第7話 奇石を追って
ファネロ歴一二五八年。
宮廷では皇王と皇妃が体調を崩し、聖都の外で野盗が現れることがあっても、聖都マルムはいつもと変わらない人々の活気で満ちている。
その賑わいを避けるようにして、宮廷の外周に一組の男女の姿があった。男は浅葱色のマントでその長身を覆い、顔には目を覆うように包帯が巻かれている。女は背中まで届くほどの長い黒髪に、膝上まであるサイハイブーツを履いている。
女はやや億劫そうな表情を浮かべたまま、胸の前で両腕を組んでいる。
「宮廷の中、ね……確かなの?」
「あぁ……二つ視える」
目を包帯で覆われているのにもかかわらず、男は<視える>と答えた。だが、女はそのことを気にした様子もなく男の答えに一つ頷き、高さが十五メートルはある宮廷を囲う城壁を見上げた。
城壁の周りには掘りがあり、外部からの侵入を拒んでいる。唯一の入口は、常に兵士がいる正門だけだ。
「まぁ、あの子がこんなところにいるとは思えないけど……一応確認しておかないとね」
女は軽く足首をほぐすと、サイハイブーツに包まれた脚で地面を蹴った。まるで羽根が生えたかのように宙を舞うと、軽々と宮廷を囲う城壁の上へ辿り着く。その動きに合わせて、背中まで伸びた長い黒髪が、ふわりと舞い降りる。そのまま素早く城壁から飛び降りると、眼下に広がる美しい庭園へ着地した。
そばにある木に身を潜めたまま、女は辺りに人がいないかを見渡した。周囲に人の姿が見えないのを確認すると、ゆっくりと立ち上がり前へ進み出た。しかし、その直後に女の動きが止まった。
女のすぐ隣には、怯えた様子でこちらを見上げるアネモネの姿があった。
アネモネは見知らぬ女が突然木陰から現れたことに驚き、その身体を小さく震わせた。
「あ……」
決して油断していたわけではなかったが、女もまた庭園に女の子がいることに驚いた。
だが、少女の首に掛けられた紙の束を見つけると、目の前の女の子が声を出せないことを悟った。
声を出されないことに安堵した女は、穏やかな口調で少女に話しかける。
「ごめんね、驚いた?」
女に話しかけられても、アネモネの警戒心が消えることはなかった。
驚いたように見開いた目は、真っ直ぐ女を見つめたまま、この状況をどうしたらいいのか分からないといった様子だ。
女はゆっくりと近づくとアネモネの前でしゃがみ、目線の高さを目の前の少女に合わせた。
女は優しい笑顔を浮かべ、
「あなた、お名前は?」
アネモネは女の質問に答えようと、首に掛けた紙に自分の名前を書いて見せた。
「そう、アネモネっていうの。良い名前ね」
その時、一見では分からなかったが、少女の胸元に漆黒色の石があることに気づいた。その石は自然界にある鉱石とは異なる、艶やかな表面をしている。
「それ、綺麗な石ね」
女はアネモネの首に掛けられた石を指をさした。
アネモネは石と女を交互に見て、こくりと頷く。
少女らしいその動作に女は微笑むと、
「ねぇ、よかったらよく見せ……」
「アネモネっ!」
庭園に面した廊下から、不意に少女の名を呼ぶ声が聞こえた。
女が声の方に視線を向けると、ソニアがアネモネのもとへ走ってくるのが見えた。
見知らぬ女が庭園にいることに違和感を覚えたソニアは、アネモネを庇うように両肩に手をまわす。ソニアよりも少し年上の面持ちの女は、細い足を覆い隠すようなサイハイブーツが印象的だ。
「あ、あなたは?」
「私は……」
女はどう説明するか言い淀むと、そのまま言葉を続けた。
「私はフレア。今日からこの宮廷に就くことになった者で……その、ここはまだ不慣れで……」
フレアは腰に下げた剣を見せて、デボンの兵であることを強調した。
「そ、そう……?」
フレアの言葉にどこか疑わしいものを感じたが、ソニアはそれ以上は追求しなかった。人見知りをするアネモネが、すでにフレアに慣れたのか怯えた様子を見せていないのが、大きな要因だった。
「ところで、アネモネのその石なんだけど……何というか、珍しい石ね」
「あぁ、この石?」
ソニアはアネモネの胸元で輝く漆黒色の石を見た。アネモネの頭を優しく撫でると、ソニアは石とアネモネのことを話し始めた。
「この子が生まれたとき、その手に握ってたらしいんです」
「生まれたときに?」
ソニアの予想外の返答に、フレアは驚きを隠せなかった。フレアがよく知るフリージアの奇石の一つだとばかり思っていたが、そうではなかった。
生まれたときに手に持っていた。フリージアのように体内に宿しているわけでもなく、誰かから譲り受けたわけでもない。そうなるとこの石は、奇石のような特異な力を持っていないのかも知れない。そのようなことを考えつつ、フレアは目の前の少女を見つめた。
アネモネは、フリージアのような白い髪と肌を持っていない。むしろ、黒い髪と褐色の肌は、その真逆と言えた。
「もともとアネモネは、聖都マルムの北西ノーリ地方にあるレーティア村の子だったんです……。だけど、二年前に村が野盗に襲われて、そのときにこの子の両親は亡くなって。それから、私とゼフィが引き取って一緒に暮らしてるの」
「そうだったの……」
ソニアは静かに頷くと、さらに話を続けた。
「私とゼフィ……あ、ゼフィっていうのはここの騎士団長をしているんですけど。私と彼も、小さい頃に似たような境遇があって。それもあって、放っておけなくて……」
各地を転々としてきたフレアは、デボンの辺境では小さな村が野盗に襲われている噂を耳にしていた。しかし、被害にあった本人から直に話を聞くのは初めてだった。
「ごめんなさい。何だか暗い話になってしまって……」
フレアの表情に陰りを見たソニアは、あわてて謝罪した。何気なく見つめたフレアの姿に、ソニアは不意にどこかで見たことがあるような気がした。長い黒髪に、脚を覆うようなサイハイブーツ。その二つが、記憶のどこかに引っかかった。
「あの……以前にどこかで会ったこと、あります?」
ソニアの意外な問いに、フレアは僅かに驚きの表情を浮かべた。しかし、フレアの記憶にはソニアという名前も、その容姿もなかった。
フレアは正直に首を横に振り、
「いいえ、ないと思うけど?」
「そう……でしたか」
嘘をついている風には見えないフレアの表情を目の前にしても、ソニアの記憶はどこかでそれを否定していた。
「ところでその石なんだけど、よかったら……」
フレアは再び話を漆黒色の石に戻そうとしたとき、アネモネとソニアの背後に一人の兵士らしき男の姿を見た。さすがに兵士に知られれば、自分がデボンの兵という嘘がばれてしまう。目の前の漆黒色の石が気になりながらも、フレアは一旦引き返すことを判断した。
「ごめなさい。私、急用を思い出したわ」
「えっ?」
「それじゃ」
フレアは慌てた様子で立ち上がると、突然二人の前から姿を消した。その姿はすでに城壁の上にあり、フレアはそのまま侵入したときと同じように城壁の外へと飛び降りた。
堀を背に着地し、辺りを見渡して誰にも見られていないことを確認すると、安堵の溜息をついた。
「石を持って生まれた、ね……」
自身の知る奇石とは一線を画するその石に、フレアは謂われのない不安を抱いた。