断機する心に / 後編
時刻は九時四十分。走り始めてから十分ほど経過しているが、僕らは最も近い葬儀場にすらたどり着けていなかった。普段から運動をしていない僕は既に片腹が痛く、少し気を抜けば嘔吐してしまいそうだったが、さくらのほうは大丈夫みたいだ。息一つ切らさずに付いてきている。
走りながらさくらに訊く。
「さくら、苗字を教えてくれ! 葬儀場は玄関前に苗字が書いた紙が立っているから、それで識別できる!」
「あ、はい! 杜田です、杜田さくらですっ!」
「──モリタ?」
モリタと聞いて一番最初に思い浮かべる人間は、僕の親友である杜田明楽だ。
一瞬だけ変な推測が頭をよぎったが、けれどモリタなんて苗字はどこにでもあると割り切った。ここで割り切らず、思ったことをそのままさくらに伝えれば、あるいは何かが変わっていたのかもしれない。
けれど、そんなことは出来事が過去になった今だからこそ言えるのであって、当時の僕にはそんなこと考える暇もなかったのだ。
僕は、走り続けた。
と、それから数分ほどで一つ目の葬儀場にたどり着いた。「小林武蔵さん」と書いてある看板を見て、ここではなかったことに気づく。
さくらは悔しそうに唇を噛みしめた。そんな彼女の姿を見ていると、休憩などしていられないと思い知らされる。
「‥‥‥ここから近いところに、はーっ、別の葬儀場からあるからさ‥‥‥そこっ、行こうか」
「マコトさん、疲れていますか?」
「へ? あぁ、うん、そりゃあね」
「もう、大丈夫です‥‥‥私が一人で探しますから。警察の方々に訊いたりすれば、何とかなるかもしれませんし‥‥‥」
「本当に優しいなぁ、さくらは。もっと素直になったって、いいんだぜ。首を突っ込んだのは僕なんだ。もう、さくらだけの問題じゃない。僕もやらなきゃいけない、‥‥‥気がする」
「‥‥‥ありがとうございます、マコトさん。それでは、次の葬儀場を教えてくださいっ!」
「ああ。それじゃあ行くとしよう、僕のあとを付いてきてくれ」
「はいっ!」
踵を返して、僕らは歩き出した──と思った、そのとき。
どさっ、と。
後ろから何かが倒れる音がした。振り向くと案の定、倒れていたのはさくらであった。うつ伏せに倒れている。
慌てて駆け寄った僕に対し、さくらはか細い声で「心配しないでください、マコトさん‥‥‥」と口に出した。明らかに大丈夫じゃない。目は虚ろだし、呼吸をするのも辛そうだ。
何か言いたげに口をぱくぱくしたあと、ようやく声を立てた。
「‥‥‥ご、めんなさいッ、マコトさん‥‥‥私の身体が弱いから‥‥‥」
予想だにしていなかった「謝罪」の言葉に、頭が熱くなるのを感じた。堪忍袋の緒が切れた。我慢ならなかった。
噛んだ奥歯から、軋むような鈍い音が響いた。けれどそんなのは問題じゃないほどに、僕の頭は沸騰していたのだ。
いつも。いつも。いつも。
「いつもいつもいつも‥‥‥かっこよすぎるんだよ、さくらはっ! 何で言ってくれなかったんだ! なんで黙っていたんだよッ! もっと甘えろよ、甘えてくれよっ、頼むから‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
さくらは何も言わなかった。失望か、承服か。その意図は彼女にしかわからない。
でも。
何だか──決して悪いことではないような気がした。幻滅だとか──そういう類ではないような気がした。少しだけ、安心した。
「‥‥‥どうするよ、葬儀」
「もう、大丈夫です。元々、行きたい理由があったわけじゃないんですよ。お母さんとは正式な別れをしたかったけど、それでも何かが変わるわけじゃない。行かなければ、何かが壊れてしまうような気がして──行かなきゃいけないって、必死に自分を追い込んで。でも、すっきりしました。マコトさんが真摯になってくれて、私の中にあった何かが、ぬるりと溶けて無くなったような気がして──ありがとうございました。‥‥‥えへへ」
無垢な笑顔のまま舌をぺろりと出し、手で髪の毛を鷲掴みにして照れる彼女は──とてつもなく、途方もなく可愛かった。
いつからだったのかと訊かれたら、僕は真っ先に今日のことを語り始めるだろう。
僕の心が揺れて、動いて。どくんどくんと波打つ鼓動は、僕の力では到底止まりようもなくて。
彼女が──僕の「大切」になった日だった。
僕が、初恋をした日だった。
「──おい」
と、呼ばれた。一片の躊躇なく、こつん、こつんと重たい音を下駄から轟かせて近づいてくる。
二人の男性だった。一人は、眉間に傷のように深いしわを寄せる老人であった。着物を着ている老人の顎から伸びる白く長い髭は、整われてなく一本一本が自立していた。険しい顔で見据えてくるその老人は、先ほどの重たい低音を発するに相応しい形相であった。
僕に続くように老人を見たさくらは、戦慄の表情を浮かべていた。
「‥‥‥──で、‥‥‥──なんでッ」
「母親の葬儀に参加せず、道路で若い男と戯れるとは、ええ御身分じゃのう‥‥‥さくら」
さくらは声に出した。
その老人の正体を。
「‥‥‥お祖父、ちゃん──ッ!」
しかし。僕が本当に気になって仕方がなかったのは、老人の横にたたずむ男だった。
彼のほうも驚いていたようだった。僕らは互いに見開いた目を見合わせていた。
最初に口を開いたのは、僕だった。
「何でお前がいるんだ‥‥‥明楽」
カップラーメンに使うお湯を三分の一程度にすると、油そばみたいになってすごく美味しいので、ぜひ試してみてください。