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第8章 「またここに置いてもらっていーんすか?」

 明るい日差しの下で見るとそのアパートはいかにも安っぽく、やっつけ仕事で塗られたであろう青いペンキからは常に悲壮感が漂っていた。だけど今、その青は真夏の夜の闇にしっとり溶け込んで、ある種の荘厳さをかもし出していた。

 少なくとも和歌子の目にはそう映った。

 

 203号室のドアを開けると、懐かしい倫の部屋の匂いと入り混じって、醤油と生姜の焦げた香りが和歌子の鼻をくすぐった。

 香りの正体は、座卓の真ん中に手つかずのまま置いてある唐揚げだった。

「ああ、社長んちから貰ったんだよ」

 唐揚げを不思議そうに見つめる和歌子に、倫が言った。そのまま風呂場に入ると、ばしゃばしゃと水音をさせ始めた。どうやら鉄パイプを洗っているらしい。

 和歌子は黙って、部屋を見回した。

 足の裏に感じる、たわんだ畳の感触。相変わらす物の少ないそっけない部屋。料理の形跡のない台所。

 切望しすぎていっそ記憶ごと消し去りたいと願った、倫の部屋の気配。

 和歌子はさっきからーーアパートを見上げた時からーー胸が一杯で、口を開いたら言葉と一緒に涙が溢れてしまいそうだった。だから口を真一文字にぐっと結んで喉を閉じた。

 ふと思い立ち、狭い台所に足を踏み入れ、冷蔵庫のドアを開けてみる。ツンと鼻にくるすえた匂い。発泡酒の缶に挟まれ、それはあった。

 ラップに包まれた、豚キムチの皿。

 和歌子は冷蔵庫のドアを開けたまま、ほうけた頭で過ぎた日数を数えてみた。

 

 あれからいち、にい、さん......。


「......捨てるの忘れてたんだよ」

 背後から急に声がしたので、和歌子は驚いて後ろを振り返った。

 いつの間にか倫が立っていた。顔を洗ったのだろう、べっとり付いていた血の跡はきれいさっぱり消えていたが、左頬は赤く腫れたままだ。

「食わなくて悪かった」

 倫はそう言うと、鉄パイプを台所の隅にごろんと転がし、六畳間に入っていった。

 胸の奥から熱い塊がぎゅうっとせり上げって来た。飛び出さないよう、溢れ出さないよう、和歌子は冷蔵庫の前にうずくまりながらその衝動に耐えた。

 やがて、六畳間からカサカサとビニールのこすれるような音が響いてきた。恐る恐る部屋に戻ってみると、あぐらをかいた倫が、帰る途中コンビニで買ってきた絆創膏ばんそうこうを切れた唇の端に貼ろうとしているところだった。

 和歌子は咄嗟とっさに、倫の手から絆創膏を取り上げた。丸く目を見張った倫に構わず、半ば強引に唇に貼付けた。その拍子に、指先が倫の腫れた左頬に触れた。

 ぱつぱつに膨らんだ、真っ赤な頬。その張りつめた感触、燃えるような熱さ......。

 

 もう限界だった。


「......ずびばぜんでじだっ!!」

 和歌子は土下座するような格好で、その場にひれ伏した。その拍子に、こらえていた涙が、とうとう嗚咽おえつと一緒にぼたぼた溢れて落ちた。

「アダジッ、アダジッ、ゼンバイにひどいごどっ......!!」

 せきを切ったように溢れた涙が鼻を通って喉に落ち、言葉にならない濁音がその喉を震わす。

「ほんどにひどいごど......アダジ......ずびばぜん......ヒッグ」

 ずっと閉じ込めていた感情が解き放たれ、和歌子の全身を這うように駆け巡った。畳の上に落ちた涙が、またたく間に小さな池を作る。

 倫は黙って和歌子の懺悔ざんげを聞いていた。やがてその嗚咽が途切れ途切れになると、小刻みに震える和歌子の頭にポンと片手を乗せ、言った。

「私こそ、悪かった」

 思いがけない言葉だった。和歌子はひゅうっと息を呑んだ。

「脅されてたんだろ、オマエ?」

 その言葉に和歌子はのっそり頭を上げた。だが頭の重さに首が耐え切れず、すぐにガクンとうなだれる。

「逃げだら......ゔぇっ......ゼンバイのごど......ヒッグ」

 おさまりかけていた嗚咽がまたぶり返した。顔と畳の間に、涙と鼻水と唾液がごちゃ混ぜになった透明な糸がたらんと垂れた。

「やっちまう、とか?」

 平板な声で倫が訊いた。和歌子の脳裏に誠也の下衆な笑い顔がよみがえり、胸の奥がすっと冷たくなった。

「......ぞうっず」

 ずずっと鼻をすすり上げながら、肯定した。おぞましさに鳥肌が立つ。

「バーカ、私があんなのに大人しくやられるわけねーだろ」

 まるでからかうような軽い口調が、和歌子の胸に突き刺さった。弾かれたように顔を上げ、勢い込んでまくしたてる。

「そーかもしんないっすけど!でもあいつ何すっかわかんなかったから!」

 和歌子は必死に訴えた。

「万一そんな事になったらって思ったら......」

 だってセンパイが、アタシの大切なセンパイが、

「センパイがそんなことされたらアタシ......」

 アタシのセンパイが、アタシだけのセンパイが

 言葉が感情をあおった。和歌子は子供がいやいやをするように、激しく頭を振った。

 

 誠也のにやついた顔、散らばった豚キムチ、血の付いた鉄パイプ、セーラムの煙......

 

 混じり合う事の無い残像が、頭の中でマーブル模様を描く。

「落ち着けよ」

 倫の手のひらが和歌子の頭をがしっと押さえた。そしてそのまま、さっきとはまるで違う大雑把おおざっぱな手つきで、まるで大型犬にするように髪の毛をわしわしこねくり回し始めた。

 和歌子は目を白黒させながらも倫の手つきに身を委ねた。遠慮を微塵みじんも感じさせない乱暴な扱いなのに、不思議にすっと気持ちが収まった。

「オマエさ、」

 和歌子の髪の毛に手を突っ込んだまま、倫はぼそりと呟いた。

 なんすか?と目顔で問うと、倫は和歌子から微妙に視線を逸らしながら、もしゃもしゃになった髪の毛から手を離した。

「まあ、あれだ」

 倫には珍しく歯切れが悪い。何事かを逡巡しゅんじゅんするように、点いてないテレビに視線を向けている。

 センパイ何言う気なんだろう。動物的勘で倫の緊張を察知した和歌子は、居住まいを正して、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「もうどこにも行くなよ」

 あさっての方を向いたまま放たれた言葉は、瞬時に壁を跳ね返り、ピンポイントに和歌子の心臓を貫いた。

 正座した膝がわななき、あごががくがく震える。真からの「恐怖」と「喜び」が呼び起こす体の反応は、まったく同じだという事に初めて気付いた。

 もう一回言って下さい。そう言いたいけど、喉元まで出かかってるけど、どうしても言えない。

 代わりに出た言葉は

「またここに置いてもらっていーんすか?」

 馬鹿みたいに語尾が震えた。

 倫はテレビに視線を向けたまま、さも迷惑だと言わんばかりに、ぶっきらぼうに言った。

「オマエ危なっかしくてほっとけねーからな。連れ戻しに行くたび大立ち回りしてたんじゃ私もさすがに体保たねーし」

 和歌子の胸の奥で、心臓がぎゅうぎゅう鳴った。頭の先から足のつま先まで、全身に温かな何かが満ちあふれていく。

 

 センパイ、アタシセンパイの側にいていいんすね。


 誰かが自分のために必死になり、誰かが自分を必要としてくれる。

 生まれてこのかた周囲からないがしろにされ続けてきた和歌子は、いつしかそれを疑問にも思わなくなっていた。それが自分の運命なんだと、10代にして早々に人生を諦めていた。

 和歌子は倫の横顔を見つめた。

 武闘派でならした倫は、特に後輩達から恐れられ、遠巻きにされていた。だけど和歌子は倫を心底怖いと思った事は一度も無かった。無愛想でぶっきらぼう、口は悪いしすぐ手が出る。だけど、誠也の元から逃げ出そうと決めたとき、唯一思い浮かんだのは倫だった。

 それがすべてを物語っていた。


「ちっと煙草」

 とうとう和歌子の方を一度も見ないまま、倫は煙草を掴んでベランダに出て行った。

 窓の外、手すりに肘をついて煙草をくゆらせる、倫の背中。

 何度も何度も思い出した光景。

 和歌子は気付いた。もともと華奢きゃしゃだった倫の背中が、増々細くなっていることに。


 センパイーー


 上手く説明できない気持ちに急かされ、和歌子は倫の側に歩み寄った。

「センパイ、何で部屋の中で煙草吸わないんすか?」

 もしかしてアタシのためですか?その言葉は胸に秘めた。

「......こっからの景色が好きなんだよ」

 相変わらず倫は和歌子に一瞥いちべつもくれない。

 全然構わなかった。ただ側で倫の声を聞いていたい。和歌子はそれだけを思った。

「アタシもいいすか、隣」

 言ってしまってから、なぜだか無性に恥ずかしくなった。だけど一度口から出た言葉は取り消せない。和歌子は祈るような気持ちで倫の背中を見つめた。

「ベランダ崩れるぞ」

 そう言いつつも倫は、左側に人一人分のスペースを空けてくれた。和歌子はベランダに恐る恐る足を踏み入れ、崩れそうもないことを確認すると、「失礼します」と言いながら倫の左隣に立った。

 洗濯ハンガーを一つ吊るすのがやっとの狭いベランダに女が二人。自然触れ合う肩。

 

 あ、そう言えばセンパイとこうして並ぶの初めてかも。


 気付いてしまったら、もうどうしようもなくなった。

 和歌子は、体の右半分が、正座し続けた後のしびれた足みたいに、感覚が間遠になっていくのを感じた。

 倫は身じろぎもせず、煙草の煙を曇った夜空に吐き出し続けている。

 漂うセーラムの香り。あれほど苦手だったはずなのに、心地よくさえ感じるのはなぜだろう。

 和歌子は横目で右側を盗み見た。

 煙草をくわえ、遠くを見つめる倫の横顔。腫れの引かない頬と、肌色の絆創膏。自分が原因でつけてしまった傷。胸にざわざわ広がる後悔の中に、微かに甘ったるい感傷が含まれているのに気付いて、和歌子は驚いた。その傷が、自分と倫の間をつなぐ「特別な何か」であって欲しいと願うのは、思い上がりだろうか。

 

 センパイ、アタシ、今まで生きてきた中で今の時間が一番幸せです。


 和歌子は衝動的にそう言いそうになったが、言ってはいけないような気がして口をつぐんだ。

 自分でも上手く説明できないもどかしさ。この気持ちをどう表現したらいいのか、そもそも表現するべきなのか。もてあました気持ちが胸の中でからから音をたてて回る。

 一つ言えるのは、この時間がーーセーラムの香りに包まれ、倫と肩を寄せ合い、ただ川向こうの景色を眺め続けるーー永遠に続けばいいと願っている、その気持ちだけは紛れもない事実だった。


 倫は煙草を吸い終わるまで、とうとう一言も発しなかった。


 ♢ ♢ ♢


 騒々しい物音が、深い眠りの淵にいる和歌子の意識に微かに届いた。


「まじー寝過ごした!」

 切羽詰まった倫の声がふすま越しに響く。追いかけるように聞こえてくる、ドタバタした足音、ジャーという水音。夢が8割(うつつ)が2割の世界を漂う和歌子の意識は、それを現実の物音として受け入れ切れずにいた。

「ワコ! 仕事行ってくる!」

 倫のがなり声が、和歌子のほうけた脳みそをバチンと叩いた。

「......!? ここセンパイんチ!!」

 和歌子はカッと目を見開くと、文字通り、その場に飛び起きた。

 和歌子は四つん這いになってふすまを開けた。六畳間に敷かれた布団はもぬけの殻で、倫はすでに玄関を出ようとしている所だった 

「セ、センパイめしは?」

 和歌子は挨拶をすっとばし、慌てて倫の背中に声をかけた。

「食ってる暇ねー!」

 言葉と同時にバンとドアが閉まった。

 カンカンカンカン

 たちまちせわしない金属音が外階段から響く。

 和歌子が目を覚ましてから数十秒。倫は嵐のように去っていった。

 

 和歌子は四畳半に敷かれた布団に戻ると、ぺたりと座り込んだ。

 和歌子はともかく倫が寝過ごすのは珍しい事だった。携帯のアラーム音にまったく気付かない程、二人は深く眠り込んでいたのだ。昨日の出来事が、二人に想像以上の負荷を与えていた証だった。

「センパイ、めし食わないで大丈夫かな」

 誰もいない部屋で呟くひとりごとはーーひとりごとは大抵そういうものだがーー必要以上の物悲しさを連れてくる。和歌子は気晴らしにテレビでも観ようと六畳間に移動した。

 敷きっぱなしの寝乱れた布団が、目覚めてすぐの慌ただしさを物語っていた。

 すんません、センパイ。

 和歌子は心の中で倫に謝った。だが、寝坊させてしまった後悔の中に、寝起きの顔を見られなくて良かったというホッとした気持ちが見え隠れしているのも事実だった。

 和歌子は畳に両膝立ちをして、あるじのいない布団を見下ろした。

 どういう感情が作用したのかわからないが、和歌子は敷布団の真ん中にそっと手を伸ばした。そこは微かに湿っぽく、はっきりとした温かみを残していた。要するに、それは人肌の温かさだった。

 

 センパイの体温......!

 

 心臓が、ドクン、と大きく一つ、高鳴った。


 気付いたら、和歌子は倫の布団の真ん中に寝転がっていた。

 枕に顔を埋め、タオルケットを両腕でかきいだく。エッセンシャルリッチダメージケアの香りとセーラムの匂いがたちまち和歌子の鼻腔びくうに広がった。

 体の奥底からぞく、ぞく、ぞく、と得体の知れないさざめきがわき上がって、頭の芯がじーんとしびれた。

 

 センパイ、センパイ、センパイ......!!


 和歌子はタオルケットを抱えたまま、布団の上をごろごろ転がり回った。


 ......!!


 和歌子はハッと我に返って、がばと上半身を起こした。


 アタシ......アタシ今何してた!?


 心臓がドクドク脈打って、全身から冷や汗がどばっと吹き出した。「まさか」と「やっぱり」が胸の中でせめぎあう。気持ちの整理が付かない和歌子は、タオルケットを抱えたまま、呆然と虚空こくうを見つめ続けた。

 

 とりあえず、今夜どんな顔して帰宅した倫を迎えたらいいのか。それが和歌子の最重要課題となった。


 

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