第6話 六年前の悲劇
ファネロ歴一二五二年。
デボン皇国の東方に、ゴトランドと呼ばれる小さな国があった。
ゴトランドの南方にはルテシア河を挟んでシルル共和国の地があり、東方にはレニア海と呼ばれる内海が広がっている。北方は緑豊かな山脈がそびえており、ゴトランドは自然に恵まれた環境の中にあった。
国とは称しているものの、その実は部族の集落のようなもので、その地を治める部族名からゴトランド国と呼ばれている。
ゴトランド族は争いを好まず、自然の恩恵を受けて繁栄してきた。他国との交易もあり、ゴトランドの歴史は平穏そのものだった。
しかし、その平穏は隣国のデボン皇国の侵略によって打ち破られることになった。
北には雪と氷に覆われたランギア氷山、西にはデボンに次ぐ強国オルドビス、南には広大なルテシア河。デボン皇国には、緑豊かな山も広大な海もなかった。そこで当時の皇王クフェア二世は、自然に恵まれたゴトランドを自国のものにしようと侵略を計ったのだった。
争いとは無縁のゴトランドは、瞬く間にデボン兵に蹂躙され、部族の暮らす集落は火の海に包まれた。戦う術を持たないゴトランド族はたた逃げることしかできず、集落はまさに阿鼻叫喚の渦に飲み込まれた。
その中で、少年と少女の二人が互いに手を握りあい、集落からほど近い林を掛ける姿があった。
二人は息を切らしながらも、懸命に走り続けた。時折、地面のおうとつに足を引っかけては何度も転んだ。だが、何度も転びながらも互いに手を引いては、一歩でも集落から離れようとしていた。
「大丈夫、ソニア?」
「うん」
少年は少女を励ましつつ茂みをかき分けながら、誰も追ってこられないよう奥へと進み続けた。しかし、二人の体力はやがて尽き、足が動かなくなるとその場に倒れ込んだ。
「少し、ここで休もう」
乱れた息づかいで少年が提案すると、少女は頷くことで答えた。
どれほど走り続けたのか、二人には分からなかった。まだ十二年という短い人生だったが、これほどまで走ったことはなかった。
二人は並んで仰向けになり、懸命に息を吸っては吐いてを繰り返す。そのまま数分が過ぎた頃、二人の呼吸はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
「とりあえず、ここまでくれば大丈夫かな」
少年は、逃げてきた方を向き、誰も追って来ていないことを確認する。
「ねぇゼフィ、これからどうするの。私たち、どうなるの?」
ソニアは抑えきれない不安を口にした。
しかし、それはゼフィランサスも同じで、自分が教えて欲しいくらいだった。ゼフィランサスが問いかけに答えずに口を閉ざしていると、不意に背後の茂みから何かが落ちる鈍い音が聞こえた。
それまで気を緩めていた二人は、まるで心臓を鷲づかみされたように身体を凍り付かせる。
二人が恐る恐る茂みから音が聞こえた方を覗き込むと、そこには見たことのない少年が倒れていた。歳は十二、三といったところ。灰色の髪が特徴的な少年の身体は傷だらけで、見ている者にもその痛みが伝わってくるかのようだった。
「誰……?」
とりあえず、デボン兵でなかったことに安堵したが、ゴトランドでは見かけない少年が林の奥で一人倒れていることに二人は警戒した。
ゼフィランサスの声が聞こえたのか、倒れていた少年は急に上体を起こすと、茂み越しに覗いているゼフィランサスを鋭く睨みつけた。だが次の瞬間、少年は別の何かに気がついて表情を険しくすると、さらに林の奥へとその姿を消した。
「何だったんだ、一体……」
少年の姿が見えなくなるとゼフィランサスは立ち上がり、少年が倒れていた場所へ足を運んだ。そこには少年の傷から流れた血の跡と、銀色に似た石が一つ落ちていた。
「なんだろう、この石」
ゼフィランサスは、先程の少年が落としたと思われる石を拾い上げた。光にかざすと、その石は鈍色に輝いてみせた。
不思議そうに石を眺めていると、再び人の気配が近づいてくるのを感じた。ゼフィランサスは石を手にしたまま、慌ててソニアがいる茂みに身を潜ませる。その直後に、一組の男女が茂みのそばに姿を現した。
「どうやら、また逃げられたみたいね」
「まったく、あいつは……」
茂みからは二人の足下しか見えず、どんな人物かはゼフィランサスの位置からは見ることができない。見える範囲で印象的だったのが、女性の長い黒髪に脚を覆うサイハイブーツと、男性の左手のみにはめられた手袋だった。
ゼフィランサスとソニアは、息をのんで男女の会話を聞き入った。どうやら先程の少年を追って来たらしいことが分かった。だが、二人の正体が分からない以上、ゼフィランサスは、うかつに身動きを取るわけにはいかない。
「仕方がないな、一旦セージと合流しよう」
「そうね」
先程の少年を追うのを諦めた様子で、一組の男女はその場を立ち去った。
男女の気配がなくなると、ゼフィランサスとソニアは大きな安堵の溜息をつきながら茂みから出た。
「はぁ~……」
「ねぇゼフィ。私たち、これからどうする?」
ソニアは先程と同じ質問を繰り返した。ソニアの言葉を聞きながら、ゼフィランサスは先程拾った石を見つめていた。そして静かに目を閉じて、まるで何かを誓うようにその石を握りしめる。
「俺は、デボンを許せない。いつか必ずデボンを……デボンの皇王を討つ!」
「皇王を討つって……どうやって……?」
「俺は強くなる。強くなってみんなの仇を討つんだ」
生まれ育ったゴトランドを襲ったデボン皇国に対して、ゼフィランサスは揺るぎない復讐の念を抱く。それは、わずか十三歳の少年にとって、唯一の生きる糧となった。