第24話 孤高、襲来
「なん、で……」
やっとのことで絞り出した声は情けなく震えていた。マートル・ビーが素早く近くに戻ってきてくれたが、警戒態勢のまま複眼を忙しなく動かしている。
覚束ない足取りで膝をつき、力なく横たわるラディッシュを拾い上げる。片手いっぱいにまで大きくなったそれはしかし、実を半分砕かれて、飽きたように打ち捨てられていた。他も全て同様に、中身が露出し、花は散り、茎はひん曲がって首を垂れている。
今朝、いつもと同じように滞りなく水やりを終えたのに。「もう少しで収穫できるね」なんて確認したばかりだったのに。一体この数時間で何があったのか。
あまりの惨状を噛み砕くのが精一杯で、思考がまとまらなかった。けれど、自分を落ち着かせるためか無意識に撫でたラディッシュの手触りに、はたと気づかされる。
「なんか……デコボコしてる……歯形……?」
よく見れば、赤い実の表面が規則正しく抉れていた。まるで綺麗に生え揃ったもので一斉に削り取ったみたいに。昔テレビ番組で紹介されていたが、動物の被害ならもっと散らかっているはずだ。
「……人間……じゃないと思いたい、けど……」
ごくりと喉を鳴らし、そっと立ち上がる。まだこの辺りにいるのだろうか。ユーンくんにも知らせたかったが、無防備に大声を出すのは憚られた。
目視できる限りの予想ではあるけれど、被害を受けているのは畑だけのようだった。家の外観には変化がなく、玄関前のドライアドにもきちんと結界が張られたまま。食物を漁りに来たのが目的と仮定するならば、食べられないものに手出しはされないだろうが、念のために鉢を陰に隠した。
「あとは……何か棒とか……」
小声で呟きながらソロソロと隣接する作業場へカニ歩き。喋っていないと発狂しそうだ。マートル・ビーが寄り添うようについてきてくれるのがありがたかった。
不審者に遭遇したとして、咄嗟に魔術で応戦できるとは欠片も思わなかった。どんなに些細なものでも、魔術の発現にはイメージと魔力を練り上げる工程が要る。それらをこなせる精神の安定が今の私にないことを、私自身が一番わかっていた。
ならば確実な武器が必要だ。とりあえず振れば当たるかもしれないものが。とにかく私は、ゴブリンに遭遇した時とは比べものにならないほどの恐怖を感じていた。
その恐慌状態は、あるものを目の当たりにしてしまってからいっそう強くなった。
「わ、罠が……!」
遠目に破壊された小型のトラップ。チーズケーキのお礼にと、獣人三兄弟が買ってきてくれたものだった。結界は主に魔力を持つ者しか弾かないため、すり抜ける野生動物に畑を荒らされないように、と。
もうこうなればガムシャラだった。脇目も振らず一心に作業場へ走り、二階の物置を目指す。確かスコップや角材があったはず。
「マートル・ビー、周り見ててくれる!? すぐ取ってくるから!」
「ブブッ」
突っかかりながら階段を駆け上がった、その時だった。
「っ!?」
ほとんど陽の差し込まない暗闇の中、突然二粒の光が灯った。等間隔に並んだそれらは人間の双眸に似ていて、心臓に氷の杭を打たれたかのようにビクッと身が竦む。
──刹那、視界が勢いよく回転した。同時に背筋を衝撃が走り、鈍い音が身体中に響いた。
今のは、何だ。チカチカする瞼の裏を必死に持ち上げる。キーン、という耳鳴りが断続的に治まりかけた頃、ようやく目の前にあるものが天井だと認識した。
どうやら私は現在進行形で倒れているらしい。忘れていた息の仕方を身体が思い出し、けふっと押し出された咳はすぐさま何かに押し戻された。
「むぐ!」
頬に食い込む固い指先。顎を掴まれて後頭部ごと床に押しつけられ、曝け出された喉を冷たい塊が這った。
「誰だテメェ……」
降ってきたのは気怠そうに掠れた声だった。森の匂いがするほど間近に迫った瞳の奥で、黒点のような瞳孔がこちらを睨めつけている。
お腹の上にどんと圧し掛かられているせいで、私は影の一挙一動を見つめるしかなかった。首に押し当てられているのはおそらく武器だろう。動いた瞬間に掻き切られる方がきっと速くて、ただでさえ苦しい呼吸がますます狂っていく。
ああ、もっと魔術を練習しておけば。後悔ばかりが次々に押し寄せて、じわりと目頭が熱くなる。
「ヒトが気持ちよく休んでる傍でバタバタしやがってよお……あ?」
不機嫌そうに零した彼(あるいは彼女)が身を屈めた。すん、と耳元で鼻を鳴らされる仕草に思わず目を瞑る。
「……ハッ! 女ァ……テメェ、あのケモノ共のメスかよ!」
「!?」
「くっはは! 三匹分べっとりついてやがる! 気っ色悪りィ……人間じゃねえから耐えられんのかねえ……」
心底疎ましそうに呟かれた意味がわからなかった。それでも、先程とはがらりと雰囲気が変わったのは見て取れた。それもかなり悪い方に。
反射的に身動ぎした身体を咎めるように、ぐうっと首に硬質の圧力がかかる。
「あの三匹は殺すなとは言われてるが、テメェのことはなーんにも制限されてねえ。いい機会だ、首だけ土産に持ってってやるよ。引きこもりのエルフ族はあんまり見かけねえからな、コイツもしばらくは大人しくなるだろうよ……」
言いながら、尖ったものがぶちっと皮膚を割った。内側にずぶりとくい込んだそれに痛みを感じる前に、私の意識は『何か』に塗り潰された。
唸り声、がなり声、甲高い叫び声。頭の中を埋め尽くして反響する声、声、声。さながら声の洪水、声の奔流だ。とぐろを巻いてうねり、全力で叩きつけられるそれらに四肢が意図せず痙攣した。
「っ、ア゛」
景色が色を失った。感覚が遠くなり、ますます声の勢いが強くなる。目の焦点が合わない。身体に力が入らない。
「ひ、」
ただただ私の裏側に溢れ続ける阿鼻叫喚。その合間に、慣れかけた耳朶がぶつぶつと繰り返される一定の音を拾い始める。どの声よりも小さいのに、どこまでも低く、息継ぎのない言葉の羅列がだんだん際立ってくる。そう認識した一瞬だけ、本能だろうか、脳内でけたたましく警報が騒いだ。
──聞くな。知るな。耳を塞げ。『これ』の意味を理解したら死ぬ。死ぬ。死ヌ。シヌ。シ────。
「ブブブブブッ!」
「あ?」
怒涛の声が不意に止んだ。急速に周囲の音と身体の感覚が戻ってくる。解放された口からどっと酸素が入り込んできて、弛緩していた気管が詰まった。
「っげっほ、ごほっ!」
「ブブッ、ブブブッ」
「虫だあ? ブンブンうっせえなあ!」
「ブッ──」
バチッ、と何かが弾かれた。コロリとすぐ傍に落ちた、ぴくりとも動かない白い体躯。その頭上に構えられた槍の穂先に、心臓がドクンと跳ねた。
「死ね」
「──っやめてッ!!」
自身から迸った絶叫を、私はどこか他人事のように聞いた。たぶん、いや絶対、痛いじゃ済まないだろうなあ。貫かれる手の甲を目の当たりにする勇気はなくて、ぎゅっと視界を遮断した時──。
「キィイ!」
「キーッ! キキッ!」
「…………クッソが、来やがった」
突如として割って入った、超音波の如き高音と無数の羽音。腹部に乗っていた重石が飛び退き、その後を黒い一団が追う。キィキィと物置いっぱいに反響する鳴き声の正体は、数えきれないほどのコウモリの群れだった。
コウモリなんて一体どこから。呆気に取られる私の背後で、ドンッ、と何かが着地する。
「どこで油を売っているのかと思えば……まさか賓客に手をかけるとはな。それも呪いの道連れになど、お前の浅はかさには全く恐れ入る」
散開していくコウモリ達の中から現れた黒いマント。艶やかな黒髪が揺れ、磨き上げられた黒の革靴が鋭く床を打ち、暗がりに潜む双眼に相対する。
「──仕置きだ、戦狂い。向こう一年は満足に眠れないと思え」
舞い降りたそのヒトは、血のように紅い眼差しを爛々と滾らせていた。
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