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第2章 「バーカ、無理すんなよ。オマエはオマエらしくしてりゃいんだよ」

 センパイの朝は早いと思う。


 午前6時。襖の向こうの六畳間から携帯のアラーム音が響く。目覚まし機能などついぞ使った事のない和歌子は、初め驚き何だ何だと飛び起きた。ただ飯食らいの居候いそうろうの身としては、宿主より遅く起きる訳にはいかない。ヤンキー時代につちかった忠誠心を発揮して、翌日は倫より5分早く起きようと、悪戦苦闘しつつ午前5時55分にアラームをセットした。やれやれ一安心と床に就いてすぐ、いや待てよと思い直した。

 このぼろアパート(センパイゴメン)では、全ての音は筒抜けだ。アタシのアラーム音でセンパイ起きちゃうじゃん。

 どうしようどうしよう。

 物事を深く考えない事にかけては定評のある和歌子が、珍しくうんうんうなって出した名案はこうだ。

 午前6時。筒抜けのアラーム音でセンパイとアタシは同時に目覚める。センパイが動き出すのは物音でわかるから(ぼろアパートに感謝!)、その前にあらかじめ枕元に用意しておいた服に素早く着替えて(なんなら服着たまま寝てもいい)、襖を開ける。そん時にはきっとまだセンパイは布団の中でもぞもぞしているはずだから、機先を制して「おはようございます!」と挨拶、相手の動きを封じた後、颯爽さっそうとめしの支度にとりかかる。ポイントはいかに「先に起きてました」という雰囲気を出すか。だから挨拶はお目目ぱっちり元気よく!

 和歌子はさっそく翌朝から実行した。襖をパーンと開け放ち、「おはようございます!!」と腹の底から挨拶を絞り出した。布団に片肘かたひじ突いてまさに起き上がろうとしていた倫は、口をぽかんと開けて和歌子を見上げたのち、頭をぼりぼりきながら「朝からうるせーよ」と不機嫌そうに呟いた。

 ひとまず成功。倫の表情を見てそう判断した和歌子は、心の中で「よっしゃ!」とガッツポーズを決めた。一見すると怒っているかのように見える倫の態度。だけど和歌子には何となくわかるのだ。倫が本当に怒っているのか、そうではないのかが。だから仲間が闇雲やみくもに「倫先輩マジこえー」とおびえているのが、和歌子には不思議でならなかった。

「すぐめしの支度するっすね」

 六畳間に声をかけ、狭い台所に陣取る。

 とりあえず、今日は買い出し行かなくちゃだな。そう思っただけで、なぜか足の裏がそわそわし始めた。


 ♢ ♢ ♢


 白ご飯、甘い卵焼きに味噌汁。この3セットが朝食の定番になりつつあった。

 和歌子が転がり込む前は「生卵ぶっかけ飯」を朝食としていたらしい。今だって、生で食べていたのを焼いて、それに味噌汁を添えただけなので、食材的には以前とほとんど変わっていない。だが向かいに座って黙々と箸を動かす倫の姿を見ていると、和歌子の胸はじんわり温まってくるのだ。

「うまい」

 初めて朝食を用意した朝。テレビ画面に顔を向けたまま飯をかき込んでいた倫が、突然そう呟いた。和歌子はなぜか耳たぶがかっと熱くなって、所在なくひざをもじもじさせるしかなかった。「おかわり」と突き出されたどんぶりを取り落としそうになりながら、心の中で何度もその言葉を反芻はんすうした。

 和歌子は褒められる事に慣れていない。小3で母と死別し父と二人になってから、全ての家事が和歌子にのしかかった。だがどんなに頑張っても、返ってくるのは冷淡な言葉と暴力だけ。家を飛び出し誠也と暮らし始めても、暴力を振るってくる相手が変わっただけだった。

 倫の「うまい」は、和歌子の心の奥の奥に、ゆっくりじんわりみわたっていった。


 ♢ ♢ ♢

 

 倫との暮らしは、和歌子にとって驚きの連続だった。

 ガテン系職場で男に混じって働く倫の食べっぷり(何しろ朝からどんぶり飯2杯だ)もそうだし、意外な几帳面ぶりもそうだった。布団は必ず畳み、服を脱ぎ散らかす事もしない。ゴミの分別も徹底していて、収集日も必ず守る。ルーズな和歌子は何度もどやされ、悔し紛れに「センパイ、収集日を守るヤンキーなんてヤンキーの風上にも置けないっすよ」と憎まれ口を叩いたら、ほっぺを思い切りつねり上げられた。

 同居を始めて数日後のある深夜、襖のすき間から光が漏れているのに気付いた。テレビ見てるならアタシも一緒しよっかな、と隣を覗いてみたら、違った。背中を丸めた倫が、座卓に向かって一心に何かを書き込んでいる。

「センパイ何書いてんすか?」

 好奇心に駆られて、遠慮しつつも声をかけた。集中しきっていたのか、倫は思いのほか驚いた様子で「びっくりさせんなよ」としかめ面を見せた。

「すんません、で、何?」

 持ち前の屈託のなさを発揮して覗き込む和歌子を曖昧あいまいな態度であしらっていた倫だったが、しつこさに根負けしたのか、諦めた様子で「ほらよ」と一冊の本を投げて寄越した。

「2級建築士問題集......すか」

 ずっしり重いその本をぱらぱらめくると、至る所にアンダーラインと付箋紙ふせんしが貼ってあった。書き込みの量も半端ではない。

「センパイ、スゲー......」

 勉強嫌いの和歌子は、「問題集」と名のつくものを見ただけでじんましんが出そうになる。なので学校を卒業したのにまだ勉強している倫を見て、心底感嘆した。

「ま、仕事に役立つし、な」

 心無しうっすら頬を染めた倫は、そう言い残すと、煙草をつかんでベランダに出てしまった。それ以上説明する気は無いようだった。

 和歌子は膝の上の問題集をしげしげ眺め、改めて倫の事をスゴイ、と思った。

 高校時代から、ただのチンピラじゃないとは思っていた。女と言えどもかなりの武闘派で、周囲から一目も二目も置かれ、他校まで名前が知れ渡っていた。そんな姿とは裏腹に、授業も実習も真面目に出ていたようだ。今の勤め先も、倫の人柄を買っていた担任が奔走ほんそうして世話してくれたようだ。

「センパイ、スゲー......」

 重い問題集のページの間から、本当の倫の姿が垣間見えた気がした。

 

 こんなこともあった。


 倫は夕食のおかずをさかなに発泡酒を一本飲む。酒が飲めない和歌子は麦茶で晩酌に付き合い、後輩としては当然(しゃく)をするのだが、ある時手元を狂わせ、倫の膝に派手にこぼしてしまった。和歌子は咄嗟とっさに体を縮め、頭を両手で守った。父の分厚い手のひらの鈍く重い感触が、脳裏にフラッシュバックする。それは長年の仕打ちで身に付いた、悲しい条件反射だった。

 ここは家じゃないんだ。そう気付くのに数秒かかった。それでも恐る恐る顔を上げると、目の前に倫の顔があった。怒りとも悲しみとも違う、何かを必死に耐えているような、そんな表情をしていた。

「あ、す、すんません、こぼしちゃ、て、あの......」

 ここは家じゃない、目の前にいるのは親父じゃない。理性ではわかっていても、植え付けられた恐怖心が和歌子の体を凍り付かせる。倫は苦しげに眉根を寄せると、和歌子に腕を延ばしてきた。

 殴られる!目を閉じ身構えた和歌子の頭に、倫の手がポンと乗せられた。そのまま軽いタッチでポンポン2、3回叩かれた。と言うより、撫でられた、の方が近い。

 目を開けると、すぐ側に倫の顔。切れ長の目が真っ赤に染まっていた。

「バーカ、無理すんなよ。オマエはオマエらしくしてりゃいんだよ」

 そう言うと倫は、薄い唇の両端を上げ、にかっと、不自然に笑った。きっとそれは倫のできる精一杯の笑顔だった。

 センパイ......!!

 気付いたら、和歌子の目元から涙がぽろぽろこぼれ落ちていた。

 涙って、悲しい時しか出ないと思ってた。安心して泣く事もあるんすね、センパイ。アタシ、生まれて初めて知りました。


 驚きとともに始まった倫との同居生活は、長年和歌子を縛っていたかたくなな何かを、ゆっくり、でも確実に崩していった。


 ♢ ♢ ♢


 朝食を作り倫を送り出し、後片付けと掃除洗濯、天気のいい日は布団を干し、スマホで特売情報をチェックして近所のスーパーをハシゴ、夕食を作り倫の帰りを待つ。

 

 そんな生活を始めて1ヶ月余りが経った、7月のある日。

「何かアタシ主婦みてー」

 洗濯物を畳みながら無意識に出た言葉に、自分自身驚いた。誠也と暮らしていた時もほぼ同じ事をしていたはずなのに、そう思った事など一度もなかったから。

「あ、ボタン取れそう」

 倫の作業着の胸ポケットのボタンが首の皮一枚状態になっているのに気付いて、裁縫箱を探す。膝上に作業着を広げて、鼻歌まじりにチクチクチク。ほつれないように、頑丈に、丁寧に。

 そしてふと思った。親父や誠也の、アタシこんな丁寧に縫い付けてたっけ。しかも鼻歌歌いながら。見ても気付かなかった振りすらしたことあったんじゃない。

 和歌子ははたと作業の手を止めて考えた。

 これは心境の変化なのか、それとも何か別の感情のなせる業なのか。

「......わっかんないや」

 深く考えるのは得意じゃない。和歌子はぶるぶる頭を振ると、目下の課題であるボタン付けに意識を戻した。


 夕方のタイムセールで本物の主婦達との熾烈しれつな争奪戦を勝ち抜き、鶏もも肉を大量にゲットできた。

 倫の大好物は唐揚げだ。

 生姜しょうがは先週買ったのを冷凍してあるからそれすり下ろして、にんにくはチューブでいっか。センパイはパンチのある味が好きだから、醤油は多めに、酒を忘れず。冷蔵庫で30分くらい寝かせて......。

 和歌子は頭の中で料理の段取りを組みながら、弾む足取りでアパートへの道を急いだ。そして最後の曲がり角ーー左に進めばアパート、右に進めば河川敷ーーに差し掛かった時、どうしたものか急に寄り道をしてみたくなり、右に足を向けた。

 土手に続く階段を上ると、一気に視界が開けた。ベランダから何度も眺めた事はあるが、足を踏み入れたのは初めてだった。

 アスファルトで舗装ほそうされた遊歩道に、桜の木だろうか、そこそこ立派な木が青々と葉を繁らせ、等間隔に植わっている。それなりに豊富な水量をたたえた川がゆったり流れ、まだ夕暮れには遠い時間だが、川を渡る風には何となく夕方の気配が含まれていた。行き交う人はどこかスローモーションで、ここだけ時間がゆっくり流れているような、不思議な感覚を和歌子は覚えた。

 河川敷からアパートの方を見てみた。安っぽい青ペンキで塗り立てたぼろアパートの、2階の一番端、203号室。

 センパイとアタシの......部屋。

 ベランダの手すりに寄りかかり、セーラムの煙をたなびかせる倫の姿を想像する。なぜだろう、心臓がぎゅっと痛んで、目の奥が熱くなった。

 いつまでこの生活続けられるんだろ。最近、そんな思いがふと頭をよぎる瞬間がある。だがそんな時、和歌子は決まって思考をシャットアウトしてしまう。今も、そうだった。

 物事を深く考える事を無意識に避けてきた。深く考えてしまったら、自分の人生がいかに絶望に彩られているかを思い知ってしまうから。きっとやり切れなさに打ちのめされてしまうから。

 浅はかさは、和歌子なりの防衛本能だった。

 和歌子自身は気付いていないが。

 

 明日センパイ誘って散歩してみよう。代わりにそんなことを考える。

 日のあたる河川敷を、倫と肩を並べて歩く。ヤンキーの休日とは思えない健全な様子。気恥ずかしいけど嫌じゃない。嫌じゃないどころか......。口元が自然と緩む。

「......さ、帰って唐揚げ唐揚げ!」

 和歌子はスーパーの袋を前後に揺らしながら、土手の斜面を駆け下りた。


 ♢ ♢ ♢


「ふんふんふんふふっふ〜♪ ふんふんふんふふっふ〜♪」

 子供の頃流行(はや)ったアイドルグループの歌を鼻歌に、アパートの外階段をリズムに合わせて踏みしめる。唐揚げを前にした時の倫の表情や反応をあれこれ思い描きながら。

 センパイきっと喜んでくれる。きっと「うまい」って言ってくれる。最高においしいの作るぞ!

 だが、階段を上がり切り2、3歩歩いたところで、鼻歌はぶつりと途切れた。体が瞬時に凍り付き頭の中で倫の顔がぐにゃりと歪み、たちまち消えた。

 203号室の前で、黒いTシャツにニット帽、二の腕に青い入れ墨をした長身の男が、ポケットに手を突っ込んだ姿勢で立っていた。

「よお、久しぶり。ずいぶんご機嫌じゃねーか」

 ニヤニヤ笑いながら、長身の男ーー誠也が、ゆっくり和歌子に近付いてくる。

 和歌子の全身は硬直し、すぐに弛緩しかんした。指先からスーパーの袋が滑り落ち、ぐしゃりと音を立てた。

 あ、卵割れちゃった。でも卵焼きにすればいっか。センパイ卵も好きだから、明日は特別に3個使って卵焼きを......。

 遠のく意識の片隅で、呑気にそんな事を考えた。

 これは目の前の現実を受け入れたくないとあらがう、脳の妄想であり願望だった。

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