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私の海

作者: ren

 ――海に行きたい。


 ふとそんな思いが募ったのは、21時を過ぎた頃だった。パソコンの画面から目を離し、私は椅子の後ろでぎゅーっと腕を伸ばした。


 ほとんど人がいない医局の中なので、鼻歌の一つや二つ歌っても支障は出ないのだろうけども。首をコキコキと回し、私は再びキーボードの上に指をセットした。


 春に医学部を卒業し、就職したのはとある市中病院だった。田舎とはいえしっかりと設備が整っていて、症例数も多く、人気も高い。ハイパーな研修先では無いけれど、自主的で意欲的な同期に囲まれ、私は充実した生活を送っていた。


 直属の上司とも言うべき指導医の先生はとても熱心で、研修医を一人で放置することもなく面倒をみてくれていた。それでいて、休日はしっかりと休む様に言ってくれる……まさに理想の上司だった。


 そんな恵まれた環境で働いているというのに、最近、どうにも疲れが溜まって取れないのだ。


 ――今日はもう、帰ろうか。


 幸いやらなければならない仕事は全て終わっていて、今は自習を進めていただけだった。私はすぐにパソコンの電源を落とし、帰路についた。


 病院から歩いて5分程に、借りている寮はあった。一人暮らしにしては広い目で、特に不満も無い部屋。帰宅するや否や、私は服を着たままベッドに倒れこんだ。


 ――うーん、疲れた。


  このまま寝てしまっても良いのだけれど、食事はきちんと三食取りたい性分だった。のろのろと起き上がり、冷蔵庫の扉を開ける。幸い、昨日作った野菜炒めが残っていた。


 電子レンジを回すのもそこそこにして、私は遅めの夕食を頬張った。不味くは無いけれど美味しくもない、至って普通の晩餐。これを食べ終えれば、食器を片付けて入浴して寝るだけ。多少の違いはあれども、毎日がこの繰り返しだった。


 ――本当はもっと、勉強出来たら良いんだけど……。


 研修医に必要なのは、自分で勉強する時間だった。いくら国家試験を突破したとはいえ、机上と臨床では何もかもが違った。今まで途轍もなく多く思えた勉強は、実は広く浅く、看護師さんや技師さんの方がよっぽど医療に精通しているという事実を思い知った。


 日常の業務をこなしながら、いかに知識を吸収し、技術を磨いていくか。それが今の課題だった。


 うちの病院は研修医を大切に扱ってくれるのがウリなので、日常業務で忙殺されて過労死……といったことはまず起こらない。自分次第で17時に帰宅することは容易に可能であるし、朝も9時ギリギリに来ても問題ない。しかし、先にも述べた通り、私の同期の研修医たちはとても自主的で意欲的なのだ。


 朝早く来て患者さんを診て回ったり、仕事が終わっても遅くまで自習しているのは日常的。休みの日でも、誰に言われるでもなく病院に来て勉強している者が多かった。


 それは勿論、私とて同じだった。学生時代そんなに成績が振るわなかったせいもあって、研修医になった暁には誰よりも努力してちゃんとした医師になろうと決意していた。だから来る日も来る日も、精一杯の積極性を絞り出して頑張っているのだが……。


 ブラック企業がどうのとか、コスパがどうとかが仕切りに叫ばれている時代に、何を逆行しているのだろうと自嘲してしまったこともあるのだけれど。実際に何人かの友達からは、何故医師になろうと思ったのかと真面目な顔をして尋ねられたこともある。その度に私は、今の生活に文句など無いと本心で思っていることを伝えているのだが……。


 ――海に行きたい。


 それは昔からの、疲れた時に頭に浮かぶフレーズだった。別に実際に、日焼けしてまであのべたべたする場所を訪れたいわけでは無い。心の故郷とも言うべき、安らぎの場所が私の中には確かに存在していた。


 ――なんで、好きなことしかしてないのに疲れてるんだろ……。


 満腹による眠気に襲われながら、私はそんなことを思ったりした。




 翌朝――。うっかり床で眠ってしまった私だったが、いつも通りの時間に目が覚めた。適当に朝ごはんを食べて、同じ様な生活が始まる。一つ違うのは、夜の予定だった。中学時代の友達に誘われて、今日は久しぶりに外食をするつもりだった。


 ――せっかくだから、ちょっと早目に出て買い物でもしよう。 気分転換にもなるし。


 その日は特に問題も無く、新しい患者も増えず、私は17時過ぎには病院を出ていた。


 ――17時に終わるなんて、楽な仕事……。


 若干の罪悪感を覚えつつも、電車に乗っていざ市内へ。買い物とはいっても、必要な物は特に無く。都会でぶらぶらしたかった、というのが本当のところかもしれない。


 大学時代は行き飽きていて、わざわざ出向くほどでも無いと思っていたのに……。すっかり田舎に馴染んできたというわけである。


 なんとなく足が向いたのは、雑貨屋だった。今の部屋は、シンプルイズベストを心がけていたせいもあってか、本当に必要最低限の物しか置いていなかった。


 ――寝る為に帰ってくる部屋、だと思ってたしね。


 GWも過ぎ、インテリアは涼し気な物が多かった。可愛い食器も沢山あったが、それには見向きもせず。私が手に取ったのは、変な植物だった。


 ――何これ。


 最早枯れている様にしか見えないそれは、無造作にビニールにくるまれていた。根っこも何も無い様に見えるが、説明書きを読むと土も要らない植物らしい。


 ――……変なの。


 首を傾げつつ、私は手に取ったそれを元に戻した。とても他の物の世話をしている心の余裕は無いと思ったからだった。


 次に目に留まったのは、白い貝殻の詰め合わせだった。


 ――可愛い。


 単純に、そう思った。何もないベッドの棚に置いたら、少しは雰囲気が変わるだろうか。真剣に購入を検討していると、後ろからどこぞのカップルの声が聞こえてきた。


「うわ、何これ貝殻!?」


「死骸を買う人って何を考えてるんだろうね……」


 ――……。


 なんとも言えない気持ちになって、私は一旦その場を離れた。確かに貝殻は死骸であることには間違い無いのだが、大きな声でそんなことを言わなくても良いのに。


 逆に疲れた気分になって、私は結局、何も買わずに店を出た。少し早いが、もう待ち合わせ場所で立っておこうと思ったのだ。


 その後、友人と楽しいひと時を過ごしたものの……。ふとした瞬間に浮かぶのは、勉強したいという気持ちと、海に行きたいという気持ち。


「明日も早いから、早目に帰るわ」


「医者大変だね。 じゃあ、待たね!」


 21時過ぎには分かれ、すごすごと帰宅。


 ――これじゃ、気分転換にもなってない……かも。


 電車の窓越しに見えたのは、こんなちっぽけな私を見下ろしてくる細い月だけだった。




 その日の夜、夢の中で私は夜の浜辺を歩いていた。月明かりに照らされ、波に打ち寄せられた貝殻が白く、闇夜に浮かび上がっている。


 ――やっと来れた、私の海。


 歩き疲れた私は、近くにあった流木に腰かけてみた。何もない場所で、ただ波の音だけが、ずっと響いていた。


 ――ここが私の居場所だ。


 唐突に、そう思った。他人から見れば死骸だらけの海だろうと。もっと簡単で楽に生きていける場所があろうと、私はこの場所で一生生きていくのだろうと。いや、むしろ生きていきたいのだろうと。


 定刻通りに朝を告げる目覚ましが、今日も私を現実へと引き戻す。それでも私の耳には、いつまでも波の音が鳴り響いていた。


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[良い点] ・日常を彩る情緒的な描写 [一言]  こんばんは、renさん。上野文です。  御作を読みました。  日常なのに詩的だ^▽^  お仕事というのは、どんなものであれ乾いた側面があるのですが、な…
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