【第55話】若き少女は輪舞曲で舞う
シンディとピョートルがシュバルツ砦からルーテシアに戻って、数週間の時が流れた。
もうルーテシアは、初春に季節になっていた。
暦の上の春でしかないが、ルーテシアでは初春を迎えると、雪が降ることが珍しくなり、快晴の日が続く。荒海も鳴りを潜め、さざ波が打ち寄せる穏やかな海になる。
人々は、そこに春を感じ、残寒を乗り越える気力を涵養するのが、ルーテシアの習わしだった。
シンディは、咲き誇る梅の花の街路樹を抜けて、市場に出て、いつものように買い物をする。今日はとびきりの料理を作りたい、それがシンディの望みだった。
運命の日がやって来たのだ。
「明日、俺は艦に乗ってガーラシアに行き、イェルハルドたちが乗る軍艦を警護しながら、ラクリアン島へ向かう。君も明日、ライディーンの私掠船に乗って、シュバルツ砦に向うんだ。そして、スペンサーと共に、私掠船に乗って、イェルハルドの船に近づく。イェルハルドと俺の艦は、シュバルツ砦からも、目視で確認出来るはずだ。目視で確認が出来たら、出港してイェルハルドの艦の方向に向かうんだ。イェルハルドの艦を挟み撃ちして、俺たちの戦いが始まる」」
ピョートルにそう告げられたのは昨日だった。
次にピョートルと会うのは、戦いの日。今日が、最後の晩餐になるのだった。
ルーテシア・タウンの市場は、いつものように、多くの人々でごった返していた。このルーテシアの街も、今日で最後かと思うと、街の風景も違って見える。
急足で買い物を済まし、いつもより早めに帰宅し、晩ご飯の準備を進める。
戦うことが決まってからの数週間、シンディは、魔法の練習を繰り返した。戦場では一瞬の判断で、適切な魔法で攻撃しなければならない。
カレンベルク家の当主として、スペンサーに王位を継承させる大切な戦い。ただの復讐ではないのだ、そう言い聞かせてながら、魔法の練習に取り組んで来たのだった。
ちょうど晩ご飯が完成した頃、ピョートルが官邸に戻って来た。
「おかえりなさい。明日、私たちはルーテシアを経つから、今日は特別な料理を作ったの!そして、ルーテシア名産のアイスワイン!これも一緒に飲みましょう!」
「ああ、アイスワインか。明日、戦場に向かう俺たちの『最後の晩餐』には相応しい。それに、今日はもうお腹がペコペコなんだ。すぐに食べるぞ」
ピョートルは、そう言ってダイニングのテーブルに座る。
最後の晩餐はいつもよりも、色んなことを話した。
ピョートルがペーテルと名乗って馭者をしていた頃のこと。
ガーラシアの学院で捕まりそうになった時、ピョートルが助けに来たこと。
このルーテシアで、黒魔術を学んだこと。
二人の話は尽きなかった。
食事が終わり、ワインを飲み終えた後に訪れた沈黙。
その沈黙を破るかのように、ピョートルが口を開いた。
「ああ、そうだ!君のために魔導士の服を準備したんだ!ルーテシア王国の正魔導士の服だ。動きやすく、防御力もそれなりにある。君はこれを着て戦うんだ!」
そう言って、クローゼットから服を取り出して、シンディに手渡した。
「ありがとう!これで私も戦いの準備が出来たわ。いよいよなのね……カレンベルク家の名誉を賭けた戦い……そして私の復讐の戦いが」
「そうだ。しかし、次に俺たちのが会えるのは、戦場だ……しかし不思議な感じがするものだ。最後の夜だというのに、明日も来週も、君がいる日常が続くような気がしてならない」
「私も同じ。なんだか、明日の午後も普通に市場に買い物に行くような感じがしてならないわ」
そう言って、シンディは微笑んだ。
ピョートルはじっとシンディを見つめた。
「君と一緒に過ごした日々は楽しかった。馭者として君と過ごした時も面白かったし、君との生活も、新鮮で面白かったな。ありがとう」
「お礼を言うのは私の方よね。ピョートル、本当にありがとう。私もあなたと過ごした毎日が、楽しくて仕方なかった。そして、この国……この街も大好きよ。明日この街を離れても、私、今日までここで過ごしたことを一生忘れない」
そう言うとシンディは、部屋に置いてあるオルゴールの手回しを、目一杯巻き上げて、ピョートルに向かって言った。
「このオルゴールの音楽で、私と踊りましょう。戦場に行く前に、あなたと踊りたいの」
そう言って、ピョートルの手を取る。オルゴールが、優しい音楽を奏で始めると、部屋の中は、二人のダンスホールになった。
ピョートルの洗練されたステップ、シンディはピョートルにリードされながら、ピョートルの動きに合わせるように、ステップを踏んでいく。
優雅で華麗なステップは、ピョートルの育ちの良さを示すものだった。
別れて離れ離れになってもきっとまた会える、という意味が込められたオルゴールの音色が、部屋の中に響き渡る。
この音楽は、今の二人のにとって、最も相応しい輪舞曲だった。シンディが、ピョートルの耳元で、そっと囁く。
「ピョートルって、意外とダンスが上手いのね!」
「一応、俺もルーテシアの王族だからな。ダンスは、幼い頃に『王族の嗜み』として習わされた。シンディこそ、ダンスが得意だったんだな」
「そうよ!もう忘れかけてたけど、私、ガーラシアのカイン王子と婚約して、学院に通ってたんだから、これくらいは、普通に踊れるわよ。ああ、あのまま結婚していたら、私、カインの妃だったのね。考えただけで、吐きそうになるわ!」
そう言ってシンディは笑った。
ピョートルもその表情を見て、微笑み返す。
そして、オルゴールの音色が、ゆっくりとした音色になる。やがて音は聞こえなくなり、その輪舞曲は終わりを告げた。
「音楽……終わっちゃったね……」
「ああ、終わったな。明日は早い。もう休もう」
シンディは静かに頷いた。
それぞれが自室に戻り、寝る支度をする。
ベッドに入ったものの、シンディは寝付けなかった。
シンディは身を起こして、窓際に立つ。冬の星空は綺麗だった。そして、シンディは何かを決心したかのような表情になって、部屋を出た。
ピョートルのベッドルーム。
コンコンとノックして、シンディは部屋に入る。ピョートルも、まだ寝ていなかったようだ。
少し驚いたような表情をしたが、すぐに笑顔になって、ベッドの上で身を起こした。
「ピョートル……あの……今日は、一人で寝たくないの……朝まで、ここにいても良いかな?」
「あ……ああ、君がそうしたいのなら……」
シンディはゆっくりと部屋に入り、滑り込むようにピョートルのベッドに入った。
朝陽が、カーテンの隙間から、部屋の中を照らし始めた。朝を告げる鳥のさえずりが、微かに聞こえて来る。
「ピョートル、朝、来ちゃったね……」
「ああ、シンディ、昨日は結局、寝られたのか?」
「うん……でも、少しだけかな。ちょっと寝不足かも……」
裸のピョートルの胸の中で抱かれたシンディは、そう耳元で囁いた。
ピョートルはシンディの髪を撫でながら、
「ああ、俺もあまり眠れなかった。今日は移動する艦の中で少しうたた寝をしそうだな」
と囁く。そして
「決戦の始まりだ。では、戦場でまた会おう」
ときっぱり言った。