科学世界１ 変化する日常
見通しの悪い曲がり角で、食パンを咥えた女の子と、ぶつかるような人生だったら良かったのに――
古いかな？ 古いよな。俺だってそう思う。
知っているか？ 昔の漫画やアニメでは、遅刻、遅刻～なんて言いながら、食パンを咥えたまま走ってくる女の子と、ぶつかってから始まる恋があったんだ。どっちが悪いか口論した後、学園で再会するまでがひとまとめでさ。
わくわくするよな。もう、随分と使い古された――最初に誰がやり出したのかも分からない――手法だけど、始まりの予感って言うのかな？
俺は、その場面を見た瞬間、そわそわと落ち着かなくなり、無性に胸が高鳴るのを感じたんだ。
でも、悲しいことに。俺の周りには、この思いを共有できる奴はいなかった。そもそも、そんな始まり方をする物語を、知っている奴さえいなかったのだ。
だって、それも当然。何十年も前に流行った物語だからな。俺だって、レンタルしたDVDの中身が間違ってさえいなければ、知り得るどころか、手に取ってみようとも思わなかっただろう。
「その女の子ってさ、朝なのに歯も磨かないで学園に行くの？ 普通は、ご飯を食べた後だよね？」
ちなみに、その当時はまだ友人だったそいつ、メガネをかけたドングリのような男に、こんな物語があったんだぜ？ と、話を振った時の反応がこれだ。
「そ、そういう人も、結構いるみたいだぞ！」
うんうん。おかしくないぞ。前にどこかで、歯を磨くのは食前でも食後でも、どちらでもよいと聞いたことがある。ま、俺も飯の後に磨くんだけどさ……。
「後で学園で出会うのに、何でその男とぶつかるの？ 進行方向おかしくない？」
「忘れ物……したのかも？ 道に迷っていたのかもしれないな」
そうそう。ちょうど俺が見たやつも、その女の子は転入生だったし、男は焦った様子がないのに、女は遅刻だなんて騒いでいるんだ。いや～、しっくりくるなぁ。しっくりくる、くる！
「その場面を、思い浮かべてみたんだけどさ？ 食パン咥えながら遅刻、遅刻～って言えないよね？」
「きっと、もごもごと咀嚼していたのを、男が、そう頭の中で置き換えたんだ。漫画やアニメ特有の表現ってやつだ」
えー？ う～ん、と納得のいかない顔をする友人。面倒になってきた俺は、苦し紛れに、続けて言った。――今にして思うと、なんて嫌な性格のドングリだ。
「もしくは！ 一旦咥えていたパンを放り出し、その台詞を言った後、もう一度空中で咥え直したんだ！ そうに違いない！」
「え？ それは、いくらなんでも無理が」
「うるせえ！ いいんだよ、細かいことは！ 多分、昔はいたんだよ！ そんな……頭のおかしい女が！」
俺は、必死に初恋の女を庇ったが、性格の悪い友人の猛攻に耐えられなくなり、見捨てた。
いい、いい！ あの女にときめきを感じたのは確かだが、あいつが好きなのはその物語に出てくる男であって、俺じゃないからな。
なんで、こんな下らないことを、俺は思い出しているのだろう――
どことなく、今の状況がその話に似ていたからだろうか。頭の片隅でぼんやりと考えていると、不意に意識が現実へと戻った。
いつも通り。いつも通りの朝だった。現在、ある理由から実家を離れ、一人暮らしをしつつ学園に通う俺は、テレビでニュースを見ながら朝食を取っていた。
連日のニュース。新しい情報のはずなのに、新鮮味は感じない。
人によって基準は違うと思うが、どこか別世界の出来事に思えないだろうか？ 例え、それが自分のいる国だったとしても、極端な話、住んでいる町だったとしてもだ。
自分に直接の関係がないのであれば、そんなことがあるのか、大変だな、怖いね、で終わりだ。
今日もまた、どこかの街の誰かさんが、ヤクザの抗争に巻き込まれて、命を落としたらしい。何でも、流れ弾が偶然当たってしまったのだという。
ま、多少は目の引くニュースではある。この国で銃なんてものは、普通に生活している上で見かけることはないし、関わることすらないからだ。
それでもやっぱり、恐ろしいことがあるもんだ。その程度。俺の生活に、影響を及ぼす程の話ではない。
「はっ！ はっ！ はっ！」
「おっと」
時間に余裕をもってアパートを出ると、長い髪を振り乱し、俺の方へ向かって走ってくる女がいた。何があったか知らないが、こんな朝っぱらから必死な様子。
俺が前にいることにも気付かず、ぶつかってしまいそうな勢いだったが、何とかぎりぎりのところで体を捻り、バランスを崩しながらも、俺の背中の方へ抜けていった。だが、その後。
「あ！ だめぇ！」
おかしな女の様子に気になった俺は、すれ違った後立ち止まり、なんだなんだ？ と顔だけを女の方へ向けていた。
その女は、結局転んでしまっていたのだが、焦るように後ろを、その場に立っていた俺を見るなり、目を見開き叫んでいた。
大きな、音がした。痛い。そして、熱い。
その熱い部分からは、赤い液体が染み出し、洗ったばかりの白いシャツに、シミを作り始める。
俺の正面にいたのは、丸顔で小太りの男と、サングラスをかけた、ゴボウのように細長い男の二人。手に持っているのは、銃だ。――あれ？ おかしいな。至って普通の生活を送っていたはずなのに、見かけちゃったよ。
「あ、やべ」
「おいおい。一般人じゃねえの？ やっちまったな」
撃ったのは丸顔の方か。そんなアホ面で言われても、全然やばそうに聞こえない。
細長い方だって、にわか雨のせいで洗濯し直しじゃんと、家の中から濡れた洗濯物を眺めるような、軽い口調だった。
日常から非日常へ。他人事から私事へ。いつもと何も変わらない平日の朝。学園へ向かおうとした俺は、パンを咥えた女の子に当たるどころか、パン、とおっさんに銃弾を当てられていた。
