5
「ヤンデレたるもの!」
と、レムが言い出したのは夕飯が終わってしばらく。
そろそろ風呂に入ろうか…と透璃が腰を上げようとした、まさにその瞬間である。
まるで見計らったかのようなそのタイミングにいったい突然どうしたのかと視線で尋ねれば、彼は相変わらず誰もが見惚れる見目の良さで不敵に笑い、机に置いたままの透璃の携帯縁話を手に取った。
「ヤンデレたるもの、恋人の携帯電話のロックを解くべし!」
「今回は携帯電話のロックですか。毎度ながら聞きますが、ヤンデレっていうのはそういうものなんですか?」
「毎度ながら答えよう、そういうものなんだ」
「そういうものなんですか」
ならばご自由に、と透璃が取り返すでもなくレムの手の中にある携帯電話に視線を向ければ、その余裕こそ挑戦状と取ったのかレムが更に笑みを強めた。
見惚れるほど美しく、それでいてどこか攻撃的な笑み。その笑みを向けられれば老若男女問わず魅入られ動けなくなるであろうものの、透璃は固まるどころか暢気に眺めて欠伸なんかしている。
「随分と余裕だな。俺が携帯電話のロックを解けないとでも思ってるのか?」
「いえ、別にそんな」
「ふん、まぁいい。たかが一般人向けの携帯電話、この俺にかかれば……」
そう言いかけ、ついと携帯電話の画面に指を滑らしたレムがしばらく画面を眺め……
「かけろよ、ロック」
と、携帯電話に机を戻してきた。
「どうしてロックかける必要があるんですか、面倒臭い」
「いやほら、ロックしておかないと誰かに見られるだろ」
「誰に」
「俺に」
そうですか、と透璃が携帯電話を手に取った。
ここで「見ないでください」と釘を刺して終われば簡単なのだろうが、そう上手くいかないのがヤンデレらしい。
ならば仕方ないと透璃は携帯電話を操作し、ロック設定画面まで進めた。勿論、今か今かと瞳を輝かせているレムのためである。
解かれるためにロックをかけるとは変な話だ。
だがそれがヤンデレというものならば仕方ないのだろう。と、そこまで考えてふと手を止めた。
画面では暗証番号を設定しろと訴えている。ここまで進めて今更な話ではあるが、いったいどんな番号にすればいいのか……。
「誕生日とか安直な数字にするなよ」
「え、駄目なんですか?」
「駄目に決まってるだろ! そんな簡単なの、解いても楽しくない!」
「楽しまないで下さいよ。それじゃ、銀行の番号……」
「それも知ってる! 面白くない!」
もっと他の番号にしろ!と訴えてくるレムに、透璃が悩むように小首を傾げた。
この際、レムが銀行の暗証番号を知っていることに関してはスルーしよう。悪用する気はなさそうだし、もしかしたらヤンデレとは相手の銀行の暗証番号も把握しているものなのかもしれない。
だが誕生日や銀行の番号でも駄目となると、他にどんな番号があるだろうか?
安易に適当な番号にすれば逆に自分が分からなくなるし、かといって馴染みのある数字の羅列などそうそう日常生活にあるわけでもない。
「んー、それなら……」
「どんな番号にしたって、絶対に俺がロック解除してやる」
「はいはい。それじゃ、これでどうぞ」
はい、と透璃が携帯電話を差し出す。
画面では暗証番号の入力を求められており、それを見たレムがいっそう瞳を輝かせた。
そうして数度、彼なりに予想していたであろう数字を打ち込み……今度は僅かに眉間に皺を寄せた。コロコロと面白い様に表情が変わるが、思い返せば以前「ヤンデレは喜怒哀楽が激しいものだ」と言っていた気もする。そういうものなのだろう。
だがレムの方はそんな暢気なことを考えている余裕はないようで、どうやら次々とあてが外れているらしく顔つきも若干だが険しくなっている。美しい顔が台無し……ではなく、これはこれで魅力的なのだが、それを唯一見ている透璃はと言えば随分とのんびりしたものだ。
「どうです、レムさん。解けそうですか?」
「む、むむ……」
随分と苦戦しているようで、何度も番号を入力しては間違えて、それを数度繰り返しては1分のロックをかけられて……。
と、そんなことを繰り返しているうちにまるで痺れを切らしたかのように透璃の携帯電話が鳴りだした。といってもロックが解けたわけではなく、予め設定しておいたタイマーが作動したのだ。
それを思い出した透璃が、まるで携帯電話に促されるように掛け時計を見上げた。気付けば短針が10を示している。
「レムさん、10時ですよ」
「10時だなぁ。くそ、銀行の番号でも暗証番号でもないし、出生届の番号でもないのか」
「そろそろ帰る時間ですよ」
「年金番号でもないし、透璃のツイッターのパスワードでもない」
「帰らないとディーさんに怒られますよ」
ほら、と促す透璃に、レムが渋々といった表情で携帯電話の画面から顔を上げた。
その表情は随分と不満げだが、それもまた様になっている。僅かに膨らんだ頬や尖らせた唇も、きっと透璃以外が見れば「ギャップが可愛い」となるのだろう。
だがどんなにレムが魅力的であろうと透璃には効かず、時計を眺めた後に再度「ほら」と促した。
「ほらレムさん、帰る準備してください。10時には送り出すってディーさんと約束しちゃったんですから」
「……この携帯、借りてく」
「はい?」
「明日にはロック解いて返すから」
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ」
透璃の携帯電話を掴み帰り支度を始めるレムに、さすがに持ち主である透璃が待ったをかけた。
携帯電話は携帯してこそのものだ、はいそうですかと貸せるものではない。とりわけ、自宅電話を引いていない透璃にとって唯一の連絡手段でもあるのだ。
職場から緊急の電話がかかってくる可能性もあるし、誰かから連絡が入るかもしれない。たまにではあるが市役所から連絡がくることもあるし、定期的に興信所とも連絡をとりあっている。
そういう点でも貸せるものではないと、透璃がレムに手を伸ばした。
もちろん「さっさと返してください」という意味である。
だがレムはと言えば透璃からの視線を受けるも返す様子無く、それどころかニッコリと――透璃以外が見ればウットリするような笑みで――微笑んだ。
「安心しろ、俺の携帯貸すから」
「いやいや、そういうもんじゃないでしょ」
「大丈夫、透璃の携帯電話にきた着信もメールも俺の携帯に転送されるようになってるから」
……。
なるほど、と透璃が頷いた。
「なるほど、それならレムさんの携帯を借りましょう」
「あ、でもあんまり中見ないでくれよ。透璃の隠し撮り写真がたくさん入ってるから」
「そうですか。一応確認して、不意打ちで不細工になってるのだけ消しますね」
そういうことで交渉成立である。
ひとまず代用品としてレムの携帯電話を受け取り、透璃が試しにと操作を試みた。
この際だ、トップ画面が撮られた覚えのない自分の写真であることは気にするまい。上手く撮れているし。
それに操作方法も自分のものとそう違いが無いようだ。これなら仮に自分の携帯電話に着信があり、それが転送されてきても対応できるだろう。
「それじゃ、明日にはしっかりロック解除しておくからな!」
透璃の携帯電話を大事そうに握ったまま、レムが嬉しそうに部屋を出ていった。
それからしばらく。
入浴を済ませ、あとは寝るだけだと寝室に入った透璃の……ではなくレムの携帯電話が鳴りだした。
画面を見ればそこには見慣れた名前。となればこれは出てもいいのだろうと、慣れぬ操作ながら手早く通話ボタンをタップした。
「もしもし」
『やぁ透璃、おめでとう』
聞こえてきたのはディーの声。
だが言われた言葉に透璃は僅かに目を丸くした。
「おめでとう」とはどういうことだろうか。思い返してみても今日は記念日でもなく、ましてや祝日でもない。
だがよく聞けば電話の向こうからは何やら賑やかな音楽が聞こえ、人々が騒ぐ陽気な声が聞こえてくる。
どうやら彼の居る場所では今はめでたく、「おめでとう」と言葉を交わす状況のようだ。そこがどこだかは分からないけれど。
となればそれに倣おうと、透璃も「おめでとうございます」と返しておいた。
「ところで、どうしました?」
『今日、レムが君の携帯を持って帰ってきたんだ。なんでも暗証番号を解きたいらしい』
「ヤンデレというのはそういうものらしいですよ。なので仕方なく貸しました」
『それで、今きみの携帯電話の暗証番号を解こうと皆必死になってるんだよ』
「みんな、ですか」
『解析班や精神分析官まで出て来て、君が生まれてからの経歴を洗い浚い引っくり返してるところだ』
「そうですか」
それは随分と大事になりましたね、と透璃が返した。
たかが携帯電話の暗証番号を解くのに、解析班や精神分析官とは穏やかではない。というか、そういった人達が容易に出てこれる場所にいるのだろうか。
だがそれを詳しく聞く気もおこらず、透璃はさも他人事のように「解けると良いですね」とだけ言っておいた。
所詮解いたところでさほど重要なデータがあるわけでもなし、それどころか先程レムの携帯電話をいじっていたところ、元々透璃の携帯電話に入っているデータがそっくりそのままコピーされていることが判明したのだ。ご丁寧に、昨日撮った野良猫の写真までしっかりとコピーされている。
暗証番号が解けないのにコピーとは不思議な話ではあるが、だがまぁ今はそれを追及するときでもないだろう。何が言いたいかと言えば、暗証番号を解いたところで面白味がないということだ。
解析班や精神分析官も、これほど遣り甲斐のない仕事はないだろうに、他人事ながら同情してしまう。もう少し重要なデータでも入れておけば良かっただろうか、例えば……思いつかないけれど。
そんなことを透璃が考えていると、電話口のディーが「それで」と話を改めてきた。
『それで、ここだけの話なんだが。その暗証番号、俺にだけ教えてくれないかな?』
「あなたにだけ、ですか?」
『あぁ、みんな考え込んでるんだけど俺は頭を使うタイプじゃないし、君のこともあまり知らない。出生届の受理番号も、赤十字の登録番号も分からないんだ』
「それは私も分かりませんね」
ディー曰く、頭を使う点においては逆立ちしたって解析班達には敵わない、となれば彼等が解けない番号を自分が解けるわけがない。だが気になるのも事実で、ならば直接聞けばいいじゃないか……と、そういうわけで電話をしてきたらしい。
なるほど、と透璃が電話を耳に当てながら頷いた。この状況は言ってしまえば電話先に回答があるようなもの、出生届から何から資料を引っくり返すくらいならさっさと携帯電話の通話マークに触れればいいのだ。
それが分かるからこそ、透璃は焦らすことも渋ることもなくすんなりと「分かりました」と答えた。所詮は携帯電話の暗証番号、それも中身は筒抜けの代物だ。
「でも、きっとディーさんも知っている番号ですよ」
『俺も知っている番号? 君の銀行の暗証番号かい?』
「いいえ違います」
どうやら銀行の暗証番号は彼まで知れ渡っているらしい。いや、きっと彼の周辺すべてに渡っているのだろう。
それがどれほどの規模かは分からないが、通帳を見た限り覚えなく減っている形跡は無いので大丈夫だろう。むしろ彼等のおかげで残高が増えているくらいだ。
いや、今はそんなことを考えている場合ではないか……と透璃は考え直し、電話口で待っているであろうディーの名前を呼んだ。
「いいですかディーさん、私の携帯電話の番号は……」
『君の携帯電話の番号は?』
「レムさんの誕生日ですよ」
簡単でしょ、とあっさりと答えれば、電話口から豪快な笑い声が聞こえてきた。それと、まるでタイミングを合わせたかのような花火の音。
それを聞きながら透璃は肩を竦め「おやすみなさい」と一言残して通話終了ボタンに軽く指先を這わせた。