【第16話】春の王子様は素敵ですね
シンディが馬車から降り立つと、スペンサーはすぐにもう片方の手で、シンディの右手に添える。
スペンサーは、小顔の中の栗色の眼で、笑顔のまま、暫くシンディを見つめ続けた。
「本当に来てくれるとは思わなかったよ。貴族のご令嬢が、まさか農作業を手伝ってくれるなんて……こんな人、本当に初めてだ」
握られた手から、スペンサー王子の手のぬくもりが伝わって来る。久しく感じたことのなかった人肌の熱に、シンディは思わず、はっとする。
「い……いえ、スペンサー王子さまからは、大変嬉しい贈り物を頂きましたもの……あの絵、久しく会っていないお姉さまに本当に、本当に会えたような気持ちになりました。それに、我がカレンベルク家では、貴族女性はバラを育てることが、必ず身に着けるべき教養になっているんです」
うんうんと頷くスペンサー。
大きなグリーンの瞳は、底が無いほど深いように見えて、見つめ返すと、なんだか吸い込まれそうになる。
シンディは、言葉を続ける。
だから……簡単な土いじりでしたら、少しは経験がありますし……。あ、でも、バラを育てるのと、農業は違うかもしれませんが……」
スペンサーの真っすぐ見つめる眼、
シンディはつい、眼を逸らしてしまう。
ああ、もう、なぜこんなに自分のことを大事にしてくれる人に対して、こんな態度をとってしまうのだろう……!?本当は、その好意を全身で受け止めたいのに……。
知らず知らずのうちに、それを自制して、相手に何の感情の無いような素振りをとってしまうのだ。
シンディは、自分のそんな性格を恨んだ。
「大丈夫、大丈夫。バラを育てた経験があるのなら、そんなに難しくはないよ」
今日のスペンサーは、農作業をするということもあって、今日は王族の宮廷服ではなく、帆布のリベット補強したズボン、グラッドストンカラーのフランネルシャツ。カフスこそ、王家の色である濃緑であるが、一見したところでは、農民とも間違えるような服装だ。
防水性に優れたワイバーン革製のブーツが、かろうじて王侯貴族であることを示している。
「王子さまが、そのようなお召し物で現れるのも、とても驚きましたわ。学院では貴族服でしたし……でも、とてもお似合いです」
「シンディさんこそ……!ドレス姿じゃないシンディさんもとても似合ってるよ!ピンクのリボンも……とても素敵だし」
褒められた。
自分が一番力を入れたアイテムを褒められるのは、最高に気持ちが良いし、やはり何か幸運を運んで来るような感じがする。
容姿を褒められるのは嬉しい。そして服装のコーディネートを褒められると、自分のセンスに自信が持てて、優越感に浸ることが出来る。
暫くその2人の様子を見てたペーテルが、口を開いた。
「シンディさん、お迎えは、約束通りに、お昼前で良いんですかい?」
「あ……ペーテルさん、ごめんなさい。農作業を手伝うのは、午前中だけなので、お昼ごろに、迎えに来て下さいね」
スペンサーはペーテルをチラリと見て、一瞬、息を飲むような素振りを見せたが、
「馭者さん、だね。今日はここまでご苦労さま」
スペンサーに声をかけられたペーテル、すぐに地面に片膝を着いて、
「学院の馭者をさせて頂いておりますペーテルと申します。お初にお目にかかります。以後、お見知り置きを……!」
普段、見たことのないペーテルの丁寧な振る舞いに、シンディは少し驚きを感じた。
「ペーテル……さんって言うのか……このガーラシアの城下町に来て……長いの?」
「私は、諸国を流浪する馭者でございます。こちらの街に来て、まだ半年も経っておりませぬな……では、私はお昼前には、シンディお嬢様をお迎えにあがります。では、これにて失礼します」
そう言うと、ペーテルは馭者席に飛び乗って、馬車で走り去って行った。
スペンサーは少しの間、その様子を見ていたが、振り向いてシンディにニコっと微笑みかけて、
「さあ、じゃあ、ビート馬鈴薯の苗を植えていこう。こっちだよ」
握られた手を優しく引っ張って、スペンサーはシンディを農園へと誘導する。
久しぶりに異性と手を繋いで歩いていることに、シンディは少し胸がドキドキする。
しかし……あのスペンサーのペーテルに対する態度は、何だったのだろう……。スペンサーの表情、なんだかペーテルと顔見知りのような表情をしていたけれど……。
そんな考えが一瞬、過ぎったが、まずはこの手を繋いだ、ときめきを楽しもう……と考えて、シンディはすぐに忘れてしまった。
*********************************************************
丘の上に建てられたガーラシア城は、ガーラシア城下町の何処からも見える。まるでこの世界を、睥睨しているようでもあった。
ガーラシア城の奥の間は、東側に窓が設置されている。
床から天井へと続く細長い窓からは、朝は爛々と朝日が部屋に差し込む。
しかし、夕方以降は、麦の穀倉の中のように、薄暗い部屋になる。
部屋全体が濃紺の世界を作っている、その大きな部屋。装飾を施されたキングサイズのベッドに横たわる、白髭に覆われた老人は、ユリウス・ラークシュタイン。
このラークシュタイン王国を統治している国王だ。
この冬の厳冬が病に拍車をかけたのか、最近はベッドに伏せているのが常であり、特にここ数日は、意識も網羅としている時間が増えている。
国王自身も、自らが天に召される日が近いことを感じ始めていた。
扉がノックされ、ぎぃ……という鈍い音を立てて入ってきたのは、王太子、イェルハルド。
細い顔には似合わない髭を蓄えているが、眼光は鋭い。ベッドからやや離れた場所で片膝を着く。
「国王陛下、最近ご体調は如何でしょうか?我側妃シャナイアも陛下の体調を大変気にしておりますぞ……元気をお出しくだされ……」
「ああ……おま……」
国王の声は、非常にか細く、ベッドから離れた場所からは何を言っているのか、聞き取るのは極めて難しい。
イェルハルドはスクっと立ち上がり、ベッドの側に歩み寄った。
「国王……いえ、父上。今の父上では、このラークシュタイン王国を統治するのは難しいかと存じます。そろそろ王位を、私に譲っては頂けませんか?父上はもう、国王としての働きは十分になされたはず……」
「う…うう……」
国王は何かを言葉にしようとするが、極度の衰弱で声を思い通りに出せない。そんな国王の姿を、もどかしいといった態度のイェルハルドは、話を続ける。
「そして、父上。数日前にもお話ししましたが、側妃シャナイアの王太子妃への就任の件、考えて頂けましたか?」
眼を伏せていた王の眼開き、イェルハルドを凝視する。
「カレンベルク家から来たアイリス妃はもうとっくに亡くなってしまったので、今や新しい王妃が必要ではありませんか!?」