われたが、直後、軌道を無理矢理捻じ曲げられたかのようにあらぬ方角へ逸れていった。一拍遅れて木々が次々に倒れていく。露出した切断面は整然としていて、一部のささくれもない。
間違いない、あのウォータージェットみたいな細い水流がアクリス達の死因だ。なのにどうして私達を切れなかったのか──その疑問を代弁したようにケルピーが吠えた。
「俺を契約させやがってッ!!」
「………………へっ?」
言葉の意味が飲み込めなかった。ほとんど殺されかけていたのに、いつ、どうやって。そもそも私はケルピーの魔石なんて持っていない。一抹の不安から持ち物をひっくり返したけれど、当たり前のように出てこなかった。
そこではたと気づく。あ、オルゼスタさんのことか。そうだそうだ、勘違いだ。まあいやだ、恥ずかしい思い込みをしてしまった。
『ケルピーが契約しているのは君だ』
「嘘でしょ……」
残酷な一行を呆然と目で追う。何度読んでも全く理解できなくて頭痛がした。
「だってその、どうやって……? 魔石もないし、私も魔力とか何も……んん?」
私の魔力。割れたポーション。食べられたシリアルバー。全身の毛穴からぶわっと汗が噴き出す。
「いやいやいやまさかそんな……」
『魔石がないなら仮の状態なのかもしれない。それでも、君を攻撃できないのは最低限の契約履行がなされているからだ』
契約した魔物が契約者を害することはない。彼らの砕かれた魔石を補う契約者の魔力がそれを止めるのだという。大体は本人の意思で魔石を渡すため、そういった状況に陥ること自体珍しいそうだが。
聞けば聞くほど現実味を帯びてくる。まだ詳細は不明だが、少なくともケルピーが私を殺すことができないということだけはわかった。
「くそがっ!!」
とはいえ、捕食対象が突然自身を縛りつけることができる存在になったというのは、なかなかに受け入れ難いことだろう。手当たり次第に周りを破壊し、子供の癇癪みたいに暴れ回る様は気の毒というか、何ともいえない気分になる。
「アオー! 無事かー!?」
そこへ、ユーンくんが数体のゴーレムと灰色の小鳥達を引き連れてきた。ケルピーがたちまち目の色を変え、瞬時に水の刃を差し向けたが、私が慌てて射線に滑り込んだために案の定不発に終わった。
「うわっ!? 何してるんだ君、危ないだろう!?」
「えーと、かくかくしかじかで……とにかくケルピーは私に危害を加えられないから弾除けになるよ……」
「はあ……? というか君、ボロボロじゃないか! 回復は? 魔力が切れそう? ならケチらないでポーションを……それもない? おいおい、一体何があったんだ」
事情を話し(一人で不審者に声をかけたお説教をくらい、それ以上に労わられた)、私とユーンくんはひとまず引き上げることになった。試験官から見てもアクリス八体の討伐は完遂しているので、後は魔石とケルピーを持って帰るまでが試験だと言われたのである。
「まあ確かに、契約した魔物を放置はできないな。何かあればアオの監督責任が問われる」
「でもめちゃめちゃ暴れてるんですが……」
相変わらず森が壊れていく音が木霊している。魔力が尽きたのか、今度は木を蹴りまくっているケルピーは血管がブチ切れそう。そしてこれは契約が判明した当初からなのだが、凄まじい眼光で以て私を睨んでくるので、胃がキリキリした。殺されなくても寿命が削られそうだ。
そんなケルピーの後頭部へ、大きな鞘が豪速でめり込んだ。
「ギャーッ!?」
『これなら持って帰れると思う』
「君、顔に似合わず結構即物的だな……」
新たな三体のアクリスと失神したケルピーを植物の蔓でぐるぐる巻きにし、それぞれゴーレムに括り付ける。ケルピーに至ってはアクリスよりも一回り大きいため、運び手が二体必要だった。
すると、小鳥達がゴーレムの上から降りてきて、ケルピーの身体の上をチュンチュン跳ね回り出した。中には腰を落ち着けてウットリしている子もいる。
「『冷たくて気持ちいい』んだと。水属性だからか?」
「ウーン、頼もしいほど肝が据わってる……」
相手は魔物なのに怖くないのだろうか。羽毛に埋まった頭部を撫でると、そんな気配が微塵もない愛らしい鳴き声がした。
「じゃあ、私達は一足先にお暇させていただきますが……」
『気をつけて。自分はもう一匹を排除する』
手帳を仕舞い、オルゼスタさんは宝石のように輝く大剣を軽々と振り回した。途端に目つきが一変し、凍てついた視線が冴え渡る。これが殺気か。ぴりぴり粟立つ、落ち着かない肌を服の上から抑える。
彼は道中、一体何を見たのだろう。
「っ……、ユーンくん、邪魔になっちゃうから先に行こう」
「いや──」
ゴーレムが一斉に停止する。私の前に手をかざしたユーンくんが低く呟いた。
「もう来てる」
刹那、轟音が駆け抜けた。腹の底を叩かれているような重々しい震動が、ずん、と地を穿つ。全員が背中を突き合わせ、慎重に四方を窺う。一つ、また一つと地面が震える度、バサバサと森林が薙ぎ倒され、足裏が浮き上がった。
それは不意に現れた。突如として木立の間に一際高い尖塔が生えたと思いきや、ひと揺れごとにこちらへ近づいてくる。まだ正体がわかったわけではないのに足が竦んだ。この世界であんなに上背があるものを、私はこの時まで目にしたことがなかった。
奥から丸太のようなものがにゅうっと伸びてくる。指だ。巨大な五指が樹木を掻き分け、合間から尖塔──否、アルミラージのそれより何倍も太くて長い一本角が太陽に照らされた。
「おほお~~~! にくがあるぞお~~~!」
にたりと裂けた大口から粘着質な野太いだみ声。土と炎の色をした巨人の単眼が私達を捉え、どろりと歓喜に蕩けた。




