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第9章 「どうしてもセンパイとここに来たかったんです」

 ジーワジーワジーワジーワ


「......あぢい」

 耳の穴から容赦なく浸食してくるせみの鳴き声に根負けして、とうとう倫は起き上がった。油がはねる音に似ているからアブラゼミ、とは良く言ったもので、この鳴き声を聞くだけで体感温度は優に3度は上昇している気がした。それでなくともエアコン無しの8月の室内は、朝っぱらからすでに30度を突破し、敷布団にはくっきり人型の寝汗ができているのだ。日曜の朝くらいゆっくり寝ていたいが仕方ない。倫は大きく2回伸びをして、掃き出し窓のカーテンをそっと開けた。

 そっと開けたのには理由がある。ふすまを隔てた四畳半、和歌子の寝ている部屋はまだひっそり静まり返っていた。

 

 アイツ、この状況でよく寝てられんな。

 

 これが若さってもんかな、と、一つしか違わない倫はあきれつつも納得した。


 ま、日曜くらい好きなだけ寝かせといてやるか。

 

 元々はからきし朝に弱いはずなのに、平日は倫に合わせて6時に起きている。和歌子なりに精一杯気を使って頑張っている事は、倫にもよくわかっていた。

 倫は足音を忍ばせ台所に足を踏み入れ、洗面台も兼ねている流しの蛇口をひねった。蛇口から溢れる生温なまぬるい水を手のひらですくいあげ、なるべく音をさせないよう、顔に染み込ませるようにして洗った。そうしながら、汗と一緒によこしまな思いも洗い流してしまえたらな、と思った。

 

 何が「ほっとけねーから」だよ。面倒見のいい先輩気取ってんじゃねーよ。


 蛇口をキュッと閉める。倫はそのままの姿勢で、排水溝をぼんやり眺めた。うつむけた顔からしずくがぽたぽた垂れる。


 結局アイツを側に置いときたいだけじゃねーか。


 倫は、欲望を美談で覆い隠そうとしている自分が許せなかった。本心を押し殺し、そのくせ息を潜めて隣の気配をうかがい、どうにもならない欲望にさいなまれながら眠れぬ夜を過ごす。もう何回、こんな夜を過ごした事だろう。


 立派な根性無しだよ、お前は。


 わざと乱暴に、鼻がもげるかと思う程の勢いでタオルで顔をこする。倫はひとつ鼻をすすると、気合いだ!とばかりに両手で両頬を挟み込むようにパンと叩いた。鼻の奥がツーンと痛くなり、涙の気配がした。


 しっかりしろよ先輩。せいぜいアイツの前ではいい先輩演じ続けてやれよ。

 それくらいしかしてやれねーんだから。


 自嘲じちょうの笑みが自然に湧いてきた。倫はめた笑いを顔に貼付けたまま、重い足取りで六畳間に戻った。


 ♢ ♢ ♢


 昼間の蒸し暑さとは打って変わって、過ごしやすい夜だった。さらっと乾いた風が肌を撫で、汗ばんだ首筋からいい具合に熱気を奪っていってくれる。真っ黒なドームには黄色い三日月が張り付き、川にその影を映していた。

 倫はさっきから煙草の煙で輪っかを作ろうと四苦八苦していた。ぱかあと口を開けたり逆にひょっとこのようにすぼませたり、部屋にいる和歌子に背中を向けているのをいいことに、子供じみた振る舞いに熱中していた。

「センパイ」

 だから、いきなり背後から声をかけられ心底驚き、思わず舌をみそうになった。

 

 み、見られたか?

 

「......あんだよ」

 狼狽ろうばいを押し隠そうとしたら、まるで脅しつけるような声音になってしまった。背中を向けているので表情はわからないが、和歌子がヒッとひるむ気配を感じた。

「あ、いや......おいしいすか、煙草?」

 和歌子がめげずに声をかけてくれたので、内心ホッとした。そのせいか、「吸ってみるか?」なんて普段は言わない軽口が飛び出した。

 和歌子は何も言わなかった。そして何も言わないまま、倫の左隣に立った。軽く面食らった倫は、和歌子の顔をまじまじと見つめた。

 和歌子は妙に真剣なまなざしで、神妙にうなずいた。

 もちろん冗談だった。煙すら嫌いな和歌子が吸うわけないことをわかって言った言葉だった。「冗談だよ」の一言で済むたぐいの話だった。だが、そんなこと口に出せない雰囲気が、切羽詰まった和歌子の表情からかもし出されていた。倫は黙って、パッケージから新しい煙草を一本取り出した。

 だが和歌子は首を振って

「そ、それでいいっす」

 と、倫の吸っている煙草を指差した。その指先が、ふるふる震えていた。

 倫はいよいよ面食らった。和歌子は馬鹿みたいに生真面目な顔で、倫の口に挟まれた煙草を見つめている。

 倫は、くわえていた煙草を黙って和歌子に差し出した。和歌子同様、倫の指先も震えていた。


 何でもない何でもない何でもないこんなこと仲間内ならよくあること。


 倫はポーカーフェイスを装い、念仏のように頭の中でそんなセリフをとなえ続けた。だが和歌子が煙草を口にくわえるのが見えた瞬間、ポーカーフェイスの仮面がぱりんと破れそうになった。心臓がやたらと自己主張し、一度は引いたはずの汗がたらりと背中を伝った。

「......!!ごほ、ごほっ!!」

 案の定、和歌子は盛大にむせた。どうやら思い切り肺に入れてしまったらしい。

「無理すんなよ」

 倫は和歌子から煙草を取り返した。和歌子はしばらく苦しそうにげへげへ咳をしていたが、やがて怒ったように「ねるっす」と呟くと、顔も上げずに部屋に引っ込んでしまった。


 何だったんだ、アイツ


 倫はぽかんと取り残されたような気持ちで、閉まった襖を眺めた。中指と人差し指の間で、三分の一程の長さになったくだんの煙草が細い煙を吐き出し続けている。

 倫は煙草をじっと見つめた。

 ドクン、ドクン、ドクン

 ゆっくりと、煙草を口元に近付けていく。指先の......いや、体全体の震えが伝わり、煙草の先から灰がぽろりと落ちた。

 唇に、湿ったフィルターが張り付く感触がした。その途端、全身の血流が倍になったように感じた。

 ズキン、ズキン、ズキン

 胸の内側が痛い。まるで刺の生えた心臓に内側から攻撃されているようだ。

 深呼吸の要領で、煙を肺の隅々にまで行き渡らせる。


 和歌子の味がする。


 そんなはずないのにそんな風に感じてしまう自分は、大馬鹿野郎の重症患者だ。

 あまつさえ、いつもよりずっと短く、フィルターぎりぎりまで吸い切ってしまった自分は。


 いっそ滑稽こっけいですらある。


 倫は、新しい煙草を吸う気にならず、かと言って部屋に戻る気にもならず、手すりにだらしなくもたれながら、ぽっかり浮かんだ三日月を、ただ眺め続けた。


 ♢ ♢ ♢


 和歌子がぎこちない。

 そう感じ始めたのは、和歌子との同居を再開してすぐの事だった。


 例えば、朝。

 以前なら「おはよーございます!」とうるさいくらいのテンションで、容赦ようしゃなく襖を開け放ち、ずかずか部屋に乗り込んできたものだった。だが今は、襖の向こうから「開けていいすか?」と確認を取り、開けるやいなや口の中で何やら挨拶のようなものをごにょごにょ呟きながら、顔も上げずに台所へ行ってしまう。

 食事の時もそうだ。目が合うとサッと視線を逸らせるくせに、倫がテレビに顔を向けると、横顔に痛いくらいの視線を感じる。

 平気で背中に飛びついてきたり、体に触れてきたり。高校時代から変わらない和歌子の無邪気な振る舞いに翻弄ほんろうされる度、倫は心臓が飛び出そうな心地になり、一時期このままでは本当に心臓がどうにかなってしまうのではないかと不安になったものだった。だが最近、そんな振る舞いはぱったり影を潜めていた。

 要するに、人並み以上に狭かった和歌子のパーソナルスペースが、ある時を境にぐっと広がったようなのだ。それが世間全般に対してなのか、それとも倫限定なのかは今のところわからないが。

 とりあえず心臓病の心配は去った訳だが、どうにもに落ちないところがあった。

 近付かないくせに、離れたがらないのだ。

 ベランダで煙草を吸っていると、「失礼します」と隣にやってくる。懲りたのか、もう煙草をせがんでくる事は無いが、ろくに話もしないくせに、倫が煙草を吸い終わるまで隣でじっと身を固くしている。

 朝家を出る時、以前は「早く帰ってきて下さいね〜お土産待ってまーす」なんてケラケラ笑いながら言っていたくせに、今は上がりかまちに突っ立ったままうんでもすんでもない。仕方なく「行ってくる」と声を掛けると、「行ってらっしゃい......す」と下を見ながら素っ気なく呟くのだ。だが外階段を下りて何気なく見上げると、ドアのすき間からこちらを見下ろしている和歌子と目が合ったりする。もちろん次の瞬間には、バタンとドアは閉じられる。

 和歌子の心持ちがわからない。一言で言えば、ぎこちないのだ。


 だけど、と倫は思った。

 ぎこちないのはお互い様かもしれない。


 元々機能不全の二人が、ひょんなことから始めた同居生活なのだ。しかもその片方......自分は、相手に対してあらぬ思いを抱いている。

 スムーズに行く方が不自然なんだ。倫は無理矢理そう思う事にした。


 それに。


 どんな形でもいい。カッコ悪くてもズルくてもいい。ただ、アイツの側にいたい。


 不自然だろうがぎこちなかろうが、倫はこの生活をーー和歌子との生活をーーもう二度と、手放したくはないのだった。


 ♢ ♢ ♢


 8月中旬。黒倉建設は、3日間のお盆休みに入った。

 

 テレビのニュースでは駅の混雑が映し出され、定点カメラが高速道路の渋滞を垂れ流していた。

 家族と疎遠で、行楽地に出かける金も無い。帰省ラッシュもUターンラッシュも別世界の出来事の倫と和歌子は、蒸し暑いアパートの一室で、扇風機の風に当たりながらぼんやりテレビ画面を眺めていた。座卓に置いた麦茶の瓶が盛大に汗をかき、丸い水の輪っかを形作っている。開け放った窓からは、生暖かい風と8月の容赦ない日差し、そして人々が織りなす生活の音が途切れなく流れ込んでくる。

「......あちーな」

「......そっすね」

 朝から何度この不毛なやり取りを繰り返しただろう。言っても涼しくなる訳ではないのだが、放っとくと何かの拍子に口から転がり出てしまうのだ。

 

 どっかに連れてってやれりゃいーんだけどな。

 

 和歌子は座卓に両肘を突いてだるそうな表情でテレビを観ている。


 ごめんな、ワコ。


 倫は仰向けに寝転がり、和歌子を目の端でちらりと見やると、心の中でそっと謝った。

 和歌子は高校卒業したてのまだ19、今が一番遊びたい盛りだろう。盆休みくらい和歌子をどこかに連れ出してやりたい所だが、いかんせん懐事情がそれを許さなかった。正直、今の倫の稼ぎでは二人分の食費を捻出ねんしゅつするのも危ういのだ。そこを気にした和歌子は、最近になってバイト探しを始めたところだった。「すぐバイト決めて、食費くらい入れるっす」と息巻く和歌子に、「ゆっくりでいーぞ」と言った倫だったが、和歌子の申し出は正直ありがたかった。

 だが、本音の本音では、そんなことはどうでもよかった。倫はこうして和歌子と過ごす事ができれば何も要らないと思っていた。

 

 贅沢なんかしなくていい服もぼろでいい一日一食でもいい何なら煙草も酒も今すぐ止めたっていい。

 和歌子が側にいてくれさえすれば、私はどうなったって構わない。


 倫は本気でそう思っていた。

 だが、そんな自分の我がままに和歌子を巻き込む訳にはいかなかった。和歌子は和歌子らしく、明るく屈託なく過ごして欲しかった。今までの過酷な生活を、全部リセットできるくらいに。

 さて、取りあえずこの3日間どう過ごしたもんかな。倫は何か妙案みょうあんが浮かばないかと天井を見上げてむむむと唸った。

「あ、あの、センパイ」

 倫と天井の間に、和歌子がおずおずと顔を挟み込んできた。ん?と目顔で答えたら、

「今ヒマすか?」

「......」

 これが暇じゃなかったら何を暇と言うのだろうか。

「見りゃわかんだろ」

 とんちんかんな質問に吹き出しそうになるのをこらえながら、コイツのこういう所が人をき付けるんだろうな、と倫は思った。

「そ、そっすね」

 和歌子はエヘヘと笑いながら、テレビに視線を戻した。

 ......

 ......

 ......

 いくら待っても、和歌子はそれ以上何も言おうとしなかった。

「おい」

「はいっ!?」

 しびれを切らして声をかけたら、和歌子は座ったまま宙に飛び上がる勢いで居住まいを正し、倫に向き直った。

「何か用事あったんじゃねーのかよ」

「あ、いや、その......」

 和歌子は言いずらそうに、正座した膝頭ひざがしらをもじもじこすり合わせている。自分にびびって言えないのかと思い、倫にしては最大限の努力で

「怒んねーから言ってみな」

 と努めて優しい口調で問いかけた。和歌子は少しひるんだ様子だったが、口をもぐもぐ動かしたあと、ぽつりぽつりとしゃべり出した。

「えっと、まあ、天気いーし、ちょっと外、散歩しませんか......なんて」

 倫は上半身を持ち上げ、ぽかんと和歌子の顔を見つめて訊いた。

「......散歩?」

「......はあ」

 倫は窓の外に視線を向けた。真夏の太陽はちょうど中天に差し掛かった所で、ギラギラぎとついた日差しが暴力的な勢いであたりに乱反射している。アスファルトなら余裕で溶けそうな勢いだ。

 本気か?倫は和歌子にゆっくり顔を戻して訊いた。

「今?」

 倫の様子を見てまずいと思ったのか、和歌子はあわあわと胸の前で両手を振った。

「いや、じょーだんっす! 炎天下に散歩なんてヤンキーのすることじゃねっすよね!」

 和歌子は額に汗をかきながら「あ、麦茶冷やしとこっかな」と席を立とうとした。倫はハッと思い立ち、「待てよ」と制した。

「いいよ、行こう」

「え?」

 倫の言葉が意外だったのだろう。和歌子はきょとんとした顔でその場に固まった。

「すぐ出るぞ」

「え、でもセンパイ、外めっちゃ暑そうで......」

「つべこべ言ってねーでさっさと用意しろよ」 

 和歌子の言葉をさえぎって、倫は身支度するべく流しに向かった。

「う、うっす」

 背中で聞こえた和歌子の返事は、戸惑い半分嬉しさ半分といった声音だった。


 予想外の言葉に面食らったが、和歌子が何かを望むのは、実は珍しい事だった。一見ワガママ勝手そうに見えるが、和歌子はどこか人生を諦めている所があり、物事への執着心が薄く、普段の言動にもそれが現れていた。

 けれどもここ最近の和歌子は様子が違った。この間の煙草しかり、今日の散歩しかり。ささいなことでも、たとえ突拍子も無い事でも、何かを望む気持ちが和歌子の中に芽生えたのだとしたら、それはいい兆候ちょうこうだと倫は思った。何かを欲する気持ちは、そのまま「生きる気力」に繋がると思うからだ。

 和歌子の希望なら出来る限り叶えてやりたい。たとえそれが真夏の炎天下の散歩でも。


 ♢ ♢ ♢


 アパートの外は想像以上の暑さだった。

 外階段を下ると、道路のはるか向こうにゆらゆら陽炎かげろうが立っていた。帽子なんて洒落しゃれた装飾具を持たない二人のむき出しの頭頂部に、日光が鋭い牙を向いて真上から突き刺さってくる。吹き出す汗は蒸発する事無く、じっとり肌に張り付いている。

「......」

 二人は、和歌子のビーチサンダルのペタペタ音をBGMに、人影どころか猫の子一匹見当たらない住宅街を無言で歩いた。何となく漂う決まり悪さが、二人の間に奇妙な間隔を作っていた。

「センパイ、河川敷行った事あります?」

 最初の曲がり角に差し掛かったあたりで、倫の半歩後ろを黙って歩いていた和歌子がそう切り出した。

「ん?......ああ、そういやねーな」

 和歌子に訊かれて初めて気付いた。ここに住み始めて一年以上経っているが、ベランダから眺めるばかりで、実は一度も河川敷に足を踏み入れていない事に。

「じゃあ、ちょ、ちょっと行ってみませんか?」

 なぜか緊張したような固い声だった。もとより倫に異論は無い。「んじゃ行ってみっか」と、河川敷に通じる道に足を向けた。和歌子がそのあとをぺたぺた付いてくる。

 土手の下から見上げると、頭の上にぽっかり青空が広がっていた。土手の緑が光線を和らげてくれるのか、ここから見る空は穏やかで、青と緑のコントラストが、強い日差しで弱った目を優しくいたわってくれるようだ。

 軽く息を弾ませながら、土手の階段を上る。最後の段に足をかけた瞬間、倫の首筋を冷たい風が吹き抜けていった。

 目の前があんまり急に開けたので、倫は別世界に連れてこられたような心地になって、一瞬自分の居場所を見失った。

 整然と並んだ桜の木が、白っぽいアスファルトにぽつぽつ影を落としている。土手には青々と草が生い茂り、ゆったり流れる川も空の色を映したような青だ。

 涼しいじゃねーか。倫はそう思った。川を渡る風は部屋で感じるよりずっと乾いて爽やかで、等間隔に植えられた木が作る樹影は、日光にあぶられた肌をひんやり包んでくれる。

「悪くねーじゃん」

 無意識にそんな言葉が出た自分に驚いた。和歌子が隣で照れくさそうに身じろぎする。

「センパイ、あっち見て下さい」

 木陰の涼を楽しみながらぶらぶら歩いていたら、和歌子が住宅街の方向を指差した。その先に、見慣れた青い建物があった。


 ああ、こっからアパートが見渡せるのか。


 開けっ放しの窓辺に、安っぽいカーテンがひらひら揺れている。壁に張り付いた小さなベランダはいかにも頼りなく、二人が乗って崩れないのが奇跡と思えるほどだった。

 何となく、和歌子はこれを見せたかったのかな、と思った。本当に何となくだ。

「オマエここ来た事あんの?」

 何の気無しにたずねたのだが、返事までだいぶ間があった。歩きながらひょいと隣を見たら、和歌子はビーチサンダルのつま先に視線を落としていた。

「はい、前に、一度だけ」

 ぽつ、ぽつ、ぽつと雨粒を落とすような調子で和歌子は呟いた。


 和歌子が泣いてる。涙を流さず泣いてる。倫はそう思った。


 ある衝動が倫の体を貫いた。

 和歌子を抱きしめたい。

 それは「情動」と言ってしまってよかった。

「どうしてもセンパイとここに来たかったんです」

 顔を逸らしてばかりだった和歌子が、倫の顔をはっきり見据えて言った。黒目のくっきりした潤んだ瞳が、まっすぐ倫の心をとらえてくる。

 そんなはずないのに、たった今生じた情動を和歌子に見透かされた気がして、倫はうろたえた。

「あの、センパイ」

 和歌子が歩みを止めた。2、3歩先で倫も足を止め、わざとゆっくり振り返る。

 ベビーフェイスの中で、二重の瞳が揺れていた。和歌子が何か大切な事を伝えようとしているのが表情から読み取れた。倫の心は、和歌子の瞳にがっちり捉えられていた。

「あのね、センパイ、アタシ......」

 和歌子が一歩踏み出した。倫は凍り付いたようにその場を動けない。早まる鼓動、こめかみから流れ落ちる汗......。

 

 もうすぐ何かが変わる。そんな予感が走った瞬間


 ♪ ♪ ♪〜


 場違いな電子音が二人の間に流れていた空気を容赦なく切り裂いた。

 倫と和歌子は呆然と顔を見合わせた。行き場の無い空気は、あっという間に真夏の大気に霧散して消えた。

「センパイ、でんわ......」

 和歌子が視線を倫の顔から自分のつま先に戻して、ポツリと言った。倫は黙ってポケットに手を突っ込み、じゃかじゃかわめいている携帯を取り出した。電源を切っておけば良かったと後悔したが、後の祭りだ。

 倫は着信表示も見ずに、携帯を耳に当てた。

「......もしもし」

『あ、倫元気? 相変わらず無愛想な声だねー』

「なんだ、亜希かよ」

 電話の相手は「竹田亜希」、倫に和歌子を「押し付け」た、高校時代の仲間だった。

『なんだはないでしょなんだは! まあ、あんたたちどうしてるかと思ってさ』

 亜希は、和歌子と誠也を巡る一連の騒動を知る数少ない人間の一人だった。

『ワコの様子はどう? 元気にしてんの?』

 倫は和歌子にちらりと目を向けた。和歌子はジャージのポケットに手を突っ込み、所在なげに小石を足先でいじっている。

「ん、まーな」

『そっか。ま、いろいろあったもんね』

 倫の脳裏に思い出すのもおぞましい男の顔が蘇った。頭の中でパンチを繰り出し、思い切り蹴り上げてやった。

『ところであんたさ、どうせ行くとこ無くて暇してんでしょ?』

「うるせーな悪いか」

『すごむなって! いやさ、純とケーコもあんたたちのこと気にしててさ。そんで、明日みんな休みだからさ、あんたんで飲もうかって話になったんだけどね』

 純もケーコも倫の同級生で、さんざんつるんだ仲だ。

『都合どーよ? ま、あんたもワコも大変だったし、息抜きになればいいかなと思って、さ』

 小石をいじるのに飽きたのか、和歌子は川を眺めていた。その小さな背中を見ながら、それもいーかもしんねーな、と倫は思った。亜希も純もケーコも和歌子の事を可愛がっていたし、湿ったところのない気持ちのいい連中だ。何より和歌子のいい気晴らしになるかもしれないと思った。

「いいよ、空いてるし。あ、酒とつまみは持ち込みな」

『ちゃっかりしてんね。OK、じゃ7時頃行くわ。じゃね』

 切れた携帯をポケットに突っ込み、「明日、亜希とか来るって」と和歌子の背中に声をかけた。「まじすか?」と喜ぶかと思いきや、和歌子は首だけで振り返り、「......つまみ、作りますね」と曖昧あいまいな笑顔を浮かべた。

 

 中途半端に途切れた和歌子の言葉は、霧散した空気とともに大気に溶け込んでしまった。

 急に暑さがぶり返したような気がして、倫は空を仰ぎ、目を細めた。

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