第2話 独りの少女たち
レーティア村の惨劇から二年が過ぎた、ファネロ歴一二五八年。
デボン皇国の要所である聖都マルムは、国土のほぼ中央に位置している。南北にそれぞれ二十キロメートルはある聖都の中心地に、デボン皇王の宮廷がある。美しく磨き上げられた大理石で造られた宮廷は、陽の光が当たるとまるで白い輝きを放っているかのように見えた。
宮廷には広大な庭園もあり、そこには多種多様な草花が植えられている。季節ごとに庭園は彩りを変え、一年を通して色鮮やかに宮廷を飾り立てる。
その庭園を見渡せる宮廷の一画で、少女の悲鳴に似た声が響き渡った。
「いぃぃやぁぁぁっ!」
幾層にも重ねられフリルのスカートを揺らしながら、少女は宮廷内を駆けていた。
少女が駆けるたびに、肩まで伸びた柔らかい髪がふわりと舞い上がる。
「逃げないでください、アリスタータ様!」
逃げる少女の背後からは、若い侍女が追いかけてくる。
「だってぇ、歴史のお勉強なんてつまらないんだもーん。外で遊びたーい!」
デボン皇国の幼い皇女の顔は、勉強を嫌うそれではなく、侍女に追いかけられている今の状況を楽しんでいるかのようだ。
それに対して、皇女を追いかける侍女の表情は真剣そのものだ。
アリスタータは笑顔を浮かべたまま、侍女のソニアから逃れるため逃げ続ける。
時折すれ違う皇王の臣下たちは、見慣れたその光景に呆れにも似た笑顔で二人を見送る。
広い廊下を走っていると、アリスタータは庭園に見慣れなものを見つけた。足を止めて庭園へ視線を向けると、そこにはうずくまっているかのような小さな人影があった。
「ん~誰かしら……」
皇女が目を細める様にしてその人影の正体を見極めようとしているところへ、アリスタータを追いかけていた侍女のソニアが追いついてきた。
「アリスタータ様、捕まえましたよ! さぁ、部屋に戻ってお勉強の続きを……?」
背後から幼い皇女の両肩を掴んだソニアは、アリスタータがじっと庭園に視線を注いでいることに気づいた。
「庭園に何かありましたか?」
アリスタータにつられるように、ソニアもまた庭園に目を向けた。アリスタータの両肩を掴む手の力が僅かに緩んだ瞬間、アリスタータはソニアの手を逃れて庭園へ駆け出した。
「あっ、アリスタータ様!」
ソニアの声が聞こえないふりをして、アリスタータは庭園の隅にある小さな人影に向かった。
そこには、アリスタータと同年代の少女が、庭園に植えられた草花の世話をしていた。
宮廷で見かけるのは大人たちばかりだったアリスタータには、目の前にいる少女が珍しかった。
皇女という立場のため、一日のほとんどを宮廷内で過ごしている。宮廷の外に広がる聖都の街へは、実の親である皇王と皇妃の許可が必要だ。しかし、四十代後半でようやくできた我が子を溺愛する皇女の両親は、アリスタータの外出に許可を出すことは滅多にない。そのため、アリスタータは自分と同年代の子供と接する機会がほとんどなかった。
だが今、自分と同年代の、しかも女の子が目の前いる。それだけでアリスタータが好奇心を抱くには十分だった。
「ねぇ、何してるの?」
同年代の子供と話ができることに嬉しさを隠せないアリスタータは、晴れ渡った青空のような笑顔で訊ねた。
草花の世話をしていた黒い髪と褐色の肌を持つ少女は、驚いた様子で振り向いた。高価そうな美しい衣装に身を包んだアリスタータに、少女は怯えるように身を小さくさせる。
少女の怯えた様子を気にもとめずに、アリスタータはさらに話しかけた。
「私はアリスタータ。あなたは?」
だが、アリスタータの問いに少女は答えず、怯えたように小さく身体を震わせる。
アリスタータは目の前の少女の首に掛けられた、漆黒色の石と何も書かれていない紙の束に気がついた。
「こんな真っ黒な石があるんだー。へぇ~、凄く綺麗な石だね。で……その紙の束はなぁに?」
アリスタータがぐいと顔を近づけると、それに合わせるように少女は後ずさりした。
「その子の名前はアネモネと言います、アリスタータ様」
怯える少女に代わって、いつの間にか背後に立っていたソニアが答えた。
ソニアは身を縮めるアネモネに近づくと、その肩を優しく抱き寄せた。
「アネモネは二年前に両親を亡くして……それからは、私とゼフィランサスの三人で暮らしているんですよ」
「そうなんだー」
アリスタータはアネモネの黒い瞳をじっと見つめ、
「よろしくね、アネモネ」
にこやかな表情で右手をアネモネに差し出した。
震えは治まったものの、まだどこか怯えた表情を浮かべるアネモネは隣にいるソニアの顔を見上げた。
ソニアは何も言わず、穏やかな微笑を浮かべて一つ頷いて見せた。
アネモネはアリスタータへ振り返り、おずおずと差し出された手を握った。
次の瞬間、アリスタータの瞳は輝きを増し、嬉しそうに握った手を上下に振った。
二人のやりとりを優しく見守っていたソニアは、先程の説明を続ける。
「アネモネは両親を亡くしたショックからか、声を失っていていまして……。それに、もともと積極的な性格ではないので、引き取ってからの一年間は誰とも接しようとはしませんでした。だからといって、そのままにはできませんので、最近は時々こうして庭園に連れてきて草花の世話をさせていたのです」
「それじゃあ、この紙の束は……」
アリスタータは、アネモネの胸元にぶら下がる紙の束を指さす。
「はい、アネモネが誰かと話するときのために持たせているのです」
ソニアの言葉に、アリスタータは納得したように頷いて見せた。
「それじゃあ……さっそくお話ししましょ、アネモネ」
アリスタータはまるで名案だと言わんばかりに、パンッと手を叩いて提案した。
「ダメです。アリスタータ様はお勉強の最中ですよ」
しかしアリスタータの案は、侍女のソニアによってあっさりと却下された。
「えぇぇ~……」
「えぇぇ~、じゃありません! さぁ、早く部屋に戻りますよ」
ソニアはアリスタータの手を取ると、強引に手を引いた。
「いぃぃやぁぁだぁぁっ!」
ソニアに引きずられたまま、アリスタータはじたばたと手足を動かして抵抗してみせる。
それに負けじと、ソニアは頑なにアリスタータの手を引き続ける。
ソニアに引きずられながらも抵抗していたアリスタータは、妙案が浮かんだかのように表情を明るくさせた。
「それじゃあ、アネモネと遊ばせてくれたら勉強する!」
「えっ?」
ソニアはアリスタータの言葉に思わず足を止めた。
「今まで、同い年くらいの子と遊んだことないし、話をすることもほとんどないんだよ。やっと……やっとそれができると思って嬉しかったのに……」
「アリスタータ様……」
四年前に侍女としてこの宮廷に仕えるようになったソニアは、それ以来ずっとアリスタータを見てきた。皇女の言う通り、これまでアリスタータの近辺で彼女と同年代の子供を見かけたことはない。皇女として生まれたアリスタータには、街の子供たちでは当たり前の友達と呼べる人物はいなかった。おそらく宮廷内で彼女の年齢に一番近いのは、十八歳のソニアだ。
アリスタータのこれまでのことを考えると、ソニアはアリスタータの提案を無下にはできなくなった。
ソニアは溜息をつくと諦めたような口調で、
「分かりました。では、三十分だけですよ」
ソニアの言葉を聞いた瞬間、アリスタータの顔は花が咲いたかのような笑みを浮かべた。
ソニアが手を放すと、アリスタータは嬉しそうにアネモネのもとへ駆け寄っていく。
再び近づいてきたアリスタータに、アネモネは戸惑いを隠しきれないでいた。しかし、そのことを気にしないアリスタータは、積極的にアネモネに話し始める。これまでできなかった当たり前のことができることに、アリスタータは素直に喜んだ。
少し離れた場所で、ソニアは温かく見守るように二人を見つめた。
事情は違えど、これまで友達と呼べる相手がいなかった、アネモネとアリスタータ。身分も育った環境もまるで違う二人が、今こうして話をしていることがソニアには嬉しかった。つい先程まで、アリスタータの言動に振り回されていたソニアも、自然と微笑みを浮かべている。
上空から降り注ぐ午前の陽光は、アリスタータの心境を現すかのような明るさで、庭園と二人を照らし続ける。四月を迎え、これから少しずつ温かくなっていくこの季節。吹き抜ける風は、季節のそれとは違った温かさを運んでいた。