プロローグ
黒天を覆いつくす魁星。淡い薫風が、星々が見つめる草原を撫でる。
それは今までに見たことがないほど壮大で、繊細な夜空だった。この世の全ての悪を凝縮した様な黒に、穴を開けるかの如く輝く星は今にでも消えそうであったが、それでいて力強く光を放ち続けている。
――最後の夜に、相応しい景色でよかった。
悲しみはとうに受け入れた筈であったが、思わず目頭が熱くなる。だが、泣くわけにはいかない。今、誰よりもその命を惜しんでいるのは、彼女本人に他ならないのだから。
隣で同じ景色を見つめる彼女の双眸には、何が映っているのか。その瞳の奥までは、彼女と華燭の典を挙げた彼ですら理解することは出来なかった。
「いざ死ぬとなると、色々思い残すことがありますね」
彼女は濡れた瑠璃色の空気を胸いっぱい吸い込み、大きく吐き出した。
「こうして、呼吸をすることすら、尊く感じます。そうは思いませんか」
彼は返事に窮し、奥歯を強く噛みしめ、ただ天を見つめていた。声を一言でも漏らせば、同時に涙が零れてしまいそうだった。呼吸ですら、小刻みに震えている。
――何故、彼女が選ばれなければいけなかったのか。
そう考えれば考えるほど、彼の内から、ぶつける場所のない不毛な怒りが、フツフツと込み上げてくる。運が悪かっただけなのだ。そう気持ちを切り替えられたのならば、どれだけ幸せだろうか。
中には寧ろ、運が良かったと言う者もいるだろう。この国を守るために命を捧げられるのだ。これ以上の喜びはないと叫びながら、狂気染みた笑顔で最後を迎えた者も、過去にはいたと聞く。
彼女は『それ』を不幸と思っているのか、はたまた幸福と思っているのか。・・・・・それは愚問だ。前者に決まっている。だが何故、彼女はこんなにも朗らかに微笑んでいるのだろう。
「そんなに、私が泣かないことが不思議ですか?」
まるで彼の心中を見透かしていたかの様に、彼女は夜空を見つめたまま問いかける。彼からの返答がないことも理解している彼女は、独り言のように続ける。
「この命はとても惜しいですが、私が死んでも、私たちには、大切な宝があります。あの子の生きる未来の為です・・・・・あの子のことは頼みましたよ」
強く、彼の掌を握る、細く白い指。
「本当に、幸せでした」
彼女はその視線を、彼へと移す。
「今更、改めてこんなことを言うのは気恥ずかしいですが、あなたに出会えて、私は本当に幸せ者でした」
――その一言に、ぷつんと糸が切れたかのように、彼の目から溜まっていた涙が零れ落ちる。抑え込んでいた愁傷が嗚咽となって表れるのを、止めることは出来なかった。
彼女を守ると誓ったあの日から、彼は正義を掲げ、国の為に全身全霊を捧げていた。この国を守ることは即ち、彼女を守ることに他ならないと信じて疑わなかった。しかし、その国の為に、彼女は今、犠牲になろうとしている。この身一つで彼女が助かるのならば、彼は自身を獄炎の渦に放り投げることも躊躇しなかっただろう。だが、彼は決して愚かな男ではなかった。国と遣り合えば、どちらに軍配が上がるのかは火を見るよりも明らであり、それに何より、彼にはこれからの長い月日、二人の宝である、小さく儚い命を守る義務がある。彼は十分に、それを承知していた。
だが、理解しているからこそ、己に対する不甲斐無さが募っていくばかりだった。今の彼に出来ることはたったの一つ、その義務を守り通すことのみ。愛する者一人救えず、ただ怒りを抱きかかえながら涙を流すことしかできない己の無力さを、恨むしかなかった。
彼女は、泣き止まない彼に柔らかく、そして優しく囁いた。
「大丈夫。貴方は誰よりも優しく、強いお方です。私が言うのです、間違いありません。これからは、あの子の手本になるよう、今よりも強く生きてくださいね。だから、もう、これ以上泣くのは止めてください。・・・・・そんなに泣かれると、私まで・・・・・泣いてしまいます」
――淡い二人の泣き声が、さざめく夏草に木霊する。
届かない祈りは途方へ消え、ただ、永遠に感じられたその時間だけが、人々の為に尽くした彼らへの、最初で最後の果報だった。
翌日、ルチ=ウートリクエは『太陽の儀』により、この世を去った。