第10章 「もしかして、嫉妬でもしてくれてんのかよ?」
寝床に入ってしばらく経つのに、口の中にはまだ煙草のいがらっぽさが残っていた。うがいでもすれば少しはすっきりするのかもしれないが、和歌子はそうしなかった。
唇に残った倫の感触を、どうしても消したくなかったから。
吸えもしない煙草をせがんで、しかも倫の吸っているのを奪って、案の定咳き込んで、いたたまれなさに逃げる。
センパイびっくりしただろうな。
だってアタシだって自分の行動にびっくりしてるんだから。
和歌子は自分の左胸に手を当ててみた。
ドックン ドックン ドックン
活きのいい心臓が、「ここから出してくれ」と言わんばかりに胸の内側で飛び跳ねているのがありありと伝わってきた。
その手を、今度は唇に当ててみる。煙草のフィルターを介して、倫と触れ合った唇。指先に薄い皮膚の感触が触れた途端、腕を伝って甘苦しいざわめきが全身に広がった。
和歌子は身をよじって、そのざわめきに耐えた。
抑えきれない体の反応が、倫に対して抱いている思いの「種類」を、如実に表していた。
支離滅裂に見えたさっきの行動には、実は明確な目的があったことを、和歌子は悟った。
確かめて、認めて、楽になりたかったんだと思う。倫への思いを。
だけどその目論みは、半分成功、半分は失敗だった。
しっかり確かめた。そして潔く認めた。だけど、楽になるどころかもっと苦しくなったのだから。
♢ ♢ ♢
電話口では「持ち込みな」なんて言っておきながら、しっかり人数分用意するところがセンパイらしいな、と和歌子は思った。二人で汗だくになりながらスーパーへの道を往復し、買ってきた袋の中身を移し替えたら、古びた冷蔵庫は瞬く間に満杯になってしまった。コンプレッサーが苦しそうにヴヴヴと唸っている。
「亜希先輩達も買ってくるんすよね? これ以上酒入れる場所ないっすよ」
台所の床にぺたんと座って空になったビニール袋を畳みながら、和歌子は流しで顔を洗う倫の背中にそう問いかけた。
「タオル」
「あ、はい」
慌ててタオルを渡すと、倫はぞんざいに顔を拭きながら「あいつらザルだから。回転率早えーだろ」と事も無げに言った。
「......ま、それもそっすね」
和歌子は亜希達の酒豪ぶりを思い出し、妙に納得した。
倫は和歌子をちらりと見ると、しっかしあちーなと毒づきながら、六畳間に入っていった。
和歌子は床に座って袋たたみを再開した。
袋を縦に細長く畳んで、端から三角形にぱたんぱたんと折り畳んでいく。
せっせと手を動かしながら、和歌子の意識は昨日の河川敷に飛んでいた。たちまち和歌子の周りにむっとする草いきれが広がった。
もしあの時、亜希先輩が電話をかけてこなかったら。アタシの言葉を誰も遮らなかったら。
アタシは今この場にいなかったかもしれない。
自分の軽率な言動がもたらしたかもしれない結果の重大さに、和歌子の背中に寒気が走った。
側にいれさえすればいい。ダメで手のかかる後輩として、側に置いてもらえればそれでいい。
それ以上何も望まない。望んじゃいけない。望んだら、きっとまた誰かに取り上げられてしまうから。
「ワコ、どした?」
声をかけられてハッと顔を上げると、六畳間と台所の境目に立った倫が、心配そうに和歌子を見下ろしていた。いつの間にか袋はすべて畳まれ、膝の周りに散らばっていた。
「な、なんでもねっす。少しボッとしてただけっす」
和歌子は散らばった袋を拾い集めると、倫に背中を向け「つまみ作り始めますね」と流しに向かった。背中に倫の視線を感じたが、気付かないふりをした。
♢ ♢ ♢
7時ちょっと過ぎ。手にビニール袋を下げた派手な3人組が、どやどやと203号室に集まった。「元気そうじゃーん」「あんたちょっとやせた?」「酒これでよかったっけ?」狭い玄関はたちまちちょっとした騒ぎになった。
亜希に純にケーコ。3人とも倫の同級生で、和歌子の先輩にあたった。出で立ちだけ見ればキャバクラ出勤前のお姉様方といった風情だが、意外や意外、皆倫同様、結構堅い仕事に就いているのだった。
その3人組は、部屋に入るや否や、小さな座卓にすき間無く並べられた料理の数々を見て、口々に感嘆の声を上げた。ピザ、サラダ、枝豆に冷や奴、そして鶏の唐揚げに豚キムチ。余計な事を考えなくて済むよう、ひたすら料理のみに集中した結果だった。
「これ全部ワコが作ったんだろ? 倫が料理する訳ねーもんな。すげーじゃん!」
「ワコにこんな特技があったとはねー」
「シェフ? コック? 板前? どれかにはすぐなれんじゃねーの?」
多少褒め過ぎの部分は、和歌子への気遣いなのだろう。それでも先輩達の言葉が嬉しくて、和歌子は顔を真っ赤にしてデヘへと笑った。
「んじゃ早速のもーよ! ほら倫、乾杯の音頭!」
「は? 何で私が?」
「家主なんだからあったりまえだろ! つべこべ言わずに早くしろよ! この部屋暑過ぎてのどカラカラなんだよ!」
「あんだよったくしょーがねーな......んじゃ、ま、乾杯」
「あいかわらず愛想ねーなー!」
見事にかぶった3人の言葉と、倫の仏頂面の対比がおかしくて、和歌子は思わず吹き出してしまった。なし崩し的に座卓の上で乾杯が交わされ、飲み会が始まった。和歌子はジュース、他は皆ビールだ。倫も含めたこの4人の先輩は、ヤンキーの世界では珍しく、飲めない後輩に酒を強要する事は決してしなかった。和歌子は昔からこの先輩達が好きだった。
「なにこれまじうめーんだけど!」
「ワコまじ天才じゃね?」
料理に箸を付けた先輩達から、口々に賛辞の声が上がった。その言葉がお世辞じゃない事は、料理の減り具合からよくわかった。褒められるのに慣れていない和歌子はこそばゆくて仕方なく、「そんなことねっすよ」と照れ笑いを浮かべるばかりだった。
だが、何より和歌子が嬉しいのは、褒められてるのは和歌子なのに、倫が嬉しそうにしている事だった。あいかわらずニコリともしない仏頂面で黙々とビールをあおっている倫だったが、なぜか和歌子には倫の喜びがわかるのだ。
先輩達はよく食べ、しゃべり、そしてもの凄い勢いで空き缶の山を製造していった。和歌子は何度も何度も六畳間と冷蔵庫を行き来する羽目になった。確かに倫の言った通り、先輩達の「回転率」は異様に早かった。
「そうそう、そう言えばあん時ケーコが男とさー」
「ギャハハハ」
「ちょっと純がそれ言うー?」
話題は目まぐるしくザッピングし、今は高校時代の思い出話に突入していた。これだけしゃべり倒しているのに、ここまで誠也の話はまったく出ていない。恐らく意図して避けてくれているのだろう。がさつに見えて細やかな先輩達に、和歌子は心の中で感謝した。
和歌子が追加の枝豆を流しで洗っていた時だった。台所にビールを取りにきた亜希が、冷蔵庫の前でしゃがんだまま、唐突に言った。
「ワコ、よかったな。誠也と切れて」
「......え? あ......はい」
咄嗟に気の利いた返事が出来ず、和歌子は曖昧にうなずいた。
「あたしらも気になってたからさ。とりあえずお前が元気そうでよかったよ」
手の中でビールの缶を撫で回しながら、亜希がしんみり呟いた。和歌子は何も言えず、ザルの中の枝豆をかき回し続けた。
「倫さ、あいつ、優しいだろ?」
動揺して、ザルごと枝豆を落としそうになった。なぜか動悸が早くなり、目の奥が熱くなった。和歌子はぐっと唾を飲み込むと、下を向いたままコクンとうなずいた。
「おっかねー仏頂面だけどな」
亜希はからっと笑って和歌子の肩をポンと一つ叩くと、ビールを抱えて六畳間に戻っていった。
目元から涙の気配が消えるまで、和歌子はザルの中の枝豆を、これでもかと洗い続けた。
「そーいやさ、あんた龍一先輩とはまだ連絡取り合ってんの?」
盛り上がりのピークが一段落し、皆思い思いの姿勢でくつろぎ始めた頃だった。片膝を立てた姿勢でビールをあおっていたケーコがそう言った途端、和歌子以外の視線が一斉に一人の人物に注がれた。
その視線の先には、倫がいた。
「なんだよいきなり」
枝豆の皮をむきながら、倫は憮然として言った。
(龍一先輩? 誰?)
聞き覚えの無い名前に、和歌子の頭の中でクエスチョンマークがぶんぶん飛び回った。
龍一?そんな先輩いたっけ?
「あーあたしも知りたかった!」
「あれから、んー......4年かあ」
「えーもう4年にもなんの? 年取るわけだわー」
「ほんでどうなのよ、あれから」
口々に言い募る先輩達の中で、ひとり部外者然として座る和歌子は、ジュースのグラスを両手で挟んだまま、座卓の料理から目を離せずにいた。
胸の中に灰色の雲がぞわっと広がって、足先がしんと冷えた。
知らない方がいい、と思った。
これはきっと、今の自分にとって聞いてはいけない類いの話だ。
だけど。だけども。
せっかく本能がそうやって警鐘を鳴らしてくれたのに、知りたい欲求の方が勝ってしまった。
「あの......龍一先輩って、誰すか?」
倫の顔を見る事ができない和歌子は、座卓の豚キムチに向かって話しかける格好となった。
「あれ? ワコ知らなかったっけ?」
「そっか、うちらが1年の時の話だから知らないか」
「倫ワコに話してなかったのー?」
黒い予感が走る。和歌子は衝撃に耐えるように、無意識に心を鎧った。
「倫の元カレだよ。商業の1コ上」
亜希の放った何気ない一言は、和歌子の急ごしらえの鎧を木っ端みじんに砕いた。
「めっちゃイケててねー」
「そうそう」
「だけど2、3ヶ月で別れちゃったんだよなー」
和歌子の周りから急速に景色が遠ざかっていった。話し声は壁越しの会話のように遠く響き、耳の中で平衡感覚がぐるぐる狂った。まるで座ったまま空中に放り出されたような気分だ。
だってだってセンパイ今までそんなことただの一度も言ったことないアタシ知らないそんなこと知らないだって全然聞いたことないしセンパイ言ってくれなかったしアタシセンパイにそんな人がいたこと全然知らない知らないシラナイ聞ーてないキーテナイ
「そんでどーなんだよ倫? まだ連絡取り合ってんの?」
最早誰の言葉かすらわからない。和歌子は俯けていた顔をぐぐっと持ち上げた。
座卓を挟んで右斜め前、倫の薄茶色の瞳が和歌子をとらえた。あ、と思った刹那、倫はすっと視線を逸らせた。
ここにいたくない。唐突にそう思った。
和歌子はその場にすっくと立ち上がった。頭がくらっとしたが、何とか倒れるのはこらえた。
「ワコどした?」
「いきなり何だよ」
注目を一心に集めたのはわかった。先輩達が何か言っているのも聞こえてはいる。
でも、アタシは。
アタシはあなた達の話を聞いていたくないんです。
「......酒買ってきます」
考えうる限り合理的な言い訳はこれしか思い浮かばなかった。和歌子は回れ右をして、迷いの無い足取りで玄関に向かった。ビーチサンダルをつっかけ、そのままの勢いでドアを開ける。背中に先輩達の声がばしばし当たったが、ドアを閉めてしまったらそれでおしまいだった。
♢ ♢ ♢
何も考えず目についた酒を片っ端からかごに入れていったら、レジで金が足りなくなった。
「あー......」
と言ったままぼんやりカゴの中を眺めるだけの和歌子に、若い男の店員は明らかに迷惑そうな態度で「どれか戻すっすか?」と面倒臭そうに聞いた。中の2、3本を適当に外し代金を支払ったら、手持ちの金はほとんどなくなってしまった。
「あざーっしたー」
やる気の無い店員のやる気の無い挨拶に見送られて、和歌子はコンビニを後にした。
深夜の住宅街は人通りもほとんど無く、ビーチサンダルがアスファルトを叩く音とぶら下げた袋のカサカサ音が、やけに大きく響く。頼りない街灯の光には、大きな蛾がびっしり張り付いて、不気味な陰影を形作っている。普段なら心細さに自然と足早になってしまう所だが、今の和歌子にはそんな「瑞々しい」感情を抱く余地はなかった。
ペタ ペタ ペタ......ピタッ ペタ ペタ ペタ......ピタッ
2、3歩進んでは立ち止まり、また2、3歩進んでは立ち止まり。まるで出来の悪い牛歩だ。
部屋を飛び出してきたのは正解だった。あのままあそこに居続けたら、きっとひどい醜態をさらしていたことだろう。だけど他に行く当ての無い身でこのまま夜の街を彷徨い続ける訳にもいかない。早く心をあるべき場所に落ち着かせて、何でもない顔して皆の所に戻らなければいけない。
そう、理性ではわかっているのだが
何勝手に裏切られた気分になってんの。バッカじゃないの。思い上がってんじゃないよ。ありえないでしょ。
わかってはいるのだが、湧いてくるのはネガティブなワードばかり。しかもすべて至極ごもっともで、和歌子は自分で自分の言葉に打ちのめされて、とうとう一歩も動けなくなってしまった。
「......ヒッ」
たった一度の喉の震えが、涙の火ぶたを切ってしまった。大きな熱の塊が、喉を通って口、鼻、目に一気に押し寄せる。
「ウエッ......ヒッグ」
涙の第一弾がぼたぼたぼたっと目元からこぼれ落ちた。
「......あーー......」
第二弾は鼻と口から、ばかみたいな泣き声と透明な鼻水が同時に溢れた。
「うぁ、ゔぁ、ゔぁーーー!」
あとはもう、体はただの涙の入れ物と化し、ひたすらに涙を吐き出し続けた。
センバイ、ゼンバイ、ゼンヴァイ......!!
ーー頭をポンと叩いてくれた時の手の重み、敷布団に残った体温、「もうどこにも行くなよ」の言葉、唇の端をちょっと上げただけの笑顔、湿ったフィルターの感触、ベランダに立つ細い背中ーー
和歌子を支える倫の記憶全てが、涙に混じって体から吐き出されていくような気がした。
「センパイの一番は自分」だと思い上がっていた気持ちが、一気に奈落の底まで突き落とされてしまった。元々不安定だった和歌子の存在価値が、元カレの発覚によって根底から揺さぶられてしまったのだ。
「ゔぁ、うっぐ、ひっく......」
軽い吐き気にえずきながら、和歌子はアスファルトに涙を落とし続けた。両足は地面にめり込んだように微動だにできず、重い袋をぶら下げた両腕は痺れを通り越して感覚がなかった。
消えてしまいたい。
そう願った直後。
「ワコ?」
暗闇の向こうから、地面を何か硬いもので叩く音と共に、聞き覚えのある声が飛んできた。和歌子は反射的にびくりと体を強ばらせた。
「ワコだろ?」
地面を叩く音が早くなった。今最も会ったらいけない人物が、サンダルを蹴立てて和歌子の側に駆け寄ってきた。あっという間の出来事に、和歌子は逃げることも涙を引っ込めることもできなかった。
何でどうして今来るんすかアタシどうしたらいいのどんな顔したらいいんすか
「何してんだよ」
軽く息を弾ませながら、倫が和歌子の前に立った。何とか嗚咽は押しとどめたが、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔はそのままだ。和歌子の顔を覗き込んだ倫が、はっと息を詰まらせた。
「何かされたんか?」
気色ばんだ様子で倫が和歌子に詰め寄った。和歌子は無言でぶんぶん首を振った。その拍子に涙が四方八方に飛び散った。
「......そっか」
倫を覆っていた緊張の膜がふっと解けた。和歌子は視線を倫の胸の辺りにさまよわせながら、混乱した頭の中身を必死に解きほぐそうともがいた。
何か言い訳を考えなくちゃ。この場を切り抜けるうまい言い訳を、早く、早く、センパイに訊かれる前に早く......!
「遅いから心配した」
穏やかな声だった。優しい、と言ってしまってよかった。和歌子はゆっくり視線を上げて、恐る恐る倫の顔を見た。
街灯の弱い光の下で、倫は色彩が抜け落ちたような、遠い表情をしていた。
「それ一つ寄越せよ」
倫は和歌子の手から強引に袋を奪い取ると、「帰んぞ」と、踵を返してすたすた歩き出してしまった。
和歌子は、闇に溶け込みつつある倫の背中を呆然とした思いで見つめた。
......理由、訊かないんですか?
倫は涙の理由に触れなかった。
和歌子にとっては願ったり叶ったりの展開のはずだ。だけどほっとしたのはほんの一瞬だけのことで。
次の瞬間には、腹の底がかっと熱くなった。
気付いたら、思ってもいなかったことを大声で口走っていた。
「さっきの話、ほんとうですか?」
暗闇の向こうから響いていた足音が、ぴたりと止まった。和歌子は肩でふーふー息をしながら返事を待った。腹の熱は今や全身に回り、頭の中がかっかしている。
「さっきの話って?」
とぼけてるの!?それともセンパイにとってはどうでもいい話なの!?
アタシがこんなにぐしゃぐしゃになってるのに!?
暗闇の向こうから投げ返された言葉が、ヒートアップした和歌子の脳内に燃料を投下した。地面に埋まっていた両足を引っこ抜き、倫に向かって猛然と駆け寄った。
「センパイの元カレの話です!忘れちゃったんですか?」
駆け寄り様、まるで喧嘩をふっかけるような勢いでまくしたてた。
首だけで振り返っていた倫は、体ごと向き直ると、
「龍一先輩のことか?」
とぼそりと訊いた。
龍一先輩......。改めて倫の口からその名前を聞いて、和歌子の心臓は締め上げられたようにぎゅっと痛んだ。
「つ、付き合ってたって、ほんとうですか?」
問いつめておきながら、和歌子は倫の顔を見ることができなかった。
「ほんとだよ。一年の時付き合ってた。すぐ別れたけどな」
ひと呼吸分の間を置いて倫の口から出た言葉は、和歌子を打ちのめした。
他人の口から聞くのと本人から直接聞くのとでは、衝撃の度合いがまったく違った。耳の奥でぐわんぐわん音がして、握りしめたこぶしがぶるぶる震えた。体がねじ切れそうなほど切ないこの気持ちは、どこから湧いてどこに行くんだろう。
「な......んで別れたんですか」
そんなこと知ってどうしようというのか。もうどうにでもなれという捨て鉢な気持ちだったのか。和歌子は自分の気持ちに収拾を着けることができなかった。
「そんなことお前に何の関係があんだよ?」
固くて冷たい声だった。何となく、悲しげにも聞こえた。和歌子は何も言うことができず、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「もしかして、嫉妬でもしてくれてんのかよ?」
一転して、からかうような、嗤うような口調だった。
もしかして、嫉妬でもしてくれてんのかよ?
その言葉を聞いて、かっかしていた頭が、一瞬でしんと冷えた。
和歌子は生まれて初めて、倫に対して心底からの怒りを覚えた。
嫉妬してたらどうだっていうんですか。嗤うほどおかしいですか。
「......だったらどうなんですか?」
和歌子は地を這うような低音を絞り出し、倫をねめつけた。
だが、倫の表情を見た途端、和歌子の中にわき上がった怒りの感情はあっさり吹き飛んでしまった。
倫は、切れ長の細い目を大きく見開いて、驚愕の表情で和歌子を見つめていた。
和歌子の言葉は、倫にとってまったくの予想外だったらしい。
倫は表情を凍り付かせたまま、言葉を探すように唇を小さく開け閉めしている。和歌子はここに来てようやくその言葉の持つ意味の重さに気付いて、全身から血の気がサーッと引いていくのを感じた。だけど一度口から出した言葉は、二度と引っ込めることはできないのだった。
気まずい睨み合いの時間は、長くは続かなかった。
先に折れたのは倫だった。見開いていた目をすっと伏せ、くるりと踵を返すと、怒ったような足取りで歩き出した。
和歌子は倫の姿が見えなくなってから、よろよろ歩き出した。裸の腕で顔をごしごし擦りながら。
どんなに気まずくてもどんなに苦しくても、和歌子が帰る場所は、あのぼろアパートしかないのだった。