【第25話】提督
え……?馭者のはずのペーテルさんがピョートル提督って……。
一体これは、どういうこと……?
シンディは混乱して、頭がまとまらない。
ビア樽風の男が、話を続ける。
「まったく、提督殿の奇行には、我々も困っておりますぞ。ラークシュタイン王国の領民になりすまして、庶民の生活を体験して、学んでみたいなどとは……」
「馭者のペーテルはもう辞めだ。今日からは、また海軍提督として行動する。ゴールドウィン、今まで俺の代わりに、この軍艦を見ていてくれてありがとうよ」
と感謝の言葉を述べた。そしてシンディの方を向いて、
「騙すようなことをしていて悪かった。俺の本当の名前はピョートル。ルーテシア王国の第三王子で、さっき聞いたとおり、ルーテシア王立海軍の提督だ。そしてここにいる太い男は、副提督のゴールドウィン」
とピョートルは落ち着いた声で言った。
シンディを見て軽く黙礼するゴールドウィン。
シンディは慌ててカーテシーで挨拶した。
しかしまだ驚きで、気持ちが落ち着かない。
ピョートルは「航行速度を上げよ」とゴールドウィンに短く命じる。ゴールドウィンはすぐさま、足早に何処かに行ってしまった。
シンディはまだ混乱が抜けきらない。
ペーテルさんは、実はピョートルという名前で北西の最果ての島国、ルーテシアの第三王子で海軍提督だ、と急に言われても、困惑してしまう。
二名の間で、沈黙が続く。
何か話さなくては、と思うものの、何をどう話せば良いのか分からない。シンディはなんとか気持ちを鎮めて、口を開いた、
「ペーテルさん、今日は助けて下さり、ありがとうございました……」
「それくらい、お安い御用でさあ……あのさ、ちょっと、これからは、フランクな話し方にしてくれないか?その話し方で話されると、ついついこっちも馭者の言葉遣いになっちまう。名前もピョートルって呼んでくれ」
「ピョートルさん?」
「呼び捨てで良いよ。俺もこれからは、あんたのことをシンディって呼ぶ。ラークシュタイン王国侯爵令嬢とルーテシア王国王子なら、フランクに話しても問題ないだろう?」
言い慣れた名前から、急に違う名前を呼び捨てで、と言われても難しい。
シンディは恐る恐る口を開いて、
「ええと……ピョ…ピョートルって最果ての国の王子で、海軍の提督なんだよね?ということは、今向かっているのは最果ての国?」
「最果ての国……か。確かに、ラークシュタイン王国では俺の祖国ルーテシアは、そう言われてるな。そうだ。今からルーテシアに向かう。2週間は陸には上がらないから覚悟しておいてくれ」
戦艦は既に沖合いで出て、港の建物は、おもちゃのように小さくなっていた。
ルーテシア王国はラークシュタインの港より遥か北西に位置する島国。
この国から北の方角にも西の方角にも『永遠の海』が広がっているだけで、この先に何もないことから、最果ての国と呼ばれている。
ラークシュタイン王国とは久しく友好関係を築いており、同盟国でもある。
しかし、実質的にルーテシアはラークシュタインを宗主国と仰いでおり、完全な独立国家とは言えない状況だ。
シンディは陸の方向を見て、ふと気になった。
王府の兵が、船に乗って追いかけて来ないかと。
領海内で、ラークシュタイン王府の船から停船命令を受ければ、いくら独立国ルーテシアの軍艦でも、命令に従わなければならない。
「どうした?陸の方ばかり見て。追いかけて来ないかと心配しているのか?大丈夫だ。この軍艦は機動力には優れている」
シンディは黙って頷く。
「それに追いかけて来た末端の兵が、そう簡単に船舶を手配出来たりしないさ。出来たとしても、準備が終わって出帆する頃には、俺たちは公海上にいる。奴らも、そんな無駄なことはしない」
それを聞いてシンディはホッとした。
とりあえず、逃亡は成功したらしい。
しかし気になることはまだいっぱいある。
シンディは思い切って聞いてみる。
「ところで、ピョートルは今回の件、どこまで知っているの?」
「おそらく……君が学院の大広間で聞いたような内容までは把握している。しかし、俺も断片的なことしか分かっていない」
「我が父、カレンベルク卿がスペンサー王子と結託して謀反を起こそうとしていると王府が言っていること、とか」
「そうだ。しかしそれは作り話だろう。我がルーテシアは、カレンベルク領にも間諜を放っている。間諜からの情報では、そんな兆候すらないとの話だった。この事件、確実に君たちを陥れるための、でっち上げだな」
「やっぱり……」
シンディは安堵に似たものを感じた。
自分と同じ考えを持つ者がいると心強い。ピョートルが話を続ける。
「今回の件はガーラシアに放っている間諜の情報、そして俺が馭者として貴族令嬢を運んでいる時に令嬢たちが話している内容から、ある程度、事前に知ることが出来たんだ。とは言え、半信半疑だったが……助けに行って正解だったな」
シンディはウンウンと頷く。
ピョートルの助けが無ければ、今頃監獄に放り込まれていただろう。
船はすっかり沖合いを航行しており、海特有の強い風が、二人に吹き付けていた。
少し、肌寒さを感じるくらいだ。
「シンディ、艦長室に行ってゆっくり話そう。俺もこの軍艦の中で、馭者の服のままでは都合が悪い。艦長室で軍服に着替えたい」
とピョートルは言った。