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第3章 「卵割れちゃったかもしんないっすけど、卵焼きにすればちゃんと食べれるっすから、捨てちゃダメっすよ?」

 その白いビニール袋が視界に入った瞬間、訳もなくゾワリと鳥肌が立った。


 

 7月の夕暮れ時。どこにも行くあてのない湿った熱気が漂う街を、倫はアパート目指し小走りに進んだ。

 倫の帰宅時間は以前よりずっと早くなっていた。和歌子のおかげでスーパーに寄る必要が無くなったからというのが主な理由だが、勿論もちろんそれだけではなかった。

 

 勘違いしちゃいけない。和歌子はお前のものじゃない。かりそめの幸せに目をくらませちゃいけない。この生活に慣れちゃいけない。

 

 最後の曲がり角を曲がる前、そう自分をいましめるのがいつしか帰宅前の恒例行事になっていた。

 いつか和歌子はいなくなる。そのわかりきった未来から受ける衝撃を、少しでもやわらげるための倫なりの予防線だった。

 だが、その「戒め」を本当の意味で血肉にするには、いかんせん人生経験がとぼし過ぎた。

 戒めの儀式を終え、曲がり角を曲がり、剥げかけた青ペンキの安アパートを見上げる。途端に、心が騒ぎ出す。

 

 あの中に和歌子がいる。夕飯を用意して、私の帰りを待ってる。

 私の部屋に和歌子がいる。私の帰りを待ってる。


 いくら表面を取り繕っても、心の芯の部分はあざむけない。抑えようのない「喜び」が、やはり今日も階段を上る足取りを、軽やかに早めてしまうのだ。

 だが、その浮かれた気持ちは、2、3歩先に落ちている白いビニール袋を目にして、潮が引くように足元から遠ざかっていった。

 ドックン ドックン ドックン

 なぜか動悸どうきが早まり、こめかみから粘つく汗がとろりと流れ落ちる。

 ドックン ドックン ドックン

 いや、まだ和歌子のだって決まった訳じゃない。まとわりつく不安を払うようにそう自分に言い聞かせ、鳥肌の立った腕を袋に延ばし、中身を確認する。

 鶏肉の大きなパック、割れた卵、缶詰が3個、キュウリとタマネギ、そして、セーラムが1カートンーー今朝買うよう頼んでおいたーー

 嫌な予感は確信に変わった。倫は203号室の薄いドアを、心音と同じ早さでどこどこ叩いた。返事を待つのももどかしく、久しく使っていなかった鍵を取り出し鍵穴に突っ込む。ドアを開けた瞬間、むっとした熱気が大きなかたまりになって倫に襲いかかってきた。部屋の中に誰もいないのは明らかだった。

「ワコ?ワコ!?」

 六畳間、四畳半、風呂、トイレ、果ては押し入れまで、狭い部屋の中、30秒程で捜索を終えてしまった。倫は、熱気と湿気でぶよぶよする畳をうろうろ踏みしめながら、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせ続けた。思いのほか動揺している自分に動揺するという悪循環におちいりそうになりながら、何とか自分を保とうと、必死になって合理的な考えを巡らす。

 

 買い忘れたもん慌てて買いに行ってるだけだろ。アイツそそっかしいから。電話すりゃ済む事。


 ポケットから携帯を取り出し、汗ばむ手でボタンを操作する。左耳に当て、発信音を数える。

 1回、2回、3回、4回、5回、アイツかばんの奥に入れて気付いてねーのか、6回、7回、8回、9回、バカやろ早く出ろよ、10回、11回、12回......

『......は、はい』

(出た!!)思わず携帯を強く握りしめた。

「あ、ワコか。オマエどこ行ってんだよ、袋投げっぱなしで......」

『スンマセン!!』

「......あん?」

『スンマセンセンパイ! 何も言わずに出て来ちゃって』

 ......出て来た?

 心臓がスッと冷えて、喉の奥がぐっと詰まった。携帯から、和歌子のハイテンションな声が止めどなく流れ出す。

『やーやっぱ誠也の事考えたら急に恋しくなっちゃって、こっち戻って来ちゃいました。アタシ思い立ったらそれしか考えらんなくなっちゃうみたいで、ほら、アホだから。アハハ、でもマジすんません、ワガママで。今度誠也と一緒にお礼に行きますんで。あ、お礼って言っても、お礼参りの方じゃなくって、ちゃんとサンキューベリマッチョの方っすから安心して下さい』

 淀み無く流れる和歌子の声が、左耳からそのまま頭を素通りして、右耳に抜けていくような感覚がある。倫は左耳に携帯を当てたまま、ぼうっとその場に立ち尽くしている。嫌な汗が全身にべっとり張り付き、不愉快な事この上ない。

『センパイ聞ーてるっすか? さっきからうんもすんもないじゃないすか。あ、買い物ほっぽりっぱなしですんません。卵割れちゃったかもしんないっすけど、卵焼きにすればちゃんと食べれるっすから、捨てちゃダメっすよ。センパイガテン系なんすから、アタシいなくてもメシしっかり食べないと、ますますやせちゃいますよ。あ、洗濯物まだ取り込んでなかったや。湿らないうちに取り込んどいてくださいね。それと、冷蔵庫の中に昨日作った豚キムチが』

「もういい」

 和歌子のキンキン声を聞いているうち、頭に血が上り、体温も上昇していくのがはっきりわかった。裏腹に、口から出た言葉はぞっとするほど冷たい。

「黙れ」

 氷のつぶてを投げつけるように、携帯に吐き捨てた。

『......あ......その、えっと......』

 先程の勢いとは打って変わって、電話の向こうで和歌子は明らかに動揺していた。

「......じゃあな」

『あ、センパイ待』


 ツー ツー ツー


 恐れていた「未来」は、思っていたよりずっと早くやって来たようだ。何の前触れもなく。遠慮会釈えんりょえしゃくも無く。

 ばかみたいに毎日繰り返してたあの戒めの儀式は、一体なんだったんだろう。


 左手をぶるんと下げたら、手から携帯が滑り落ちた。拾う気にもならなくて、倫はただ、部屋の真ん中に立ち尽くした。

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