第37話 至るもの
奥底から意識が浮上する。失いかけていた輪郭を取り戻すように、全身に五感が戻ってくる。
ゆるゆると瞼を持ち上げると、こちらを逆さまに覗き込む二匹の可愛い生き物がいた。
「お目覚めですか、アオ殿!」
「プー!」
「……おはようございます……」
横たわったまま視線を巡らせれば、そこは見慣れた我が家の広間だった。内心安堵しつつ、毛布を退けて起き上がる。気遣ってくれたのだろう、灯りは最小限に絞られていたが、薄暗い室内はとても温かった。
私に気づいたユーンくんがキッチンの奥から顔を覗かせる。
「起きられたか。具合は?」
「大丈夫。寝不足でお酒回っちゃったみたい。迷惑かけてごめんね」
「病み上がりがそんなこと気にするなよ。ほら、立ってないで座ってくれ」
ダイニングテーブルにつくと、ドライアドを背に乗せたマートル・ビーが目の前に飛んできた。着地するなりすぐさま駆け寄ってきた彼らは、私の手にそっと触れ、ハラハラした様子でこちらを見上げる。
「申し訳ございませぬ、某が寝こけていたせいで……あの時のアオ殿の真っ青な顔色といったらもう……! 生きた心地がしませんでした……」
「プププ、プー!」
「ううんまさか、ドライアドのせいじゃないよ、私の体調管理不足だよ。ごめんね、心配かけちゃったね」
「にしても驚いたぜ。知らない奴がいきなり庭に入ってきたと思ったら、ぐったりした君を抱えてるんだもんな」
「っそうだ、その人は!?」
「茶の一杯も飲まずに帰って行ったぜ。意思を伝える気概はあるのに、随分無口な性格だったな」
ユーンくんが肩を竦める。彼によれば、私をこの家まで抱えてきてくれた人物は、目的は果たしたとばかりに早々に立ち去ってしまったらしい。
「そっか……捜して御礼しないと」
「当てはあるのか?」
「うん、一応。たぶんギルドの人だと思う」
ちらりと見えた銀と紫のバングルを思い出す。伝説級や災害級の魔物を相手取れるAAA級のギルド員かつそれなりの職員権限を持つ人。そのレベルの戦闘力は稀有な存在だろうし、アッドさんに聞けばわかるだろう。
それにしてもだ。なぜあの時の私は、当人の素性を知る前に無条件で身を任せてしまったのだろうか。そしてその判断が間違っていなかったことを、他ならぬ私が一番確信しているのはなぜなのだろうか。
「……私、今日初めてあの人に会ったはずなんだけどね、何でか人となりがわかってたっていうか……『送る』って言われた時、『あ、じゃあお願いします』みたいな、いつも通りみたいな既視感があって……ごめん、あんまり良いことじゃないのはわかってるんだけど。というか本当に図々しかったな私……」
「まあ結果的に何もなかったからいいものの、本来は褒められたことじゃないな。ただ君のその『何となく、でも確信めいた直感』みたいなものは気になる。そういうの、初めてじゃないか?」
「うん……すごく不思議な感じなんだよね。もしかして忘れてるだけで、前にどこかで会ったことがあるのかな……いやでもな……AAA級に知り合い……?」
異物である私にこの世界の過去の記憶はない。となると、青髪の人に抱く親近感や信頼のようなこの感情は、主人公の記憶なのかもしれない。しかし一方で、幼い頃からアオイと一緒にいるユーンくんが「知らない奴」だと言う。この矛盾は一体何なのだろうか。
ぐるぐる渦巻く思考に煮詰まって、大人しく成り行きを見守ってくれていたドライアドとマートル・ビーの頭部をそっとなぞる。途端にぱっと華やいだ表情を向けられ、釣られて口の端が緩んだ。「構われて嬉しい」と訴えかけられているみたいで、胸がじんわり綻んでいく。
それがどうも綻び過ぎたらしく、胃のあたりから奇声のような音が発せられ、びっくりした二匹が飛び上がった。
「なるほど、食欲は問題なさそうだな。まずは腹拵えしよう」
呆れたように笑ったユーンくんが指を振る。運ばれてきたのは、透明なタマネギとチーズ、パセリの色合いが綺麗なオニオングラタンスープだった。
手を合わせてスプーンを差し込むと、溶けたチーズと一緒にパンがほろりと崩れた。起き抜けの胃にはとても消化に良さそうだ。嬉しい心遣いと一緒にぱくりと頬張った、次の瞬間──。
「んっ?」
衝動に手が止まる。微弱な電流のような、奇妙な感覚が頭から爪先まで駆け抜けたからだ。驚いてユーンくんを振り返れば、何やら悪戯っぽくニヤニヤしている。
「ちょっと待って、何か、すっごく……!」
「『すっごく』?」
「美味しい! 何で!?」
「美味いならよかったじゃないか」
「いや、その、なんか……なんか違う! なんかこう、深みがあるっていうか、なんか!」
「あはははは! 語彙なくなってる!」
したり顔で爆笑するユーンくんを余所に、私は半信半疑のまま、もう一口、もう一口とスープを掻き込む。終いにはまどろっこしくなって、ボウルごと傾けても尚止まらない。
ひしめき合う具材の中でも一際目を引く、瑞々しく輝く断面。この味の正体はおそらくタマネギだ。あの独特の辛味はなく、後を引く強い甘味。柔らかい食感は歯を立てずともぷつりと解け、するすると喉奥に流れ込む。
そうして胃に辿り着けば、今度は火が灯るように、手足の先端へ徐々に熱が伝達していくのが如実にわかった。噛んで収めることによって、活力や魔力が漲っていく気がする。幾度となく繰り返してきた食事という行為、そしてその効果を、こんなにもはっきりと知覚したのは久しぶりだった。
「一足先に畑で採れたものを使ってみた。君なら気づくと思ったぜ」
「うん、里で食べてたタマネギと同じ味がする……つまり──」
「俺達は異国の地でようやくその境地に至った、ってことだ」
ユーンくんの微笑みに、得も言われぬ充足感が身体中を満たしていく。里とは違い、栄養の欠けた種と土壌へ来る日も来る日も魔力を流し続け、歯を喰いしばって魔力水を与え続け、そして一度は頓挫しかけた計画。その成果が今、文字通り実を結んだのだ。
空っぽのボウルに視界が水っぽくなってくる。気を抜くと色々なものが溢れてしまいそうで、痙攣する喉を必死で絞った。
「私、遭難した時これ出されたらたぶん昇天しちゃう……」
「ニエマもきっとそう言うさ。胸張って報告しないとな」
「うん、いくつか送ってみる。みんなもありがとう。……私一人だったら、たぶんあの時折れちゃってたと思うから」
今でもたまに不安になる。ふと目を離した隙に、畑がまたぐちゃぐちゃになっているのではないかと。彼らがいてくれなかったら、私は今よりずっとヴェルナさんを恨んでいただろう。
そう、あり得たかもしれない未来はいつもすぐ傍に横たわっている。たまに錯覚しそうになるが、セーブもロードもない生活は人生と変わりない。特に魔物や魔術が存在するこの世界には、選択を間違えれば即座に死に至る危険性がごろごろ転がっているのだ。
そんなところで私は運良く彼らに出会い、常に助けてもらっている。これでは独りになった途端に孤独死しそうだと、胸の内で情けなさを感じていると、ユーンくんの小さな掌が鼻頭にぺたりと置かれた。
「契約ってのはそういうことだぜ、アオ。俺達は同じ種族じゃないから、呆気ないほど単純な理由で別れが来ることもある。だから契約するんだ。君の力になって、君の幸せを喜んで、君の苦しみを払って。そうやって君と一緒に生きていけるように、目に見える形で君に縛り付けてもらうんだ」
「ユーンくん……」
「こう言うと君は『自分ばっかり得してる』って思うのかもしれないけどな。俺達だって、君の魔力が体内にあることで、本来の力量以上の魔術が使えたりするんだぜ?」
「おっしゃる通り! 某、森にいた頃はここまで多くのものを育てきることなどできませなんだ。しかし今は、魔術を発動する度にアオ殿が支えてくださっているような心持ちがあり! あれよあれよという間に育てきれてしまうのです!」
「ププー! プププー!」
「ま、そういうことだ。君は未だに契約について腑に落ちてないように見えるからな。そういう理由が大半だってことは覚えておいてくれ」
「……うん、ありがとう」
──本当に、私は心底恵まれている。以前の世界から切り離されたことすら、よかったかもしれないと思うほどに。
◆ ◆ ◆
「テンメェ……またケモノ臭させやがって……殺されてェならそう言えや」
「ギャーッ! ちがっ、違います!! かくかくしかじかで不可抗力ですッ!!」
空の小瓶が苛立たしげに放られる。慌ててキャッチした瞬間、物騒な台詞と共に腕が伸びてきたので、寸でのところで飛び退いた。鋭い舌打ちが倉庫内に響く。
今回ヴェルナさんに試してもらったのは抗痺薬。当初は麻痺草しか見つからなかったのだが、集落の向こう側に生えているものをパラルフェルの人達が送ってくれたのである。
「どうでした? 不具合とかありませんでしたか?」
「逆に聞くが、今テメェが死んでねえ理由は?」
「……あ、もしや今日はあまりご機嫌が……」
「テメェの薬使ってやってんだからわかってんだろうが。さっさとやれよ」
今度は避けきれなかった。ガッチリ掴まれた後頭部を瞬きの間に引き寄せられ、ギクリと身体が強張る。前回の頭突きが蘇ったからだ。
隠されない不機嫌さによる怯えがさらに拍車をかけて、置物みたいにカチコチになった私に、ヴェルナさんが「あ?」と片眉を上げる。
「なんだよ」
「いや、頭を……できれば放していただけないかな、と……手は届くので……」
「…………」
ファイアレッドの瞳が忌々しそうに細められる。同時にぐしゃりと後ろ髪を握り込まれる音がして、肩が跳ねた。半獣人の握力に骨が軋んだ感覚がどうしても思い起こされてしまう。
ああでも、まずったかも──半歩遅れて冷や汗が噴き出す。咄嗟に口に出してしまったが、一時的に強まっている槍の呪いのせいで彼女も余裕がないはずだ。罵声は受けられてもあの痛みは遠慮したくて、そろそろと顎を引く。
「っ……?」
そこで私は目を疑った。俯いた先、針金でも通っているかのようにピンとした黒い尾が寄ってくる。音もなく私の腰に回ったそれは、先端を器用に曲げて、まるで傘の持ち手みたいに引っかかった。いつの間にか髪も解放されている。
臭い臭いとのたまう割に、どこかしら繋いでおかないといけないルールでもあるのだろうか。だがこれで差し当たっての危険性はなくなったので、あえて言及はしない。たぶん問答している時間も惜しいほど辛いのだろう。
「ありがとうございます、では失礼します……」
「フン」
鼻を鳴らしながらも、ヴェルナさんは静かに首を下げてくれた。立っていると彼女は私より頭一つ以上大きいのだ。
屹立する獣耳を掌で覆い、魔力を注ぎ込む。手持ち無沙汰にこっそり盗み見れば、瞼を閉じているヴェルナさんの顔回りはとても繊細なつくりをしていた。羨ましいほどの小顔に黒々とした睫毛、ツンと上向いた小さな鼻。言動の苛烈さに忘れがちになるが、造形自体は少女のように可愛らしい。
そんなヒトが私の前で大人しく佇んでいる。だからだろうか、ついうっかり、思案したことをそのまま投げかけてしまった。──彼女の気も知らずに。
「……今日、お夕飯ってもう召し上がりました?」
「あ?」
「畑でできたタマネギ、すごく美味しかったんです。私の契約妖精がそれでスープを作ってくれて。まだだったらどうかなって」
「…………ク、ハハハッ!」
あ、と身構えた時にはもう遅かった。掬い上げるように顎を鷲掴みにされ、ギリ、と力が込められる。
「半獣人に皮肉は通じねェだろうって? 舐められたモンだなァ、尖り耳」
「う、ぐ……っ!」
「テメェがブッ壊したモンは全部キレーになりましたってか。ナルホド、ならいくら壊そうが構わねェってことだな?」
「ちが、っ」
「どいつもこいつもオレをバカにしやがって……ッ!」
血反吐のように吐き捨てられた怨嗟。一瞬で血走った炎のような眼に肌が粟立つ。
「違います! 私はただ、あなたの食べるものが知りたくて……っ!」
「……旗色が悪くなったら媚びるつもりかよ。このまま顎砕いてやろうか」
「んぎ……! ちょ、っと、一旦! 一旦聞いてくださいっ!」
ミシミシ鳴り始めた骨に慄きながらも叫ぶと、僅かに圧迫感が緩んだ。それでも手どころか尻尾すら離れず、のけ反った背骨が痛かった。
「あのですね! まず前提として、うちの畑でできたものには私の魔力が宿っています。私がさっきまでヴェルナさんに流してたのと同じものです。つまり、あなたの呪いを和らげる効果があるということです」
「…………」
「それに、申し訳ないとは思いますが、現状獣人のニオイをどうこうするのは難しいんです。ロンドルフさん達には仕事でお世話になることも多いし、お会いする度にあなたのニオイとやらを上書きされるので……ヴェルナさんだって毎回獣人のニオイがするのは嫌でしょう? だから携帯食料とか、私が直接魔力を流さなくても呪いを抑えられるならその方がいいかなって、思って……薬を試してもらえるのは助かってますし……」
「…………」
「……でも、よくよく考えたら確かに嫌味っぽい言い方してましたね……そこは私の落ち度です。不快にさせてしまってすみませんでした」
火炎の如き双眸がじっと私を見据える。意図を探り、真意を読み、相手の全てを詳らかにして品定めするように。喋れない動物がそうするように、ヴェルナさんの目は絶えず対象を捕捉している。その疑り深さは半獣人という生い立ちによるものだろう。
背景の一部は知っているが、私とて畑を滅茶苦茶にされたこと、マートル・ビー共々殺されかけたことを許したわけではない。でも今は彼女を心配する気持ちの方が大きかった。攻撃的な面が目立つけれど、それだけでないことは彼女自身が証明してくれたし、私が自分の怒りを公私混同せずにいられるのは、契約してくれた彼らのおかげだ。
打算的なのは百も承知で、仕事のために今の関係はなるべく維持したい。そのためにできること、彼女が望むことは可能な限り叶えたかった。
「…………アホか」
不意に締め付けがなくなった。ヴェルナさんは興味を失ったように憮然とした顔をして、長い長い溜息を吐く。
「要らねェよ。タマネギなんぞ喰うヤツの正気が知れねェ」
「お嫌いですか」
「好きとか嫌いとかじゃねえ、合わねェんだよ」
「……もしかして、ヴェルナさんの獣人の血って犬ですか?」
寄越される「今更?」と言わんばかりの胡乱な目つき。鈍痛のする顎を擦りながら、だってしょうがないじゃないか、と心中で唇を尖らせる。三角の耳と尻尾なんて当て嵌まる獣が多過ぎる。
「じゃあ何が好──ひっ!?」
突然襲いかかってきた、ぬるりとした生々しい感触。覆い被さってくるヴェルナさんから伸びた舌が、無理矢理露にされた私の顎回りを這っていた。震えて引けた腰元を尾にグイと引き戻される。
──だから他人にあなたの自己治癒力は効かないってのに!
「ぅ、わ、ちょっ、ちょっと待って、ヴェルナさ、ぎゃっ!?」
がぷっ。漫画なら確実に描かれていたであろう擬音が頬に突き刺さる。おそるおそる手をやれば、唾液に塗れた凹凸の痕が指先に触れた。
またしても衝撃に腰を抜かした私を見下ろし、ヴェルナさんはぺろりと牙を舐める。
「はっ、はが……歯形がぁあ……!」
「肉」
「へっ? あ、好きなもの……? 魔力入りのお肉はちょっとその……ご用意がなく……」
「ハッ! デカい口叩く割に使えねェな、お節介女。ならテメェで代用するしかねェだろ。オラ立てよ」
「ギャーッ!?」
私の襟を引っ張り上げ、凄みのある笑みを浮かべる肉食獣の化身。恐い、物凄く恐い。捕食される寸前の動物ってこんな気分なんだろうか。
でも、何だか少し──楽しそう、かも。つい先程まで張り詰めていた面持ちに多少のバリエーションが増えてほっとする。呪いに強いられている不快感等ではなく、彼女自身の感情の発露だと思えたから。
そんな風に無意識に見つめていたために、半獣人の鋭い嗅覚は何かを感じ取ったようで。がぱっと剥かれた牙が迫り、再び私の貧弱な悲鳴が木霊するまで、あと──。




