第30話 忌まわしきこの血が吠え立てるまま
「っ、ヴェルナさん? どうしたんですか!? ヴェルナさん!!」
脂汗が酷い。彼女の身体の下の地表はぐっしょり濡れていて、濃く変色するほどだった。一体いつからこうだったのだろう。
怪我か、病気か、例の槍の副作用か。原因がわからないまま、とにかくがむしゃらに回復魔術を発動させる。
「ヴェルナさん、大丈夫ですか!? どこか痛みますか!? ヴェルナさん!」
「……ハッ……ハッ……」
ヴェルナさんはもう声すら上げられないようだった。虚ろな瞳であらぬ方向をぼうっと眺めている。まるで翅をもがれた蝶のような、命の灯が消える寸前の如きその儚さに背筋がぞっとした。
かざした両手ががくがくと震える。魔術はちゃんと効いているのだろうか。そもそも魔術耐性の少ない半獣人にどう作用するのか。悪化させるだけだったらどうしよう。本来なら真っ先に選択されるはずの唯一の手段にさえ疑念が浮かんで、でも他に方法を知らなくて、ひたすら魔力を絞り出す。
「ああ、ごめ、ごめんなさい、私そんなに回復魔術使ったことなくて……っ! もっと上手なヒト呼んでき──」
引っ込めかけた私の手首を、息を飲むほど熱い何かが掴む。
「…………つ、づけ……ろ」
こちらを強く睨んだファイアレッドの眼差し。炎のように揺らめく赤と黄の虹彩がはっきり私を捉えていた。
それを見た途端、上から肩を押さえつけられたみたいに、立ち上がりかけた足がぺたんと地面についた。そうして言われるがまま、ふらふらと掌を向ける。自身の内側で魔力を練り上げ、特定の箇所から体外に放出する──魔術の基礎の基礎であるそのイメージを、それだけを念入りに思い描いた。
ヴェルナさんの呼吸音だけが暗い作業場に木霊する。最初の頃は悲鳴を飲み込むようにくぐもった唸り声を発していたが、徐々に眉間の皺が解けていき、汗も乾いていった。どうやら私がパニックを起こしただけで、魔術自体はきちんと機能していたらしい。
「……ハ」
やがて、短く息を吐き出したヴェルナさんが身を起こした。相変わらず濃い隈はあったが、表情は解放されたように落ち着いている。もう大丈夫だろうか。
しかし、そろそろと離しかけた両手はまたも彼女に阻まれることとなる。
「ヴェルナさん……?」
「…………」
先程よりも大分体温の下がった、けれどまだ熱の残る五指が私の手首に絡む。間髪入れずグッと力を込められ、骨が軋んだ。思わず肩を竦ませる私を余所に、そのまま容赦のない力でグイと引き寄せられる。
つんのめったこちらを気にも留めず、ヴェルナさんは静かに目を伏せたまま、私の手を自分の獣の方の耳(驚くべきことに、半獣人は人間と獣双方の耳をワンセットずつ持っている)に被せた。おや、柔らかい。チクチクしているのかと思いきや、耳朶を覆う毛は存外滑らかで──。
「いや……いやいやいやそうじゃなくて。あの、これは一体……」
「うるせえな……耳元でデケェ声出すなクソ耳女」
「くっ、くくくそみみおんな!?」
「早くさっきのやれよ」
「こ……この……!」
ヴェルナさんはすっかり調子を取り戻したようで、じろっとした目つきで私を咎める。いやいや、怒りたいのはこっちだ。倒れていたところを介抱したのに、なぜこんな暴言を吐かれなければならない。何かにつけて命令してくるのも腹立たしい。
ムッとして両腕を引っ込めようとすると、ヴェルナさんがぽつりと呟いた。
「……『声』がどうやっても離れねえ。テメェの薬とやらを試したら倍酷くなりやがった。責任取れよ……」
心臓がひやりとした。彼女の傍に転がる二つの空の小瓶。私の調合したそれらが一連の原因なのだとしたら。
すうっと全身から血の気が引いていく。いつぞや私を苛んだ『声』が頭にガンガン響いた気がして、振り払うように魔力を込めた。噛んだ唇がぎりぎり音を立てていた。
「く……薬を飲んだから具合が……?」
「その後だ。アイツらは血に飢えてる。殺せば殺すほど喜びやがる。日頃喚き散らしてるその『声』が届かなくなればどうする」
「……? もっと大きな『声』を出す、とか……?」
「そういうこったろ。テメェの薬が切れた瞬間、バカみてェにギャーギャー叫び出した」
「……んん? それ私のせいです……?」
「他に誰がいんだよ」
「ええ……? なんかよくわからなくなってきた……」
『声』が聞こえなくなったのは、槍の呪いが一時ヴェルナさんから薄れたから。薬、つまり私の魔力が作用したということだ(理屈は今もわからないままだけれど)。ただし、魔力が時間と共に身体から抜けていけば、私にすら弱ったところを晒すほどの反動がきてしまう。まさに諸刃の剣だ。
首を動かしてヴェルナさんを見下ろす。私の手首をがっちりと掴んだまま、彼女は俯いて目を閉じている。先端を丸めた獣耳が時折ぴくりと痙攣して、私の掌を優しく擦った。
その耳の付け根には、細かな傷痕がびっしり刻まれていた。髪の隙間から覗く人間の方の耳にも。大分古いものだ。獣人には及ばなくとも、半獣人もかなりの自己治癒力を持っているはずなのに、それでも治らなかったほどの傷。呪いに耳朶を塞ぎ、掻き毟り、新たな血が流れても、何度も何度も。そうやって槍は彼女を苦しめたのだろうか。そうまでして彼女は槍を持ちたかったのだろうか。
「…………もういい」
しばらくして、ヴェルナさんが手を払った。溜まった息を深く長く吐き出す様子はまだ本調子ではなさそうだったけれど、反動を軽減するために『声』が届く余地を残しておかないといけないらしい。
存外呆気なく拘束を解かれた私の両手首は真っ赤だった。どちらにもくっきりと指の跡がついていて、あまりに見事な紅葉にいっそ笑ってしまうくらいだった。アッドさんが言うように、半獣人の膂力は人間より遥かに強い。
きっとそのうち痛み出すだろうから、今のうちに回復魔術をかけておこう。特にユーンくんを心配させてしまう前に。最近はずっと彼の表情を曇らせてしまうばかりだから。
「チッ……この程度でそれかよ」
「あはは……人間よりは丈夫なはずなんですけどね……ハーフエルフも意外と脆いのか、も──」
言葉が不自然に途切れた。ぬるりと肌を這う生温かい感触に総毛立ったからだ。
──ヴェルナさんが私の手首を舐めている。
「っう、わあ!? な、な、なに、なんでっ」
「あ? 何言ってんだテメェ、オレには治癒力が」
「それ自分にしか効かないやつじゃなかったでしたっけ!?」
「そうだっけ?」という顔で首を傾げるヴェルナさんから急いで飛び退く。つい先日殺そうとしたばかりの相手にこの距離感。零と百の間を超高速で反復横跳びされて、どっと疲れが襲ってくる。
ヴェルナさんはまだ腑に落ちていないようだったが、程なくして立ち上がった。槍片手に、情けなく腰を抜かしている私をじっと睨む。
「……テメェの薬、そう悪くなかった。腹ン中と腕一本試させたが今はもう何ともねェ。時間はかかったがな。半獣人でこうなら人間にもそれなりに効くだろうよ。少なくともジジイが寄越すギルドのモンよりは」
「あっ……ありがとうございます!」
想定していた以上の感想だった。そこまでしっかり意見をもらえるとは思っていなかったので、返事が裏返ってしまう。
「次は」
「へっ?」
「次は何飲むんだよ」
「え、あの、でも、またこういうことがあったら……」
「テメェが何とかすりゃいいだろ。今みてェに」
それは、次もこうして顔を合わせるということだろうか。思わぬ展開に喉がゴクッと鳴る。
何だか話が妙な方向に進んでいる気がする。アッドさんが極力遭わないようにしてくれるのではなかっただろうか。そもそもヴェルナさんは私を嫌がっていたはずなのに。一方で、協力の申し出は喉から手が出るほどありがたかった。
「正直、その……試していただけるのはすごく助かります。助かりますけど、でも私……く、くさいんじゃっ?」
頬が燃えるように熱い。自分で言い放っておきながら物凄い羞恥に見舞われていた。それでも重要なことだ。私に獣人三兄弟のニオイがべったりついているらしいから、初対面にも関わらず彼女に攻撃されたのだ。それほど敬遠することをいきなり許容できるようになるとは思えなかった。
ヴェルナさんは一瞬だけ瞠目し、すぐに皮肉めいた笑みを浮かべる。
「気づかねェもんだなァ」
「な、何を」
「テメェ、今はオレのニオイがプンプンしやがるぜ?」
言うなり手が伸びてきて、襟元を強引に引っ張られた。ぷつ、と縫製の一部が切れる。ヴェルナさんはまたも面倒そうに舌を打ち、今度はほんの少し、本当にほんの少しだけ、加減した勢いで私の額に自分のそれをぶつけた。ゴヅッ、と目の前に鈍く火花が散る。
「いだァッ!?」
「ハッ! あのケモノどもに見せつけてこいよ。必死こいてつけたニオイは何の役にも立ちませんでしたってな」
「うう……じんじんする……」
「くっははは! ざまァみろ!」
人質にされていた服ごと胸板を押され、たたらを踏む。チカチカする視界の中、ヴェルナさんの背中が遠ざかっていくのが見えた。今日のところはこれで満足したらしい。
最初から最後までやりたい放題、半獣人が理性的だという通説はどこへ行ったのか。何なら獣人三兄弟の方がまだ話が通じる。
でも──。
「ああいうところ見ちゃうとなあ……」
人知れず苦痛を堪える姿。時々現れる犬っぽい仕草。案外依頼はきちんとこなすところ。恐ろしいばかりじゃない数々の面を目の当たりにしたせいか、ヴェルナさんに対する緊張や苦手意識が、以前より鳴りを潜めていることを自覚する。ふとした時に「体調大丈夫かな」なんてちょっと思案するくらいには。
物騒で乱暴で直情的で、半獣人の定義にさっぱり当て嵌まらないヒト。もっと知ることができたら。そうすればいつか彼女を理解することができるだろうか。
まあ、そう告げれば確実に怒るのだろうけれど。くっきりできてしまったこのコブに免じて、心の中で想うくらいは許してもらうとしよう。魔力を消耗した気怠い身体は思考力も鈍らせたようで、その場に倒れ込んだ私は束の間、忍び笑いが止まらなかったのだった。




