【第29話】船旅
「ねえねえ、ピョートル、島が!大きな島が見えてきたよ」
マスト最上部にある見張り台、檣頭に上がって望遠鏡で海を見ていたシンディが、弾むような声を上げた。
「おい、いつの間に檣頭に上がったんだ?落ちたら危険だ!ゆっくり降りて来い!」
甲板にいるピョートルが、上を向きながら声を張り上げる。
「ピョートルも上がって来てよ!ねえ、あれがルーテシアなの?」
ヤレヤレといった表情で、ピョートルはメインマストの縄梯子に脚を掛けると、一気に檣頭まで登り切る。
シンディが望遠鏡を手渡すと、ピョートルは望遠鏡を覗き見ながら、
「あの島は、グーゼンバウアー侯爵家が統治しているグーゼンバウアー島だ。俺の祖国ルーテシアは、まだまだ先さ」
「え!あの島がグーゼンバウアー島なの?」
シンディは望遠鏡をピョートルから奪い取り、再び島の方を覗いた。
赤煉瓦の建物が、幾何学的に立ち並んでいて、スッキリした街並みが見えた。
ピョートルは耳元に口を近づけて、
「お椀の形をした山の山裾に、塔のある建物があるだろう。あれがグーゼンバウアー城だ。グーゼンバウアー侯爵家の一族は、あの城に住んでいる」
と言った。
あのお城が、クラウディアの故郷……。
シンディはガーラシアの学院時代に想いを馳せた。学院で唯一仲の良かったクラウディアも、このお城で生まれ育ったのだろう……そう思うと、特別な風景のような気がした。
自分の好きな人の生まれ育った場所を見るというのは、特に感慨深いものがあった。
ピョートルはシンディの方に、視線を向けて話しかける。
「しかし、檣頭までよく一人で上がれたな。怖くないのか?」
「カレンベルク領にいた時は木登りが得意だったの?小さい時は、アイリスお姉さまと、一緒によく登ってたわ」
「意外とお転婆だったんだな、君」
「そんなにおしとやかに見ていてくれたの?ありがと」
それを聞いて、フッと笑うピョートル。
つられてシンディも笑った。
初めて渡る異国の地というのは、どんな場所なんだろう?
街の風景、食べるもの、着るもの、全てが違うのだろうか……などと想像を膨らますと、シンディは上陸するのが楽しみで仕方なかった。
「おい、そろそろここから降りるぞ。俺も航路についてゴールドウィンと話をしなくちゃならない」
「うん、分かった……でも、ちょっと……」
「でも、なんだ?」
「私、木登りは得意だったのね。上に上がるのは、ずっと上の方向を見てるから……でも降りる時、下を見ないといけないからちょっと……自信が……」
ピョートルが大きなため息をつく。
「仕方ないな…… 檣頭にはロープがある。新人の船乗りが檣頭に登る時の練習に使うロープだ。これを身体に巻き付けろ」
そう言いながらシンディの身体にロープを巻き付け始めた。一瞬、ピョートルの指が、シンディの胸に当たる。
「きゃああ!変なところ触らないでよ!」
シンディの声を完全に無視するピョートル。最後にギュッと縄を締め上げると、
「これで落ちても、甲板に叩きつけられたりはしない。先に縄梯子を伝って、ゆっくり降りろ。降り終えてから俺も降りる」
とシンディを促した。
檣頭はメインマストの最上部にある見張り台だけあって、改めて下を見ると、あまりの高さにクラクラした。
巨大な軍艦の船体も、ここから見ると、水溜りに浮かぶ木葉のようだ。
下を見ないようにしながら、やっとのことで甲板に降り立つシンディ。
甲板に着地したのを確認し、ロープを引き揚げてから直ぐにピョートルがスルスルと降りてきた。
ピョートルはシンディの着ている服に視線を落として
「その服、意外と似合ってるな。女性用の海軍服があって良かった」
シンディは着替えとして、海軍の軍服を手渡されていた。
普段着は、以前乗船した貴族婦人が船に置いて行った古着などが船倉にあって、船室の中ではそれを着ている。
シンディはピョートルの方に視線を向けて話す。
「軍艦の生活って、こんなに過ごしやすくても良いのかなって……ちょっと申し訳ない気持ちかも。軍艦に客室があるなんて、想像もしなかった」
「この軍艦は戦争だけでなく、ルーテシアの貴族や豪商が外国を訪問する時に乗船することがある。だから、客室も備えているのさ」
貴族が利用する客室ということもあって、客室内は快適過ぎるほどだ。
身一つで逃げてきたが、生活にも必要なものはほとんど揃っている。
「グーゼンバウアー島を過ぎたら、もう大きな島はない。幾つかの無人島を過ぎて、やっとルーテシアに到着する。暫くは果てしない海が続くだけだぞ」
とピョートルが、海を眺めながら言った。
広く穏やかな海が、果てしなく続く。
大きな嵐も無く、2週間が過ぎた。
そして、海の向こうに、ルーテシアの島々が見えてきたのだった。