【第15話】春がうららかです
門を出ると、屋敷で遮られていた日蔭の部分が無くなり、春の陽光が、ギラリとシンディの身体に照りつける。
シンディは、天を仰ぐ。
そして、手をかざしながら、春の光を確かめた。雲雀がさえずり、植え込みの花と花の間を、蝶がひらひらと、春の光の世界を舞う。
こんな麗らかな春の美しさは、年に数回しかないだろう…などと考えながら、お屋敷の前に佇んで、約束している馭者のペーテルを待つ。
暫くして、パカパカと馬のゆっくりとした蹄の音。
ペーテルだ。
ペーテルは、シンディの目の前に到着すると、手綱を引いて馬車馬を止めた。手綱をグッと引く時、ペーテルの手の甲に、血管が蒼く浮き出る。
ペーテルの日に焼けた健康的な太い腕。そして、その太い腕に盛り上がった、強い意志を持ったその血管が、シンディには美しく感じられた。
この太い腕は、手綱を引く以外に、どんなことに使われるのだろう……?
シンディがそんなことを考えていると、ペーテルから声をかけて来た。
「シンディさん、わざわざ外で、待っておいでなんですか?ゆっくりと、お屋敷の中でお待ちになっていれば良いのに……本当に変わったお方だなぁ、シンディさんは」
伸びた無精髭を触りながら、ペーテルはシンディの瞳の奥をじっと見ていた。
「薄暗い部屋の中にいるよりも、この春の朝を感じる方が、何倍も気持ちが良いものですよ。ペーテルさんも、ここに来るまで、春の陽気の楽しまれましたか?」
「そうだなぁ…確かにこんな天気の良い春の朝に、馬車を引いてますと、馬車を外して、馬に飛び乗って、何処かに駆け出したくなりますねぇ…丘の上に駆け上がって、草むらの上に寝転んで過ごしたい気になったりはするねぇ……」
ペーテルは、何か遠く昔のことを思い出すかのような表情で話す。
きっと、何か深い思い出があるに違いない。
「ところで…シンディさん、やっぱり今日は服装が全く違いますなぁ…普段はドレスばかりのお姿なので、何か不思議な感じがしますでさぁ…でも、大変お似合いですよ」
「あ、ありがとう。作業着で褒められると、少し嬉しいですね」
褒められた。
シンディは、こういう作業する時のファッションにも、何か少しおしゃれをして、気分を上げるようにしている。
でも、やはり誰かに褒められると、更にご機嫌な気分になるのを感じていた。
そして……ほんの少し、シンディはペーテルにも褒められることも期待していた。馭者とはいえ、世代の近い男性に褒められると嬉しい。
「では、シンディさん、では、行きましょうかい⁉︎」
ペーテルは馬車の扉を開けて、馬車の中に入るように促した。
馬車はパカパカと、軽快な蹄のリズムを刻みながら、王都のお屋敷の一帯を超え、王城の裏側の方向へと進む。
王城の裏側には、広大な森が広がっており、樹木が生い茂る森の一本道を抜けると、そこには広い畑が広がっていた。
「わあ……」
シンディは息を飲んだ。
馬車の外には、丘陵には青々しい麦が植えられていて、緑の絨毯が、春の王都を郊外を彩っているような感じがした。
緑の絨毯の挟まれた小道を、馬車で進んでいくと、遠くの赤茶けた、手付かずの畑の前に、一人の若い男が立っている。
ニコっと笑顔で、こちらに向けて、大きく手を振っていた。
「スペンサーさま……!」
立っているのは、間違いなく、スペンサー王子だ。シンディの胸が、思わず躍る。
馬車の窓からめいっぱい身体を乗り出して、シンディもスペンサーに向けて、右手を大きく振った。
馬車がスペンサーの目の前に着くと、ペーテル身軽に馭者席から離れて、地面にサッと降り立つと、すぐさま馬車の扉を開く。
スペンサーはすぐに馬車の扉に駆け寄り、地面に下り立とうとするシンディの右手を取って、
「シンディさん、来てくれてありがとう。ささ、降りる時は気をつけて。ここの農道は、土がむき出しで、石畳で舗装されている王都とは違うからね」
スペンサーにエスコートされながら、シンディはゆっくりと馬車を降り立った。
しっかりと握られたスペンサーの右手から、温かみのある熱が、絡められた指と指の間と自分の掌に伝わって来るのを感じた。
男性に手を握って貰うのは、何時ぶりだろう……?
そして、扉を開いてくれたのは、馭者のペーテルだ。二人の男に、こんなに大事に扱って貰うなんて、随分久しぶりのような気がする。
婚約破棄で自由な身、こういうの、悪くないな……。
少し満足げに、はにかみながら、シンディは地面に両足を着けた。