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第7章 「あの野郎の事はずっと前からこうしてやりたかったんだよ」

 フライパンの中で豚キムチが出来上がりつつあった。

 和歌子は無表情に菜箸さいばしを動かしている。

 仕上げに酢を少し垂らすのが和歌子流の隠し味なのだが、わざわざ身を屈めて流しの下から取り出す気にはならなかった。


 冷蔵庫の中の豚キムチ、食べてくれたかな。


 倫の部屋を出て行く前夜ーーこうなる事を予想もしていなかったあの時ーー多めに作って冷蔵庫に入れておいた豚キムチの行末ゆくすえが気になった。もちろん仕上げにしっかり酢を垂らした和歌子の自信作だ。


 センパイちゃんとめし食ってるかな。

 唐揚げ作ってあげたかったな。

 河川敷一緒に散歩したかった。

 エトセトラ、エトセトラ

 

 豚キムチをきっかけに、倫を巡る様々な想いが、数珠じゅずつなぎになって和歌子の頭の中を駆け巡り始めた。しっかり口を結んでいないと叫び出しそうだ。和歌子は顔を巾着きんちゃくのように歪めて、押し寄せる激情の奔流ほんりゅうに耐えた。

「おせーよ」

 誠也のいらついた声が背中に当たった。次はきっと言葉ではなく空き缶が飛んでくる。見えないように顔をしかめつつ、「ごめんもうすぐだから」とへつらう。そんな自分に吐き気をもよおす。

 倫の顔が脳裏をよぎる。薄い唇を引き結び、垂らした前髪から覗く色素の薄い切れ長の目。見ようによっては人に冷たい印象を与える無愛想な顔。

 どうしてだろう。誠也の元から逃げようと決めた時唯一思い浮かんだのは、あれほどつるんでいた友達でもなく、もちろん父親でもない。倫の、あのニコリともしない無愛想な顔だった。

 手近な皿に豚キムチを移しながら、このフライパンを誠也に投げつけてやったらどうなるだろうと想像する。間髪入れずに『そんなこと出来やしないのに』ともう一人の自分が冷ややかにわらった。


 コンコン


 皿を運ぼうとしたところで、流しのすぐ脇にあるドアからノックの音が響いた。

「誰だ?ユウジでも来たんかな」

 そう言いつつ、スマホゲームに熱中している誠也は動く気配がない。誠也の仲間にしてはノックの音が何となく律儀で硬いなと思ったが、和歌子は皿を持ったまま「はい?」とドアを開けた。

 

 人違いかと思った。数回瞬きをして、改めて見直した。

 間違いない。

 

「セ、センプァ......」

 ひくつく喉からヒキガエルみたいな声が出た瞬間、腕をつかまれ、そのままもの凄い力でドアの外に引っ張り出された。入れ違いに部屋の中に入っていく倫の右手には、銀色に光る細い棒が握られていた。

「オマエは外出てろ。絶対入ってくんなよ」

 倫はそう言い残すと、蝶番ちょうつがいが外れるのではと思う程の勢いでドアを閉めた。

「え、ちょ、センプヮイ!」

 ドアを開けようとしたが、内鍵をかけられたのかびくともしない。ほぼ同時に、部屋の中から派手な物音と、「ぐお」といううめき声が響いた。和歌子は驚愕きょうがくし、足元に豚キムチをぶちまけた事にも気付かなかった。

 

 ドッタンバッタン、カシャーン、パリーン、「てめ」「ぶっ殺す」


 乱闘騒ぎの典型のような物音が響いている間、怒濤どとうの展開についていけない和歌子は、なす術無くドアの前で震えていた。

 

 どのくらい経った頃だったか。いつの間にか部屋の中がしんと静まり返っているのに気付いた。

 だがその不気味なまでの静寂が、かえってただならぬ事態が起こっている事を予想させた。

「セ、センパイ!?」

 和歌子は弾かれたようにドアにかじりついて叫んだ。

「センパイが死んじゃう!」

 一気にパニックに陥った和歌子は、破れんばかりにドアを叩き出した。

「センパイ死んじゃやだ!!」

 自分の言葉にあおられ、黒い不安がはち切れんばかりに増幅していく。一心不乱にドアを叩きながら、和歌子は声を限りに叫び続けた。

「センパイ!センパイ死なな......ぶっ!」

 突然開いたドアにしたたか鼻をぶつけ、和歌子は顔をおおってよろめいた。

「......縁起でもねー」

 開いたドアのすき間から、倫がよろりと姿を現した。髪も服も乱れ、左頬を腫らし、鼻と口から鮮血が筋になって流れている。

「フェ、フェンプヮイ!」

 鼻を押さえたまま和歌子は倫にすがりついた。

「センパイ死んでない?」

 和歌子の間の抜けた発言に拍子抜けしたのか、倫はニヤッと笑うとすぐに顔を歪めた。ペッと吐き出したつばには血が混じっている。口の中がひどく切れているようだ。

「見りゃわかんだろ生きてるよ。ま、あいつは死んじまったかもしんねーけどな」

「えっ!?」 

「バーカ、噓だよ。私だってあんな男のために人生棒に振りたかないしな」

 和歌子は心底ほっとした。誠也の身を案じてではない。倫のために、だ。

「ま、生きてる事後悔するぐらいの脅しはきっちりしといたけどな。ハハ、アイツちびってやんの」

 久しぶりに垣間かいま見た『武闘派・倫』の横顔に、和歌子は背筋が凍り付いた。

「な、何言ったんすか......?」

 恐いもの見たさで恐る恐る訊いてみる。

「知らねー方がいいこともあんだよ」

 倫は血の付いた唇を歪め、残酷な笑顔を作った。とてもこれ以上訊ける雰囲気ではない。

「う、うっす」

 和歌子は素直に引き下がった。

「まあ、とにかくこれでアイツも大人しくなんだろ」

 何でもない事のようにあっさりそう言うと、倫はポケットから煙草を取り出し火をつけた。

「......」

 和歌子は所在なく、足元に目を落とした。豚キムチが無惨に散乱し皿は粉々に砕け散り、もともと汚い外廊下が、増々ひどいありさまになっている。

 猛烈な嵐が過ぎ去り冷静さを取り戻した頭の中が、「いたたまれなさ」でじっとりと満たされていく。

 

 とにかく何か言わなければ。

 感謝?謝罪?それとも?


「セ、センパイ、あの......」

「あ、忘れもんしたわ」

 和歌子の言葉をさえぎるようにそう言うと、倫は再びドアの向こうへ姿を消した。ややあって、何かを蹴りつけるようなくぐもった音と、男の短いうめき声が聞こえた。

「凶器を現場に忘れる訳にはいかねーよな」

 そう言いながらドアから出てきた倫の右手には、べっとり血の付いた鉄パイプが握られていた。さっきより心無しか歪んでいるように見えて和歌子は身震いした。

「あの野郎の事はずっと前からこうしてやりたかったんだよ」

 鉄パイプを眺めながら、倫がうなるように呟いた。その言葉にすさまじい情念がこもっていたような気がして、和歌子は反射的に訊いた。

「え? 何で、すか?」

 ろくでもないと嫌ってはいたが、倫と誠也の間に特に目立ったいさかいは無かったはずだ。

 倫は目の端で和歌子をちらりと見ると、

「何でもだよ」

 と固く呟いて、あさっての方を向いてしまった。その背中から「これ以上訊くな」という強い意志を感じとり、和歌子は黙った。

 倫は夜空を見上げながら、黙って煙草の煙を吐き出し続けた。

 蒸し暑い夜だった。和歌子は、セーラムの先から立ち上る煙が曇った夜空にとけて消えてゆくのを、まるで自分みたいだと思いながら無言で見守った。ただ流れに身を任せて漂い消えてゆく、意志も実体もない存在。

 

 静寂を破ったのは倫だった。煙草を足でもみ消し、身をひるがえし和歌子を見据えて一言

「帰んぞ」

 和歌子は面食らって「え、ど、どこに?」としどろもどろに訊いた。倫はちょっと眉を上げ、「ウチにだよ」とさも当たり前のように言った。

「腹減った」

 そして和歌子の返事を待たず、さっさと歩き出してしまった。

 和歌子は2、3歩遅れて、その背中を追った。

 置いていかれないように、今度こそ見失わないように。

 

 雲の上を歩くような、ふわふわ浮ついた足取りで。



 

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