第一章 夢ですか? 異世界ですか? 其の一
第一章 夢ですか? 異世界ですか?
目覚ましはまだ鳴らない。
今日の試験は内科学と眼科学。最後にもう一度だけ復習をしておこうとハナは枕元の教科書に手を伸ばした。
が、その手に触ったのはソフトカバーの教科書ではなく人の顔だった。
ん? 人の顔?
一気に目が覚めたハナは飛び起きた。
「きゃ―――っ! 誰っ? いや―――っ!」
教科書のあった場所に寝ていた男は眠そうに手を伸ばして目をこすった。
外国人?
髪は黒いが、顔の彫りは深く眉も睫毛も濃い。布団から伸びた腕と、そこからのぞく肩にも何も衣服をつけていない。
「どうした、ロディア。何か出たか?」
男はのんびりとそう言い、ゆっくり顔をこちらに回して目を開いた。
「出たのはそっちですっ! どうしてあたしの部屋に! 誰ですかっ!」
ハナは後ずさって落ちそうになりながらベッドから出た。
「お母さんっ! 変な人がいるーっ! 警察呼んで、警察」
ドアに駆けつけようとしたハナは、そこで初めて何かがおかしいのに気がついた。
ここはあたしの部屋じゃない。
床は固い石造りで、壁も石でできているようだ。一方の壁には窓が幾つか並んでいるが、ガラスではなく木でできた開き戸がついていて、今は突っかい棒のようなもので半開きにしてある。日の光は入ってくるが、ハナの部屋の窓に比べると窓が小さいのでずい分薄暗い。
「どこ・・・、ここ。あなた、誰で、あたしをどこに連れて来たんですか・・・?」
急に怖くなってハナは男の方を見て立ちすくんだ。
男は眠そうに目をこすりながら上半身を起こして物憂げに答えた。
「どこって、・・・城だが。どうした? ロディア。何か夢でも見たのか」
「城――っ?」
また叫んでしまった。悪い冗談だろうか。それとも、怪しいラブホテルか何かに連れ込まれてしまったのだろうか。
「あの・・・」
何から質問したらいいのだろう。頭の中で聞きたいことが山ほどある。それに、身の危険も感じる。こんなところで見知らぬ裸の男と二人きりでいるなんて、いったい自分の身に何が起こったのだろう。
その時、どんどんと外からドアをたたく音がした。
「王妃様、どうなさいましたか? なにやら悲鳴のような声が聞こえましたが」
「モーラか。入れ」
外から聞こえた女の声にハナが答える前に、男がこともなげに答えた。重そうな木でできたドアがギーッと開き戸口に背の低い小太りの女が姿を現した。
入ってきたのが女性だったのでハナは少しほっとした。でも、油断をしてはいけないかもしれない。悪い男に協力する女性だっていると聞いたことがある。
「王妃様?」
この女も外国人のようだ。茶色い髪の女はハナを見上げて不思議そうに眉をひそめる。
「王妃様って言った?」
冗談なのか、もしかしてこういう変なプレイをする場所なのだろうか。
「おかしいだろう。ついさっき目が覚めたら、こうだ。俺のこともここのこともわからないと言う。おまえ、どういうことかわかるか」
「いいえ、私には・・・」
モーラと呼ばれた女は困ったように先ほどの男の方に目をやった。
男はひとつため息をつくとベッドから起きあがった。
もしかして、この人、何も着ていなかったらどうしようと思ってハナは思わず顔を背けた。ついでに、自分が服を着ているかどうか確かめてみた。
よかった。服は着ていた・・・、が、それはどう見てもハナの服ではない。こんな薄茶色でゆったりしたネグリジェのような服など持っていない。ハナはいつも寝るときはTシャツにコットンパンツだ。もしかして、何か危ないことをされて着替えさせられたのだろうか。
もうひとつおかしなことに気がついた。袖から出ている自分の手が、いつもと明らかに違う。こんなに肌が白くて滑らかではないし、指もこんなにすらりとしていない。だいたい、下の方を見て胸に隠れてお腹が見えないなんてありえない。
まさか、と思って自分の体をそうっと触ってみたけどやっぱり感触が違う。そして、肩から垂れる長い髪はゆったりとカールした赤毛だった。
どういうこと?
男は間もなく着替えて、ドアの近くに立っているハナと、モーラの方に歩いてきた。
開いているドアから日の光が入っている。ドアの外は廊下のようで、窓はもう少し大きく木の開き戸で遮られておらず、明るかった。
明るいところで男は立ち止まってもう一度ハナの方を見た。
その顔を見て、あらためてハナはぎょっとした。
瞳の色が左右で違う。
「虹彩異色症」?
昨日の夜、勉強していた教科書に写真が載っていた。けど、何の病気だったか。
そうだ、勉強のしすぎでおかしくなって変な夢を見ているのかも。妙にリアルだが、これもストレスのためなのかもしれない。
ハナが思わず身を引いたのを見て、男の表情が微妙に変わった。それまで、いたわるような心配するような目で見ていたのに、急に彼の方もハナが知らない人であると気がついたように見えた。
「ロディア、どうした。おまえ、本当に・・・」
「あの、ロディアって・・・」
男はまたひとつため息をつくと、
「ヤズーはいるか」
と尋ねた。
「いいえ、いらっしゃらないと思いますが」
「わかった。俺はエリューのところに行ってくる。おまえはロディアを頼む」
「わかりました」
男はそのまま長い足で廊下を歩いていった。かなり背が高く肩幅も広い。いったいどこの国の人なんだろう。
ハナはモーラと二人残された。
「あのう」
何から話していいのかわからないので、とりあえず声をかけてみた。
「王妃様、いったいどうなさったのですか?」
モーラは心から心配しているようだ。外国人なので年齢はよくわからないが、若くはなさそうだ。ハナの母親ぐらいだろうか。
「あの、王妃様っていうのは、つまり、あの人が王様で、あたしがその奥様ってことですか? 名前はロディアさん?」
同じベッドに寝ているということは、それが一番考えられる。それにしてもどうしてこんな夢を見ているのだろう。ハナはゲームをあまりやらないが、もしかしてゲームの中のような夢なのだろうか。それとも、歴史のどこかなのだろうか。
「王妃様、本当に覚えていらっしゃらないのですか?」
「覚えてないっていうか・・・」
覚えるも何も全くわからない。夢ですよ、と言ってくれたらどんなに気が楽だろう。でも、夢の中で夢ですと言われたことは、そういえば、ない。
「お疲れなのでしょうか、王妃様。それとも何か私たちに悪いところがありましたか?」
モーラは涙ぐみ始めている。泣きたいのはこっちだけど、と思いながらハナは慌てて答えた。
「いいえ、あなたが悪いとかじゃないと思うんです。ただ、どうなっちゃったんだろうと思って・・・。ここ、どこなんでしょう。なんて国ですか?」
モーラは気を取り直したように顔を上げた。
「ここはエルシノアです」
エルシノア。聞いたことがないが、歴史のどこかでそういう国があったのかもしれない。
「エルシノアって、どの辺にあるんですか? フランスとかの近く?」
「フランス?」
わからないようだ。
「あの、じゃあ、どっか近くの国って何がありますか?」
「一番近いのはバルラスだと思います。歩いていけば二日ほど」
「え? 歩く? あの、電車とかないんですか?」
「デンシャ?」
電車のない時代なのだろうか。
「あの、じゃあ馬車とか?」
「そうですね、馬車ならもう少し早く行けるかもしれませんが、道があまりよくないので・・・天候によってはかえってかかるかもしれません」
やっと話が通じた。この調子でいろいろ質問してみれば何か知っていることに当たるかも。
「あのう、この時代で有名な国とか王様とかって誰がいるんでしょう? あの、ローマ帝国とかフランク王国とか」
モーラはローマもフランク王国も知らなかったが、近隣の国はバルラスの他、ハルシアやリカルディがあるという。
「有名かどうかわかりませんが、大国といえばリカルディのトーランド王や、ハルシアのアレン王でしょうか」
さっぱりわからなかった。やっぱりゲームの中なのだろうか。それにしても、もう少し有名なゲームだったら少しはわかるかもしれないのに。
「あの・・・」
まだ何か聞くことはないか、考えていると、ぐうっとお腹が鳴った。驚きのあまりお腹が空いていたことに気がついてなかった。モーラも初めて気がついたようだ。
「あっ、王妃様、申し訳ありません。お食事の用意はできています」
「あ、ありがとうございます」
食事と聞いてようやく落ち着いた気がした。夢の中でも何かを食べるというのは嬉しいことなのかも。
手伝ってもらって着替えをすませたあと、石造りの廊下をモーラについて歩きながら、ハナはあたりを見回してみた。廊下はまっすぐではなく、ゆっくりと湾曲している。不思議なのは石造りといっても大きな石を組み合わせているというより一枚岩でつながっているようなのだ。壁の一方は石を切り取った窓が開いて日の光が射し込んで明るい。反対側には扉がいくつも並んでいた。
「あのう、ちょっと外見ていいですか」
好奇心に駆られてハナはモーラに聞いてみた。モーラが快くどうぞと言ってくれたので窓の一つから外を見てみた。
中世の町並みでも見えるのかと思ったら、外は一面の森だった。どこまで続くのだろうと思うぐらい広い森。
「あの、国ってどこにあるんですか? 森の中?」
モーラは首を振った。
「国は城の反対側の窓から見えます。森の一部にも最近は畑を広げていますけども、冬はみんな城壁の中に入ることが多いです。雪が深くなると狼たちが村までやってきますから」
「狼とか出るんですね」
ちょっと怖いと思いながらハナは話を続けた。やっぱり相当昔なのか、ゲームの中なのか。
その時、ふたりの隣を誰かが通っていった。
「モンスター・・・?」