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今回のお話は自傷を意味する単語が出てきます。
そういったニュアンスの言葉が苦手、嫌悪を抱かれる方はご注意ください
「ヤンデレたるもの!」
と家に帰ってくるなり出迎えたレムに宣言をされ、透璃がいったい何のことかと首を傾げた。
この際、彼が家にいることに関しては気にするまい。何度鍵を変えてもナンバー式の施錠方法に変えても、レムは当然のように家の中にいて透璃が帰宅すると甲斐甲斐しく出迎えてくれるのだ。もちろん、今朝透璃は一人、誰もいない部屋の鍵をかけて出てきたのは言うまでもない。
「レムさん、ヤンデレがどうしたんですか?」
「ヤンデレたるもの、リストカットすべし!」
「……ハブアブレイク?」
「ハブアキットカ……違う!」
リストカット!と訂正をしてくるレムに、透璃が再び首を傾げた。
はてリストカットとはなんぞや、と。相変わらず彼の言うヤンデレというものは透璃の知識の外をいっている。
もっとも、今回に限っては透璃も思い当たるものがあった。その単語ならば以前にテレビで聞いたことがある。
自傷、というやつだ。
その中でも手首を切ることをリストカットという。
だがそれが分かっても透璃が首を傾げ続けるのは、どうしてヤンデレがリストカットと繋がるのかが分からないからだ。だがそれに対しては毎度のことながら「ヤンデレっていうのはそういうものなんだ」という返事が返ってきて、これまた毎度のことながら透璃が頷いて返した。
なるほど、どうやらヤンデレというのはそういうものらしい。それならば仕方ない。
「だけどレムさん、手首なんて切ってどうなるんですか」
「ヤンデレっていうのは手首を切ると愛が深まるらしい」
「よく分かりません」
「俺も分からない。でも言うだろ、風が吹けば桶屋が儲かるって、あれと同じ理屈じゃないか?」
レムのあさってな理屈に、対して透璃が頷いて返した。なるほど確かに、風が吹いて桶屋が儲かるのなら手首を切ってヤンデレの愛が深まる可能性も否定しきれない……と。
なにせ透璃は桶屋を営んだこともヤンデレだったこともないのだ、どちらも未知の領域ならば、片方を否定するのは失礼だろう。
もっとも、レムもあまり理解していないらしく、それでも「ものは試しに切ってみようと思う」と言い出した。
これには流石の透璃も目を丸くさせてしまう。なにせ手首だ、髪を切るだの爪を切るだのといった痛みもなく放っておけばまた生えてくるものではない。いくら試しに程度とはいえ、切り方によっては傷が残ってしまうこともあるし、深く切れば死んでしまう恐れだってある。
そう透璃が慌てて訴えれば、レムがさも平然と「大丈夫だ」と言い切った。迷いのないその瞳、それどころか「透璃が心配してくれた」と嬉しそうに笑う、向けられたのが透璃以外の者であったなら老若男女問わず見惚れていただろう。
「なにが大丈夫なんですか?」
「よくディーから『人間が死ぬ半歩手前』について話を聞いてるから」
「一歩手前じゃないんですか?」
「一歩手前は生ぬるいって。あいつの信条は『生かさず死んでない』だから、殺さずすらも生ぬるいらしい。それでよく傷とか怪我の話をしてくるんだ」
だから俺も詳しくなった、と胸をはるレムに、透璃が「ならば好きにさせよう」と出かけた忠告の言葉を飲み込んだ。自分自身、人体のことについて詳しいわけではないのだ、レムが自ら詳しいと誇るのであれば口出しはするまい。
ちなみにレムの言葉を受けてディーへの認識が多少改まったわけなのだが、なるほど道理で、たまに彼と電話をしていると悲鳴が聞こえてくる時がある。あれが死ぬ半歩手前の声なのだと考えれば、納得の断末魔ぶりである。
そんなことを考えていると、レムがひょいと手を差し出してきた。何かを催促するようなその動きに、透璃が頭上に疑問符を浮かべて彼の名を呼ぶ。
「レムさん?」
「そういうわけだから、包丁かカッター貸してくれ」
「えぇ、私のを使うんですか?」
透璃が驚いて目を丸くさせる。てっきり刃物も自前かと思いきや、まさかこちらで借りるつもりだったらしい。
だがレムにも言い分があるようで、老若男女問わず見惚れてしまいそうな美しい唇を僅かに尖らせて「だってさ」と話しだした。対峙しているのが透璃でなければ、きっと今頃卒倒するものがあらわれていそうな、そんな魅力的な拗ねた表情である。
「だって、俺の持ってる刃物ってゾウでも殺せる毒薬が塗ってあるんだ」
「そんな物騒なものを持ち込まないでください」
「あれを使うと2~3日痺れが抜けなくて嫌なんだよ」
だから透璃の貸して、と再び催促してくるレムに、透璃が眉間に皺を寄せた。
この際、彼が物騒な刃物を家に持ち込んでいることも、ゾウすら殺せる毒薬を数日の痺れで片付けてしまうことも気にするまい。前者は持っていても出してこなければ問題はなさそうだし、後者はもしかしたらヤンデレというのはゾウよりも毒に耐性があるのかもしれないと思えたからだ。
だからこそここで問題なのは、貸してくれと言われても貸せそうな刃物がないことである。
なにせ透璃は一人暮らし。
自炊も、レムが勝手に台所に居て――勝手に来て、というよりは勝手に居て――あれこれと料理を作りはするが、基本的に透璃自信はあまりする方ではない。包丁も一丁だけ、野菜と肉と魚と……と分けたりなどしていない。
そしてそんな一丁すら貸すには問題があった。あの包丁は駄目だ……
「この間、買ったお刺身が切れてなくて使ったから駄目です」
「生臭いのか? でも刺身を切ったくらいでそんな」
「いえ、切るだけのつもりだったんですが、色々と考えごとしていたらいつの間にか叩き潰してなめろうになっていたんで」
「あぁ、あれ手作りなんだ」
随分と叩き潰されてた、と先日の夕飯を思い出すレムに、透璃が頷いて返す。
包丁片手にふと考えを巡らせていたところ、いつの間にか手元では刺身が跡形もなく叩き潰されていたのだ。その間の意識はないが、まぁこうなったもんは仕方ないと味付けをして夕飯に美味しくいただいた。
つまり、今家にはその時の包丁しかない。
他に刃物といっても、カッターは先日塗れたホースを切って少し刃先が錆びているし、ハサミも汚れたマットを切ったので衛生面から考えて貸すことなどできない。
あと他にはないし……と透璃が悩みつつ、はたととある物を思い出して「そうだ」と顔をあげた。
「ありました、新品の綺麗な刃物」
「本当か!?」
「えぇ、買ったはいいけど結局使わずじまいだったんです」
そう説明しながら透璃が台所へと向かう。
そうして棚の下に潜り込むようにしてガサゴソと漁り、取り出したのは……
「どうです? 切れそうですか、手首」
「なんか真ん中の一本が凄く邪魔をしてくる」
どうしたものか、と悩むレムに、透璃が「駄目でしたか」と眉間に皺を寄せる。
貸した新品のハサミはどうやら手首を切るには向いていないらしい。まぁ、そもそもの用途が違うのだし、そんなことに特化したハサミがあったら問題なのだが。
ちなみに、現在レムが手にしているハサミは交差する二本の刃に、間に一本棒が入っている。これがどうにも手首に刺さって上手く刃を当てられないらしい……もっとも、このハサミの用途を考えれば棒こそが重要であり、まったく見当違いなことに使っているのだから文句は言えない。
さらにハサミの特徴をあげるのであれば、グリップの部分がやたらと大きく、また握りながら挟めるようにと内側が凹凸になっている。これもまたこのハサミの用途ゆえの特徴といえるだろ。
そんなハサミをどう手首に当てたものか……と試行錯誤しつつ、時には凹凸になっている部分で手首を挟んでみたり。それでも結局は無理だと判断したのか、レムがカタンと音を立ててハサミを机においた。
そうして、心の底から残念だと言わんばかりに溜息をつく。儚げなその表情は魅力的で、事情を知らぬ第三者が居ればその姿に感嘆の声をもらしていたかもしれない。
もっとも、この場にいる唯一の人物である透璃はと言えば、儚げな表情で溜息をつくレムを横目にハサミを手に取ると、試すようにカチャカチャと刃をならしてみた。
「やっぱり、この蟹用のハサミじゃ駄目でしたか」
「ごめんなぁ、透璃。俺が蟹だったら上手くいったかもしれないんだけど」
「エビにも使えるって書いてあったんで、もしかしたらと思ったんですが」
「俺が甲殻類じゃなかったばっかりに」
上手くいかないものだ、と二人で顔を見合わせ、次いで透璃がハサミをしまう。
もしかしたら蟹を食べるかもしれないと思って買ったハサミだが、思いのほか蟹を食べることはなくリストカットにも使えない、どうやら当分出番はないようだ。
「もう少しお眠り……」と囁きながら引き出しにしまう透璃に、レムが「蟹かぁ」と呟いた。そうしておもむろに立ち上がるや、部屋の一角にあるコンセントへと向かい、何も刺さっていないそれに向き合うようにしゃがみこむと
「蟹が食べたい」
と話しかけた。
はたから見ればさぞや滑稽、むしろコンセントに向かって話しかけるなど精神面での疑いをかけられてもおかしくはない。
もっとも、透璃はそんなレムに対して疑問を抱くでもなく、向けていた視線を今度はベランダへと向けた。
ゴトン!
と何かが落ちてくる音がする。
それを聞いたレムがパタパタとベランダへと駆け寄っていき、次いで聞こえてきたのは
「たらばっ!」
という嬉しそうな彼の声である。
それを聞いて透璃がふむと考えた、つまりはきっとそういうことで、ベランダにはタラバ蟹がいるはずだ。それも、音を聞くにかなりの量……。
これはまずい、と透璃が判断し、慌ててコンセントへと駆け寄った。もちろん電気を使うわけではなく、しゃがみ込んで
「茹でたいんですが、蟹を茹でれる鍋がありません」
と話しかけるためである。
それから数秒後ふたたびガゴんと音が響き、見覚えのない――というより透璃の家にはなかった――大きな鍋にタラバ蟹を入れたレムがベランダから戻ってきたのは言うまでもない。
「手首を切れば蟹が食べれる」
「違いますよレムさん、結局手首は切れてないじゃないですか」
と、そんなことを話しつつ、ようやく出番を――それもちゃんとした出番を――迎えたハサミをカチャと鳴らした。
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