14
「ヤンデレたるもの!」
とレムが言い出したのは、日付も変わって夜の2時。
この時間まで無心で牛乳パズルに勤しんでいた透璃が夜更かしに気づき、慌てて就寝の準備を終えて寝室の扉を開けた瞬間である。
今夜も例に漏れず、招いた覚えもそれどころか今日に限っては一度も見かけた覚えのない彼は、いったいどういうわけかちゃっかりと布団に入ってドヤ顔で先程の発言を繰り出してくれた。布団を首元までかけて、電気を消せばスヤァと眠ってしまいそうなほどリラックスの体勢である。ひとの家のひとのベットで、我が物顔とはこのことである。
「レムさんこんばんは、布団に入ってるなんて珍しいですね」
「ヤンデレだからな!」
そう満面の笑みで答えるレムに、透璃が「そういうものなんですか」と返す。
どうやらヤンデレというものは時折ベッドの中に現れるものらしい。あいにくと透璃はヤンデレではなく、突如他人のベッドに出没するような術も持ち合わせていない。だからこそ未知のものを否定はするまいと、そういうものなのだと納得することにした。
そんな透璃に対し、レムが得意げな表情で説明を続ける。
「ヤンデレたるもの、性急にことを進めるべし!」
……と。
これには透璃も不思議そうに首を傾げ、携帯電話を充電器に差し込んだ。目覚まし時計機能を確認するのも忘れない。
「ヤンデレが性急とはどういうことですか?」
そう尋ねつつ台所に水を取りに行く。ヤンデレが性急とはまったく理解できないし、不思議でたまらない。
いったいレムさんは何の話をしているのだろうか。そんな疑問を抱くと共に、ペットボトルの水を常温に戻しておけば良かったと朝から16時間ほど牛乳パズルに熱中して途中4時間ほど意識を無くしていた自分を恨む。
もっとも、意識が無くなったとはいえ気付けば包丁を手に刺身用の魚がナメロウになっていたので、あれはあれで良しとすることにした。結果良ければ全て良し、ならぬ、結果美味しければ全て良しである。
「それで、なんでしたっけ。ヤンデレが常温?」
「常温なものか、熱々だからな! いいか透璃、ヤンデレっていうのは性急に進展しようとするものなんだ。つまり今回はちょっとアダルティー!」
「ふぅん、そういうものですか」
「すわムーンかノクターンか!」
「……どうしましたレムさん」
「俺もよく分からない。なんか口をついて出た」
何だろう? と不思議そうにするレムに、透璃もまたよく分からないと肩を竦めて返した。ムーンだのノクターンだのよく分からないが、もしかしたらヤンデレというものはそういったことを口にするものなのだろうか?
だがレムが分からなければ透璃も分かるわけがなく、二人揃えて頭上に疑問符を飛ばし「よく分からないな」「そうですね」と話を終えることにした。
ひとまず、今は性急にことを進める件についてである。そうして話を戻せば、はたと我に返ったレムが再び布団の中でドヤ!と胸を張った。
――横になっているので今一つわかりにくいが、布団が膨らんだので胸を張ったのだろう、と透璃は判断しておいた――
「ヤンデレたるもの性急にことを進めるべし。だが無理強いはスマートじゃない、そこで俺は考えた!」
「はぁ、なんでしょ」
「透璃の今夜の予定を聞かずにスマートに進められる枕!」
「あぁ、例の」
あれかぁと透璃が小さく呟いた。レムが言わんとしているのは、いわゆる『Yes・No枕』というものなのだろう。
透璃も現物を見たことはないが容易に想像できる。それぞれ片面にYes・Noとプリントされており、それを気分によってひっくり返すことで情事の誘いに対して可否を示すのだ。
なるほど、レムは性急にことを進めるためにYes・No枕を用意したのか……と、そう透璃が考えつつ待てば、ドヤ顔のレムがもぞもぞと布団を動かした。どうやら布団の中に用意してあるらしく、ご丁寧に「見ろ透璃、これが!」と仰々しく取り出した。
――その瞬間、まるでテレビのようにジャジャーン!と壮大な音楽が聞こえてきたのだが、それが両隣の部屋からであったのは言うまでもない。きっと盗聴しつつタイミングを合わせて音を出したのだろう。透璃としては更にその隣に居るであろう住人に文句を言われないかが気がかりである。……まだそこに他人が住んでいればの話だが――
そんなダイナミックな効果音と共にレムが取り出したのは、Yes・No枕……ではなく、
「これが、Yes・No・Humm枕だ!」
という通り『Yes・No・Humm枕』であった。
ちなみに形を言うならば三角柱、それぞれの面にYes・No・Hummとプリントがされている。
Yesはもちろん情事の誘いに応じる意味を持ち、反対にNoは拒否を示す。Hummはいわゆる『悩み』を示しており、レム曰く相手に考える余地を与える紳士さを表したらしい。
そんな『Yes・No・Humm枕』手にするレムの得意げな表情と言ったらない。仮にこの場に透璃以外の誰かがいれば迷わずYes面を彼に押しつけただろう。それほどまでに輝く瞳が美しいのだ。
そんなレムを前に、透璃はしばらく『Yes・No・Humm枕』を眺め……。
「……レムさん、これ枕というより三角柱の邪魔なものですよ」
「うん、俺も綿詰めてる時にちょっと違うかなって感じてた」
「手作りでしたか」
「それ、すっごい寝にくいんだ。首のおさまりが死ぬほど悪い。これを枕にして寝たら間違いなく寝違える」
どうやらレム自身も何かを感じていたのか、切なげな表情で『Yes・No・Humm枕』を眺める。内心では失敗とすら感じているのだろう、それでもパッと表情を変えるや「さ、透璃!」と枕――三角柱のこれを枕と呼んでいいのか定かではないが――を差し出してきた。
じょじょに濃くなる失敗ムードを感じつつ、それでも無理矢理に話を進めることにしたらしい。随分と無理があるが、透璃は流されるままに枕を受け取った。
もしかしたらヤンデレというのは『Yes・No・Humm枕』を作った上で失敗を感じつつも性急にことを進めるものなのかもしれない、と考えたからだ。ならば透璃もそれに応じて話を進めるのが道理である。それと、いい加減早いとこ話を進めて終いに持っていって寝たいという思いもあった。
その割合は1:9である。だいぶ眠い。
だからこそ改めて、Yes・No・Hummのプリントがされた三面を眺める。
どの面を表にするかで意思表示がなされ、レムの対応も変わってくるということなのだろう。Humm面が追加されたとはいえ、透璃が選択しなければいけないことに変わりはない。
だけど……と透璃は考え、そっと枕をベッドにおいた。
縦に、立てるように。
三角柱ならではの置き方である。
「……なるほどこう来たか。三面にした時点で既に俺の負けが決まっていたわけだ」
「そういうわけですから、残念ながら性急なヤンデレは諦めてください」
そう話しながら部屋の電気を消し、透璃がベッドに乗ると布団へと入った。レムとの間に君臨する三角柱は高々と天井に向かって延びており、時折危なげにグラグラと揺れている。
顔面に倒れてきたら嫌だな……と、そんなことを考えつつ、互いに「おやすみ」と言葉を交わし……。
「あ、ちょっと待ちましょうか」
と、透璃が起きあがって枕元の灯りを点けた。
「スムーズな流れで就寝しようとしましたが、さすがにこれは駄目ですね。ベッドを共にするなんていけません」
「Yes・No・Humm枕がYesになってないから何もしない!」
「駄目ですよ。仮にも私達は男女なんですから、何かあったらどうするんですか」
「大丈夫! 俺、最初は求めるより求められたい派だから!」
「なるほど、そういうことなら分かりました。おやすみなさい」
「おやすみ!」
パチン、と音をたててレムが枕元のライトを消す。
最初は求めるより求められたい派ならば手を出してくることもないだろう……と、透璃も警戒心を解いて目を瞑った。
バゴン
という何とも言えない音と、「ふぎゃ!」という間の抜けた声――それでも美声である――が聞こえてくる。
それを聞きつつも目の前の画面に視線を向けたままでいれば、ガラと音がして扉が開かれた。顔を覗かせたのは……
「Yes・No・Humm枕に襲撃された……」
と自分の鼻先をさするレム。
おおかた立てておいたYes・No・Humm枕が顔面に倒れてきたのだろう。ソファーに座っていた透璃がそれを察して「あらまぁ」と返した。
「大丈夫ですか?」
「枕だから痛くはない。でもビックリした」
「寝てるところに枕が倒れてきたらヤンデレでもビックリするんですね」
「そりゃヤンデレでも寝てればな。あんなにビックリしたのは寝てる隙にディーにワープホールに投げ込まれた時ぐらいだ」
「それはビックリしますね」
「あいつの寝起きドッキリはたちが悪いんだ。俺の寝起きドッキリ電磁砲の方がまだ可愛い」
そうレムが思いだし怒りをすれば、今までアメリカ人の出演者がやたらめったら大袈裟なリアクションで商品を紹介していた通販番組の画面にザザと砂嵐が流れ、
『:P』
と文字が浮かび上がった。もちろんディーからのメッセージであり、透璃が首を捻るようにして画面を横に眺める。
なるほど、これは舌を出している顔文字なのだろう。『:』が目で、『P 』はペロリと舌を出すさまを現している。
つまり、まったく反省の色が見られないということだ。
それを察したレムが怒りながら「チャンネルを戻せ!」と部屋のコンセントへと話しかけた。一瞬その怒声に近所迷惑を心配してしまったが、まぁ近所といっても上下左右はこの会話を盗聴しているのだから別に構わないだろうと考え直す。
――もしかしたら上下左右どころではないかもしれないが、今は気にするときではない――
そうして改めてチャンネルが通販番組に戻されれば、もう何度目になるのか分からないミキサーの紹介が始まった。深夜の通販番組はどういうわけか深夜にそぐわぬテンションの高さで、数種類の商品をひたすらローテーションで進めてくるのだ。
それを眺めていると、レムが「それで」と透璃に話しかけた。普段と同じ老若男女問わず聞き惚れてしまいそうな美声だが、どこか普段よりも落ち着きを感じさせる。
「それで、透璃はなんで眠れないんだ? 寝る前にちゃんと睡眠薬飲んでたよな?」
そう問われ、透璃が小さく溜息をついた。
バレていたか……と、そう考えればそれすらも察したのかレムが「ヤンデレだからな」と苦笑を漏らした。
どうやらヤンデレというのは、眠るときに睡眠薬が必要なことも、そして投薬してもなお眠れないこともお見通しらしい。そんなレムに対して透璃は参ったと冗談めいて肩を竦めると「ヤンデレとは関係ないことですよ」と前置きをして次いでポツリと漏らした。
「ひとが隣に居ると眠れなくなってたみたいです」
寝る前は確かに眠かった。布団に入ってしばらくも眠かった。
だというのに睡魔は意識を微睡ませるだけで眠りへとは導いてくれなかった。ギリギリのところで『隣に誰かがいる』と訴えてくるのだ。
その度に透璃は微睡む意識の中で自問自答した。
隣にいるのは誰か? もちろんレムだ。彼は大丈夫だ。
だけど本当にそうか? 隣にいるのは本当に彼か?
別の誰かじゃないか? この呼吸の仕方に覚えはないか?
布団を伝って感じる体温に静かな中で聞こえてくる呼吸に僅かにたゆむ布団の歪みに感じる気配に覚えはないか?
例えばかつて隣で寝ていた……。
そこまで考えれば眠れるわけがなく、起きては隣にいるのがレムだと確認して再び目を瞑り、また疑問に思考を囚われては隣を確認し……と、その繰り返しの果てに眠ることを放棄してベッドを出たのだ。
幸い明日は休み、あと一時間ほどすれば早朝のニュースが始まるし、昼頃にまた睡魔がやってくるだろう。そう考えた。
それを淡々と話し終えれば、終始聞き役に徹していたレムがやんわりと微笑んで手を伸ばしてきた。
ペチン
と、透璃の両頬がレムの手によって押さえられる。おまけにムニムニと揉みだすのだから、これには透璃も暗く濁りきって虚ろになった瞳をキョトンと丸くさせた。
「レムさん?」
「俺がヤンデレだから、透璃は病んじゃだめー」
そうムニムニと頬を揉まれながら告げられ、透璃が「はぁ」と――若干「ふぁ」になりつつ――答える。
そんな返事でも満足したのか、レムが「よし!」と最後に一度ムギュと透璃の頬を強く押さえると手を離して立ち上がった。
「仕方ない。今夜は大人しく帰ってやろう! ヤンデレっていうのは帰り時を見極められるものだ!」
「そういうものなんですか?」
「そういうものなんだ! それじゃ透璃、おやすみ」
じゃぁなー、と軽い挨拶を最後に、レムがベランダへと向かう。……そう、ベランダへと。
そうして窓をあけると一瞬強い風が吹き抜け、タッセルが外れていたのかカーテンが大きく翻った。
それが元に戻ると、どういうわけかレムの姿がない。普段彼を迎えにくる轟音の戦闘機がこないのは時間帯を気にしてだろうか、それにしたってどうやって帰ったのか……。
と、そこまで考えて透璃がファと大きく欠伸をした。先程までどこかへと出掛けていた睡魔が戻ってきたらしく、レムの帰宅方法を考えようにも意識が微睡んでしまう。
「まぁ、ちゃんと帰れてるなら良いか」
ムニャムニャと呟きつつ、窓を閉めてカーテンをタッセルで留める。
そうして寝室へと戻れば、ベッドにはYes・No・Humm枕が中央にドンと構えていた。
「明日居たら持って帰ってもらわなきゃ……」
そんなことをブツブツと半分寝言のように呟きつつ、透璃がベッドに倒れ込んだ。
バフンと大きな音がして、ベッドと布団とそしてYes・No・Humm枕が揺れる。そうして微睡む意識の中でYes・No・Humm枕を手繰り寄せ、抱きつくようにして眠りについた。




