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第1章 「一杯のかけそばならぬ、一皿のたこ焼きっす」

 トルクレンチは、高力ボルトの締付けに用いる......

 地盤アンカー工法は、杭地業工事に用いる......

 スクレーパーは、鉄骨の切断に.......


 ポキッ


 これで5回目。集中しきれていない証拠だった。瀬田せたりんは、折れたシャーペンの先をいまいましげににらむと、座卓に広げた参考書の上に放り投げ、深いため息を吐いた。あぐらを解き、両腕を後ろに突いて天井を見上げる。意味もなく口を開け閉めしてみる。あほらしくなって、すぐやめた。

 セーラムのパッケージを引っ掴み、開きっぱなしの掃き出し窓からベランダに出た。洗濯用の角ハンガーを一つ吊るすのがやっとの狭いベランダの手すりに寄りかかり、川向こうの景色を眺める。市内で2番目に大きな川は、前夜の大雨で増水しているらしく、ここまで水音が響いてくる。川の向こう側もこの辺りと同じく小さな工場と住宅がひしめき合う雑多な地帯で、午前零時をまわったこの時間帯であれば灯る明りもまばらだ。だが都会のけばけばしいネオンサインより、頼りなげに揺れる白と黄色の小さな明りの方が、倫は好きだった。築25年、六畳と四畳半の2Kで家賃4万円。名前だけは立派な安アパート「リバーサイド紺野」の唯一かつ最大の売りは、2階ベランダから臨む、川沿いの眺望だ。この眺めだけで契約を決めた倫は、そう確信していた。

 煙草の先に火をつけ、肺の隅々まで煙が行き渡るよう、深く深く吸い込む。.......うまい。煙草は百害あって一利無しなんてどこのどいつが決めたんだろう。

「だいじょぶかよ、アイツ......」

 知らず漏れた独り言が、倫の心情を如実にょじつに表していた。目を細め頬にえくぼを浮かべ脳天気に笑う一人の少女の姿が、倫の脳裏にまぶたにちらちらよぎる。

『ワコさ、あいつヤバいよ。誠也から毎日ボコられてるらしいよ』

 昼休み、携帯を介して交わした仲間との会話を思い出す。途端、少女の顔からえくぼが消え、たちまち苦しそうに歪んだ。倫は煙草をもみ消すと、携帯にある番号を呼び出した。

 『鳴海なるみ和歌子わかこ

 呼び出しはしたが、どうしても発信ボタンに指を延ばせない。暗闇にぽうっと浮かぶ画面をじっとり眺めているうちに、目が痛くなった。長く握りすぎたせいか、手の中の携帯がカイロのように発熱している。

「ゔぁーもう!」

 胃を絞り出すように唸り、床を蹴立てて部屋に戻る。それは和歌子のバカさ加減と、その和歌子へ電話一つできない自分の不甲斐なさへのいら立ちの表れだった。


 ♢ ♢ ♢


 倫の勤める「有限会社 黒倉建設」は、アパートから徒歩10分の距離にある。社長夫婦と社員が7名、総勢9名の小さな会社だが、堅実な仕事ぶりで地元ではそれなりに信頼されている。高3の時の担任の伝手つてで入社した倫は、社長夫人の陽子を除いて紅一点、そして一番下っ端の見習いとして、あらゆる雑用を任されている。始業前の準備から終業後の後片付けまで息つく暇無く走り回り、終わる頃には毎日くたくたになっている。だが、厳しくも温かい社長の人柄と、からっと気っぷのいい先輩達、そして何より当面の目標である2級建築士取得のための実務経験を積む修行の場として、ここは格好の職場だった。

 和歌子の事が頭から離れず悶々(もんもん)と眠れぬ夜を過ごした倫は、昼食後のわずかな休憩時間を、配管にもたれてうつらうつら舟をぐのに費やしていた。だがその束の間の休息は、携帯の着信音に遮られた。

「......あんだよ」

 不機嫌な面持ちで携帯をのぞいた倫だったが、新着メールの差出人名が目に飛び込んだ瞬間、頭からきれいさっぱり眠気は吹き飛んだ。

 『差出人:鳴海和歌子 件名:お久しぶりっす』

「......何がお久しぶりっすだよ、人の気も知らねーで」

 あん?何か言ったか?と先輩社員に問われて慌てて首を振る。誰に見られる訳でもないのに画面を隠すように身を屈めて、携帯を操作した。情けない事に指先が震えていた。

 『お久しぶりっす!元気ですか?仕事中すんません。いきなりなんですが、今日センパイのアパート行ってもいいっすか?返事待ってま〜す(^0^)v ワコ』

 数ヶ月ぶりに和歌子から届いたメールは、字面(じづら)だけ見れば実にあっけらかんとした内容だった。だが、昨日聞いた話とメールの文面との温度差に、かえって事の深刻さが(うかが)え、胸の奥がひやりとした。何より和歌子が倫の元を訪れるのは初めての事だ。緊急事態を察知した脳が、最速スピードで帰宅可能時間を算出する。『6時には帰る』とだけ返信し、それを実現するため、腰を上げた。


 ♢ ♢ ♢


 和歌子は倫と同じ工業高校の一年後輩で、いわゆるヤンキー仲間だった。明るく人なつこい性格で可愛がられていたが、反面、流され易く(だま)され易いのが玉に(きず)で、いいように利用される事も多々あった。周囲の環境が良ければヤンキーになどなっていなかったはずの、倫に言わせれば所謂(いわゆる)気合いの入ってない「なんちゃってヤンキー」だ。今春高校を卒業し、同級生の誠也と同棲を始めたばかりだった。その和歌子からのSOS。薄ら青い夕暮れの中、倫は息を弾ませ、歩いて10分の道のりを5分ほどで駆け抜けた。

 アパートの外階段を一段抜かしで駆け上がると、一番奥、203号室のドアに背中を預けてしゃがみ込む和歌子の姿があった。倫に気付くと、立ち上がってニカッと笑いかけてくる。両頬にえくぼを浮かべた人なつこい笑顔。実に一年二ヶ月ぶりの再会。倫は体の底から得体の知れないざわめきが押し寄せてくるのを感じながら、無言で部屋の前まで進んだ。

「エヘヘ、お久しぶりっす」

 小柄な体をさらに縮こませ、バツが悪そうに微笑む和歌子。手入れの悪いプリン頭に、蒸し暑い6月なのに長袖ジャージを着込んでいる。

「これ土産っす」

 おずおず差し出してきたビニール袋の中には、湿気でぺしゃんこになったたこ焼きが一舟。

「へへへ、一杯のかけそばならぬ、一皿のたこ焼きっす」

 ......バーカ。この場合、たこ焼きは一皿じゃなくて一舟だよ。あいかわらずだな。

 そう喉元まで出かかった言葉がつっかえて出てこない。まるでそこにあるはずのない涙の(かたまり)が、喉に(ふた)をしているようだった。

「まあ、入れよ」

 ごちゃごちゃ喋るのは得意じゃない。和歌子を狭い玄関に招き入れ、自分はさっさと部屋に上がった。お邪魔しまーすとそろりそろり部屋に入ってきた和歌子は、やがて「わあ」とか「へえ」とか言いながら興味深そうに視点をくるくる変えて、辺りを見回し始めた。見られて困るものは何もないが、気分のいいものではない。

「あんま見んなよ」

 そう釘を刺すと、

「スンマセン、でもセンパイの部屋なんも無いっすねー。女の部屋とは思えないっす」 

 屈託のない笑顔を浮かべ軽口を叩いてきたので、「大きなお世話だ」と頭をパシンとはたいてやった。その瞬間、一気に高校時代に引き戻されたような気分になって、倫の鼻の奥がつんと痛んだ。だがそのセンチメンタルな気分を、ジャージの袖口からちらりと見えた白い包帯が粉々に打ち砕いた。

「......オマエめしは?」

 何も言えなくなった倫は、窓の外に目をやりながらぶっきらぼうに呟いた。

「まだっす。コレ一緒に食べよーと思って」

 和歌子は座卓に置かれたたこ焼きを指差す。

「って、一舟じゃねーか。腹の足しになんねーし」

「あ、たこ焼きって一舟って数えるんすか? そー言えば確かにこの皿舟の形してるっすね。さっすがセンパイ、インテリヤクザっすね」

「誰がヤクザだよ誰が! たく、言っとくけどろくなもんねーぞ」

 泣きそうに歪む顔を見られたくなかった。倫は和歌子に背を向け、冷蔵庫の中を物色し始めた。料理嫌いな倫は、普段の夕食をスーパーの割引総菜に頼っている。今日は和歌子が来るので直帰したため、冷蔵庫の中には本当にろくなものがなかった。

「あ、アタシ作るっす!」

 倫の背中にくっつくようにし、和歌子が冷蔵庫を覗き込んできた。倫は内心の動揺を必死に押し隠し、

「オマエがぁ? だいじょぶかよ、まともなもん作れんのか?」

 と精一杯(いぶか)しんでみせた。和歌子はドヤ顔で

「任して下さい! こう見えてアタシ毎日.......」

 と言いかけ、不自然に押し黙った。目の縁がみるみる赤くなっていく。察した倫は、胸の中に渦巻く言葉にならない言葉をぐっと抑え込み、

「........んじゃ頼むわ」

 と言い残し、座卓に座り込んでテレビを点けた。和歌子の触れた背中がずきずきうずく。

「お待たせしましたー」

 5分ほどで料理を作り上げ、和歌子が六畳間に皿を運んできた。キャベツと魚肉ソーセージと卵の炒め物。焦げた醤油の匂いが食欲を刺激する。

「あったかいうちに食べましょ」

 湯気の向こうの和歌子の笑顔が、倫の一番弱い部分をくすぐってくる。どういう表情をしていいかわからず、結局いつもの無愛想な顔で「んじゃ食うか」と箸を取った。口の中で、キャベツの甘みと醤油の塩気が絶妙に絡み合う。

「......んまい」

 無意識に箸が動く。

「うん、うまい」

 気付いたら三分の一ほど一気に食べていた。むさぼり食いを恥ずかしく感じ、向かいに座った和歌子をちらりと(うかが)う。倫はぎょっとして箸を止めた。和歌子は声も上げず、両目からぽろぽろ大粒の涙を流していた。

「ワコ......?」

「す、すんません。センパイがアタシの料理おいしいって食べてくれるの見てたら何となく......。何でもねっす。さーアタシも食べよー!」

 涙も拭かず、泣き笑いの表情で箸を取る和歌子。倫はたまらない気持ちになって、無言で和歌子の腕を取り、ジャージの袖をまくり上げた。和歌子は凍り付いた表情で、びっくと体を強ばらせた。包帯からはみ出した生々しい擦り傷と、青紫のあざが倫の目に飛び込む。背中に冷水をぶっかけられた心地の倫は、しばらく絶句し、和歌子の腕を見つめ続けた。

「......6月に長袖の訳はこれかよ」

「エヘヘ、大したケガじゃないんすけどね」

「笑ってんじゃねーよ」

 自分でもぞっとするほど冷たい声が、腹の底からわき上がってきた。和歌子は笑いを引っ込めて、座卓の上に視線を落とした。

「いつからだよ」

 努めて平板な声で問う。うまくできているかはわからない。

「......結構、前から」

 うつむいた和歌子の口から震え声が漏れだす。その震えはすぐに体中に伝搬し、和歌子の両目から再び大粒の涙があふれ出した。座卓に広がる涙の海を見つめる倫の心に、怒りと後悔の他に、例えようのない愛しさがこみ上げてきて、堪らず倫は和歌子の側ににじり寄った。そのまま和歌子の頭を抱きかかえ、背中に片手を添えてやる。和歌子の嗚咽おえつが手のひらを通して倫に伝わり、体の芯を震わせる。

「もう、やだ......わがれだい......でず......」

 小さな背中を震わせながら声を絞り出す和歌子。倫は無言で湿った背中をさすり続ける。 

 ホントバカなヤツだよオマエは。バカ過ぎてアホ過ぎて言葉もねーよ。だけど一番の大バカは、こうなることを予期できたのに止める事もできず、あまつさえそんなオマエをいまだに好きで好きでどーしょーもない、未練たらしいヘタレな私だよ。私はオマエに何をしてやれるんだろうな。「可愛い後輩」以上の気持ちを隠したまま。 

 抱きしめる事はできないが触れていたい。

 進む事も戻る事もできない想いを胸の奥に抱えたまま、和歌子が泣き止むまで、倫はその背中を撫で続けた。


 ♢ ♢ ♢


 普段は寝室として使っている四畳半を和歌子に明け渡し、ふすま一枚隔てた六畳間で、前夜に引き続き眠れぬ夜を過ごした。それでも明け方には浅い眠りに落ち、夢の淵を漂う倫の耳に、やがて聞き慣れない物音が響いてきた。カチッ、トントントン、ジュー。そして鼻をくすぐる甘く焦げた匂い。どこか懐かしい朝餉あさげの気配に満たされた部屋の真ん中にあぐらをかいて、倫は一晩考え抜いたあげく出した結論について、どう切り出したものかと頭を抱えた。

「あ、センパイおはようございます。勝手に朝めし作っちゃいました」

 腫れぼったい目をした和歌子が、どこか吹っ切れたような笑顔をひょいと覗かせた。

「おう」

 何となく気恥ずかしく、顔をあさってのほうに向けたまま短く答える。のそのそ布団を畳み、座卓を整える。和歌子がその上に「味噌無かったんで、味噌汁は無しです」と言いながら、炊きたてご飯や卵焼きなど手早く並べていく。倫はさっきから胸の奥がかゆくてかゆくて仕方ない。それが「嬉しい」という感情である事を、素直になれない倫はなかなか認める事ができなかった。

「ぶっちゃけ聞きたいんすけど」

 そう言うと和歌子は、座卓から一歩引いた位置にかしこまって正座し、神妙な面持ちで倫に向き合った。

「何だよ」

 狼狽ろうばいを押し隠し、わざと不機嫌に問う。

 和歌子は咳払いを一つすると、

「このままセンパイんとこ住まわしてもらうっつーの、センパイ的にはアリっすか?」 

 真剣な口調で、一気にそうまくし立てた。

 倫はあきれにも似た心境で、不安げな表情で倫の言葉を待つ、和歌子の姿を眺めた。


 私が一晩中考えて、どう切り出そうか迷いに迷っていた言葉を、オマエはあっさり口にできるんだな。


 こうして女同士の奇妙な同居生活が始まった。

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