穢れた情は冠水してなお
「ここ、か‥‥‥っ!」
十分ほどして、僕らはようやく杜田家へたどり着いた。
この辺りでは珍しい、少し古風な雰囲気が漂っている。置いてある盆栽はお祖父ちゃんのものだろうか。
少し躊躇しながらも、インターホンを鳴らす。ぴんぽーん、と高い音が響いた。
「‥‥‥誰だ、何も頼んじゃいな、いぞ」
「あ、いやその、こんにちは?」
僕を一目見て、そして扉を閉めた。数秒待っても反応なし。仕返しにインターホンを連続で鳴らしまくる。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
豪快に扉が開いた。顔を真っ赤にした江戸風の老人が怒鳴る。
「やかましいわ! 何じゃ、何のようじゃ、はよ上がりぃ!」
「え、でも、‥‥‥いいんですか?」
「お前めんどくさいなぁ!?」
「じ、じゃあお言葉に甘えて」
玄関前で話すことになるかと思ったら、家に上がることになったので驚いた。遠慮なく足を踏み入れる。
ちなみに茜里は「ここで待ってるわ、アンタだけ行ってきなさい」、そう言って玄関前に残った。
不機嫌そうなお祖父ちゃんに案内されたのは、十畳ほどの畳部屋だった。部屋の真ん中にはこたつが敷いてある。
「こたつにでも座っとれ」とお祖父ちゃんに言われ、その通りにする。こたつは点いていなかった。点いているものだとばかり思っていたから、余計に寒く感じる。
後に続くようにお祖父ちゃんもこたつに足を入れ、そして口を開く。
「‥‥‥で、何じゃ」
「あ、ああ──えっと。明楽くんとさくらちゃんのことなんですけど‥‥‥まず、明楽から。学校に来ない理由っていうのは何なんですか? 先生に訊いても家庭の事情と誤魔化されてしまうんですが」
「家庭の事情じゃ。杜田家の事情であって、貴様の事情ではない」
「そう言われればそうなんですけど‥‥‥その、友だちだから、っていうのはどうでしょう?」
「‥‥‥ふん、最初からそう言え。引っ越すんじゃよ、儂ら」
「えっ、‥‥‥て本当なんですか!? 目浩区から出ていくんですか!」
「ああ。九州のほうに実家があってな。そこで暮らすことになった」
「‥‥‥‥‥‥」
──頭が、真っ白になったような気がした。真っ白なのに、なのに熱い。もわぁ、と脳内で湯気が右往左往しているようだった。
視界が暗くなっていく。見開いた両目は嘘のように冷たかった。ぐらり、と倒れそうになる。方向感覚が無くなっていく。
「もう、会えないってことかよ‥‥‥」
「そういうことになるのう」
「──本当に、さくらと明楽はそれで満足しているんですか?」
「満足しようがしまいが、九州に住まなければ生きていけんじゃろ。満足などという感情は、生活が確立されてから向こうで探せばいい」
「違うッ! さくらも明楽も、納得してないはずだ! 現にさくらは、アンタのことが嫌いだと言っていた!」
「そんなことは貴様に関係ないだろうが! 他人の事情に手を出すな!」
「さくらはどこだ! 明楽はどこだ!」
「もういい、貴様はとっとと帰れ! これ以上居座るようなら本気で学校に文句を言うぞ!」
「ンなこと知るか! 文句言われても精々停学を食らうだけだよ!」
お祖父ちゃんを無視して立ち上がり、畳部屋の障子を強引に開く。二階にいるであろう、さくらと明楽を呼ぶためだ。
しかし開いた障子の先には──さくらが立っていた。着替えていないのか、彼女はプリヒラのパジャマを着ていた。僕らの会話を聞いていたようで、その表情は不安に塗れていた。
そしてさくらは無言で、走り去ろうとする。走る先は玄関だった。恐らくは家から出るつもりだろう。
「待てッ!」
パジャマの襟を掴む。さくらの冷たい首筋を直に触ってしまい、「あ、すまんっ」と引き離す。僕の顔面は、恐らく真っ赤に染まっていたように思う。
踵を返す。返した先には、冷たい眼光で見下ろしてくる老人が佇んでいた。眼力に負け、思わず目を逸らしたくなる。
でも、じっと堪えた。ここで目を逸らしてしまったら、全てが崩れ落ちる気がしたから。
失いかけたものが──二度と手の届かないところまで離れていく気がしたから。
「‥‥‥なあ、さくら」
「はいっ!?」
「僕と一緒に暮らそう」
「‥‥‥‥‥‥え? ふ、ふぇええええっ?」
「お祖父ちゃんと暮らしたくないんだろ‥‥‥だったら僕と暮らせばいい。家賃は払う、同棲生活だ。頼む、僕はお前たちと離れたくないんだ‥‥‥!」
「‥‥‥お祖父ちゃん」恐る恐るさくらが尋ねる。
「何じゃ」
「マコトさんと暮らしても、いい?」
「そんなもの、許せるわけがないじゃろうが。若い男女が同じ部屋で暮らすだと? 舐めているのか、貴様」
反論するだけの言い分を、僕は持っていなかった。
当たり前だ。若い男女が同棲生活、何か起きることは必然的である。ましてや、相手が女子小学生となると冗談では済まされない。
またもや、激しい自己嫌悪に駆られる。自分が気に入らなくて気に入らなくて仕方ない。以前には感じることすらなかった感情が、どばどばと押し寄せてくる。
離れ離れになることしか、もう道は残されていないのか──
「俺も一緒に住めば良くね?」
──声の主は、明楽だった。
振り向くと、階段から顔を出したパジャマ姿の青年が立っていた。パジャマはやっぱりプリヒラのものだった。
明楽の台詞に、お祖父ちゃんの落ち着いた佇まいが少し荒れるのを感じた。
「まあ、確かに三人で暮らすのなら可能性はある。が、家賃炊事洗濯掃除はどうする?」
「家事なら任せてくださいっ! ある程度なら自信がありますし、住んでから腕を上げます!」
「家賃に関しては、僕が負担しますよ。両親も一人暮らしがしたいと言えば、『社会勉強になる』とお金をくれると思いますので。足りなければバイトでもして稼ぎます」
「俺も半分出すよ。半分くらいならバイトしてれば稼げる」
「いや、僕の場合両親が特殊だから任せてくれ。ルームシェアを提案したのは僕だから、それくらいのことはしないと」
「貴様ら、勝手に話を進めるな! 儂は認めんぞ、絶対に認めんぞ!」
「でも、問題は何もないじゃないですか」
「儂が許さんのだ! くぁーっ、本当は大好きなんだよ、お前たち二人が! さくらと明楽、こんなに可愛い孫を放っておけるか!」
「‥‥‥ふーん。ツンデレ、ってやつか」
「あ? 何じゃそりゃ」
「‥‥‥あーあ、自己中心的で性格悪いおっさんだったら良かったのになぁ。下手に優しい人だと、こっちが困るってもんだ」
「何なんじゃ! ツンデレの意味を教えろ!」
「お祖父ちゃん。このままだと法律的にもマズイから、訊きます。
僕と明楽、そしてさくらとお祖父ちゃんで一緒に暮らす。
もしくは、僕と明楽とさくら、それにもう一人成人男性を加えてルームシェアをして、お祖父ちゃんだけ九州に戻る──どっちがいいですか?」
「何で儂がいないと成人男性が一人増えることになるんじゃ!」
「そういう法律があるんです。とにかく選んでください。まあ、お祖父ちゃんが来る場合──僕も住む理由はないんじゃないかっていう感じなんですけど」
「は、儂だけでも九州に戻るわい。ばあさんも待たせているんじゃ、向こうには。先日のお前だったら同棲など許さんが、今のお前は何というか──頼りになる。ここ数日で成長したな、孫を頼むぞ──マコト」
「‥‥‥ッ、任せてくださいよ!」
僕は笑顔で、そう返した。
余談だが、このあと杜田家で夕飯を頂いた。夕飯に一時間弱もの時間をかけ、楽しく話し合っていた。一家団らん、という言葉が似合う風景であったように思う。
そして、外で一時間半ほど待たせてしまった茜里に、びしばし背中を叩かれた。
誠くんがどんどん変な方向へ行ってしまい、軌道修正するか迷うレベルで恐いです。
とりあえず突き進むだけ進んでみます。