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第八章 其の三

 ほほ、と王女は艶めいた笑い声をあげ、甘い声で言った。

「それでは、慈悲を上げましょう。あなたがわたくしのものになればあの娘の血を捧げなくてもよい」

 闇の王女は滑るようにどんどん近づいてきた。

 肉感的な体をすり寄せ、魔王の肩に手をかけ、耳にキスをしそうなほど近づいてささやいた。

「そう、あなたの本当の妻は今ここにいる者ではない。どこに行ったのでしょうね、愛を誓ったあなたを捨てて。

 蠱惑的こわくてきな体と娼婦のような魅力でわたくしからあなたを寝取ったあの女のこと、今頃は他の男とお楽しみなのでしょう。

 そしてあなたは妻を求めている。

 さあ、わたくしのもとへ、愛しいアルシス」


 再び彼の目から力がなくなってきて、ぼうっと虚空を見つめていた。

 まるで、今にも、一歩踏み出しそう。

「だめ! 魔王様、行ってはだめです!」

 

 止めなければ。どうしたらいいんだろう。でも、あたしはロディアさんじゃないし。


 その時、突然、思ってもみなかった言葉が口をついて出た。

「あなたの本当の名前はアルトリス・ソリディオミロファロス。そして、その意味は『残された希望』!」

 どこから、出てきたのだろう。でも、まるでずっと前から知っていたように、急にその記憶は出てきた。


「じゃまをするな! 小娘!」

 闇の王女がかっと目を見開いてハナを睨もうとした。

 ほとんど同時に、後ろにいたタリミカが、ハナの顔を自分の方に向かせてくれた。背の高いタリミカの胸に顔をくっつけるような形で、ハナを抱き寄せて守ってくれた。


 しゅうしゅうという音がますます大きくなり部屋中に響いている。ハナからは見えないが、辺りの空気は、寒いを通り越して全身を刺すような冷たさになってきていた。

 タリミカが温かかった。彼女の強さは安心できた。

 

 冷たさに耐えているうちに、だんだんと音が消えて冷たさが薄れてきた。

 タリミカが力を抜いたので、ハナも彼女から離れて見回してみた。

 闇の暗さはもうなかったが、『闇の手』の上にうつ伏せで魔王が倒れていた。


「やったか!」

 喜びに満ちた声で、聖剣を持ったまま、フォルズスが魔王に駆け寄ろうとした、その時。


 魔王の傍らに、忽然と五人の男が現れた。

 銀色の直毛を長く垂らした男が一人。あとの四人は真っ白な直毛を、やはり長く垂らし、全員が白い長衣を着ていた。


「な、何者だ! も、もしかしてセイアン人か。どこから入った!」

 フォルズスは、慌てて部下達を見回したが、皆、首を振るばかりだった。

「恐れながら陛下、門もドアもすべて閉鎖しております」


 震えながらもフォルズスは、セイアン人に向かって剣を構えながら、怯えた声で尋ねた。

「おまえの仕業か、ズィブノス」

 しかし、そうでないことは一目瞭然だった。

 グィドル派の魔法使いは、腰を抜かして、座り込んだまま、ずるずると後ろにずり下がっているところだった。


 「セイアン人第七十八目のおさ、ドリエン」

 銀色の髪の男が、よく通る澄んだ声でそう名乗った。

 ヤズーもそうだったが、彼の顔も若い。瞳の色は銀色に近いような灰色だった。


 ドリエンが立っていたのは、『闇の手』の中だった。

 そこは、危ないのではないだろうか、とハナが内心心配した、心の声がわかったかのようにドリエンは言った。

「記号というものは、それに人が意味を与えなければ、ただの模様に過ぎない」

 ドリエンがその手を下に向けると、跡形もなかったように『闇の手』の印はすうっと消え去った。


 フォルズスも家臣達もがたがた震えて、ただ、ドリエンを見つめていた。グィドル派の魔法使いはなんとか逃げだそうと、四つん這いで出口の方に向かおうとしていた。


 四人の白髪の男達は、担架ほどの大きさの布の四隅をそれぞれ一角ずつ持って魔王に近づき、ふわりと魔王の上からその布をかけた。

 上から掛けただけのはずなのに、布は彼の体を通り抜けて体の下に、まるで初めから布の上に横たわっていたように落ち着いた。

 四人の男は同時にかがみ込み、布を持ち上げようとした。


 ハナは急いで駆け寄って尋ねた。

「あの、魔王様をどこに連れて行くんですか?」

 ドリエンが初めてハナを、銀の瞳で見つめた。

「闇の中では愛と望みが最も力になる」

 いつか、魔王が言っていた言葉を、ドリエンは繰り返した。

 急に、言いしれない安心感が、包むようにわき上がってきた。

 あの時は、望みがハナの命を救ってくれた。今、闇から魔王を救ってくれたのは愛なのかもしれない。


 「あの、魔王様を助けて下さるんですね」

 ドリエンの瞳は変わらず冷たかった。

「我らは命をつかさどるものではない。命の火はそれぞれ固有のものであり、我らの預かり知らぬこと」

 命の火は固有のもの。この間の戦の看護で、ハナは学んだ。命の火は、人の予想の範囲ではわからない。

 助けようとしても助からないこともある。無理かもしれないと思っても、助かることも。

 ドリエンの言うことは冷たく聞こえたけれども、それは真実なのかもしれない。

「あなたを信じます」

 ハナはドリエンをまっすぐ見つめて、そう言った。

 ドリエンが僅かに口元をほころばせた。


 セイアン人達は、そのまま布を四人で持ち上げて歩き出し、すうっと見えなくなり、ドリエンも同時にかき消えた。


 しばらくは誰も口をきけなかった。


 初めに動いたのはフォルズスだった。王冠も落としたままの彼は、闇の手があったところを聖剣で何度もつついてみたが、闇の手は復活しなかった。

 そして、辺りを不機嫌に見回してハナに目を留めた。

「この女を捕らえよ! 魔王の妻だ。この女の血を犠牲に捧げれば奴は今度こそ闇に落ちる。その時こそ、わがギルティスが奴を倒すときだ!」


 その言葉で、目が覚めたように一斉に皆が動き出した。

 剣を持って襲ってくる衛兵、ハナを守ろうと剣を抜くエルト人。

 たちまち辺りはカキンカキンと金属がぶつかる音で埋め尽くされた。

 壁際のハナを守るようにタリミカは動かず闘ってくれている。でも、衛兵達の方が圧倒的に多かった。


 ガキン、とハナのすぐ隣の石の壁を衛兵の剣が打ち据えた。

 むちゃくちゃ怖い。

 「こちらへ。逃げます!」

 一人のエルト人がハナの手をつかんで引いた。

「あの、でも、タリミカさん」

「彼女は大丈夫だ。早く!」

 言われるまま手を引かれて出口の方へ急いだ。城の外にはもっとたくさんエルト人がいるはず。外まで出られればなんとか助かるのではないだろうか。


 カキーン。

 護衛のエルト人の剣が、振り下ろされる衛兵の剣をハナの目の前で押し止めた。

 謁見の間から出口に向かう廊下の途中にも、うじゃうじゃ衛兵がいる。フォルズスはこういうことを予想して備えていたのだろうか。それとも、いつも、こんなにたくさんの衛兵に自分を守らせているのだろうか。


 エルト人達は本当に善戦してくれた。数で圧倒的に勝る衛兵を一人一人確実になぎ倒し、ようやく出口が見えた。

「王妃様、外には皆がおります。お先に逃げて!」

 叫び声に励まされてハナは出口の扉を外に駈け出そうとした。


 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 何かに足を取られてつんのめった。次の瞬間には体の上に誰かが乗っかって腕を押さえつけられていた。

「助け・・・!」

 叫ぶ間もなく、ぐい、と体ごと抱え上げられた。

 エルト人、と、扉の外を探そうとしたがその間もなかった。

 せっかく、ここまで来たのに、ハナはまた宮殿の中に連れ込まれてしまった。


――――――――――――――


読んでくださってありがとうございます。


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