第15話 皇女の決意
宮廷内が騒然としている最中、閉じられていた宮廷の門が重い音を立ててゆっくりと開かれた。門の外には、およそ二十名からなる黒い生地に鮮やかな黄色があしらわれたコートを着た、義賊エクリプスの姿があった。
一団の先頭に立つレギアに、慌てた様子で門兵の二人が近づく。
「レギア、大変だ。皇王が殺害された」
「なに!?」
宮廷へ辿り着いたレギアは、潜入していた仲間の第一報に驚いた。
「どういうことだ?」
「騎士の一人が皇王を殺害したらしい。そのせいで宮廷内は大騒ぎだ」
門兵の言う騎士と言う言葉に、レギアは以前にカリスから聞いていた話を思い出した。
「騎士……ゼフィランサスとかいう男が動いたのか?」
レギアの言葉に門兵は頷く。
「カリスはどうしている?」
「予定通り行動を起こすと言っていた。どちらにしても、ゼフィランサスを抑えるには必要だからな」
「そうか……」
レギアは想定外の出来事に、しばらくのあいだ考え込むように目を閉じた。出立したドゥーベが戻ってくる可能性は考えていたが、毒殺を謀ろうとしているゼフィランサスが行動を起こすことは、レギアの考えにはなかった。
標的である皇王が殺害された今、エクリプスはその目的を失ったも同然。しかし、だからといって引き返すというのは、どこか釈然としなかった。長い時間を掛けて毒殺を謀っていた者が、急に皇王を殺害しようとするだろうか。自身の目で真相を見極めねばなるまい。レギアの中で、一つの指針が定められた。
レギアは振り返ると、後ろに控えている仲間たちに言った。
「お前たちは聖都の外へ待機しろ。ここからは俺一人で行く」
「レギア、正気か? 混乱のただ中とはいえ、宮廷内はすべて敵なんだぞ! それにドゥーベも戻ってきているらしい」
レギアの案に、門兵が反発する。
「混乱した兵など、何人こようが俺の敵ではない。それに、標的の皇王がいない今、我々全員で向かったところで無駄に混乱が大きくなるだけだ。ドゥーベのことなら……問題ない、策がある」
レギアは、コートのポケットに忍び込ませている一欠片の晶石を握りしめた。
「しかし……」
「皆は退路確保のためにも、聖都の外で待機だ。いいな」
「わ、分かった……」
レギアの有無を言わせぬ鋭い視線が、仲間の言葉を飲み込ませた。
その時、宮廷奥から大きな爆発に似た音と振動が走った。
「何事だ!?」
「レギア、あそこだ!」
門兵が指さす先に目を向けると、宮廷奥の上空に黒い炎が見えた。天井を突き抜けて、黒い炎はその先端を揺らしている。
「黒い……炎? なんだ、あれは……」
「あの位置……おそらく皇王の間だ」
レギアは門兵の言葉を聞くと、単身で宮廷内へ駆け込んだ。人知れずドゥーベが宮廷に戻ってきているとなると、この騒動はおそらくドゥーベの仕組んだ罠か。ならば渦中にドゥーベがいるかもしれん。胸中で呟くと、時折すれ違うデボン兵を気にもとめずに皇王の間を目指した。
フレアが去って、ほどなくしてドゥーベは意識を取り戻した。まるで、止まっていた呼吸を取り戻すかのように、口を大きく開けて激しく呼吸をする。地面に埋まった身体を起こそうとすると、全身に悲鳴をあげるような激痛が走った。フレアの常人離れした蹴りを何度も受けたため、骨の数本は折れているのが分かった。
それでも激痛に耐えながら、ようやく上体を起こすことができた。
「くそ……あの化け物め……」
そう毒づくも、満足に動かすこともできない身体では、フレアを追うことなど不可能だった。
すぐ横に転がる剣を見つけると、ドゥーベは剣の柄に手を伸ばす。その時、不意にドゥーベの身体が影に覆われた。何とか顔を上げることができたドゥーベの前には、見知らぬ少年の姿があった。
歳は十二、三といったとこ。灰色の髪をした少年の眼は充血しているかのように赤く、まるでこの世のすべてに憎しみを抱いているかのようだ。身につけている衣服は薄汚れ、刃物のようなもので切り裂かれた跡が何カ所もある。しかし、その裂け目から覗く肌には、傷跡らしきものは一切見当たらない。
「な、何だ……小僧」
ドゥーベを無言のまま見下ろしていた少年は、ドゥーベが手を伸ばした先にある剣を拾い上げた。
「母さんの石、返してもらうヨ」
「母……だと……?」
少年は拾い上げた剣の柄から、埋め込まれた深緑色の奇石を力任せに引きはがす。
しばらく陽の光にかざして眺めると、腰に下げた小さな麻の袋にしまった。
「お前……さっきの女と同じ、フリージアの……」
だが、ドゥーベは最後まで言葉を続けることはできなかった。少年が繰り出した回し蹴りがドゥーベの側頭部にめり込み、骨を砕いた。力なく倒れ込んだところへ、少年はさらにドゥーベの顔を踏みつけた。まるで巨大な物に押しつぶされたかのように顔は陥没し、粘着質ないやな音が響く。踏みつけた少年の足を赤く染めた。
「奇石に溺れた薄汚い大人が、母さんの名前を口にするナ」
文字通りドゥーベの顔を踏み潰した少年は、宮廷の一画を見上げた。そこには、黒い色をした炎の先端が揺れているのが見える。
「あれは……いや、違ウ。母さんの石じゃなイ」
感情のない無機質な声で呟くと、少年は何事もなかったかのように庭園から姿を消した。
アネモネの身体から発する黒い火は、衰えることなく燃え続けた。天井を突き抜けた黒い火柱は、ゆっくりと大きくなっているのが見て分かる。
未知の力に恐れをなした兵たちが我先にと皇王の間から出て行くなか、その流れに逆らうようにしてフレアが駆け込んできた。
皇王の間に辿り着いたフレアは、目の前の光景に驚愕した。
部屋の奥でアネモネが両膝をついて、天を仰ぐようにして涙を流している。その彼女を中心に黒い火が包んでいる。
彼女の傍らにいたゼフィランサスの身体が、末端からその姿を塵に変えているのが見えた。さらに火は大きくなり、黒い火に触れたハイドの身体がきめの細かい砂が舞うように、塵になっていく。
「これが……アネモネが持っていた奇石……?」
呆然とその光景を眺めていたフレアは、視界の隅に倒れているソニアを見つけた。ゼフィランサスとハイドを塵に変えた黒い火は、すでにソニアにも迫りつつある。
「くっ!」
フレアはとっさに床を蹴ると素早くソニアを抱え上げ、再び皇王の間の入口へ避難した。ゆっくりとソニアを床に降ろし、再びアネモネに視線を戻す。
黒い火は確実にその範囲を広げている。この部屋すべてが飲み込まれるまで、僅か数分といったところだろう。このまま放っておいたら、宮廷はもちろん聖都マルムも黒い火によって跡形もなく塵になる恐れがある。
皇王の間の入口で呆然と立ち尽くすアリスタータとカリスのもとに、今度はレギアが姿を現した。
「これは……」
レギアもまたフレアと同じように、目の前の光景に驚きを隠せなかった。
「レギア!」
それまで為す術もなく立ち尽くしていたカリスは、レギアの声に気づき彼の名を呼んだ。
「カリスか。これは……奇石の力なのか? それに、ドゥーベの姿がないようだが?」
「ドゥーベは、ここにいないわ。宮廷のどこかにいるとは思うけど……」
「そうか……しかし、これは一体……」
レギアは辺りを見渡すと、部屋から逃げた際に兵士が落としたと思われる短剣を見つけた。その短剣を拾うと、黒い火の中心にいるアネモネに向けて投げた。
的確にアネモネに向けて投げられた短剣は、アネモネの周囲を覆う黒い火に触れた途端、塵となってその存在を失った。
「触れただけで、そうなるのか……」
レギアは黒い火の性質を見極めたが、それを止める手段までは分からなかった。いや、可能性は一つあったが、その方法で確実に黒い火を抑えられる保証はなかった。
「ねぇ、あなたたち。晶石を持ってない?」
カリスとレギアを振り返って、不意にフレアが訊ねる。
「晶石なら一つあるが……」
レギアは答えながら、コートのポケットから一欠片の晶石を取り出して見せた。
「貸してっ!」
言うと同時に、フレアはレギアの手から晶石を奪い取っていた。
「待て。あれが奇石の力によるものなら、その程度の晶石で食い止められる保証はないぞ」
「でも、他に方法はないでしょ?」
晶石には、奇石の力を押さえ込む特殊な力がある。そのことから、人々のあいだでは災厄から身を守る、いわゆるお守り代わりとして持つことがあった。
だがレギアが持っていた理由はお守りとしてではなく、おそらくドゥーベが持っているであろう奇石に対抗するためであった。
フレアは晶石を見つめると、覚悟を決めたようにアネモネに視線を注ぐ。
「三人はソニアを連れて早くここを離れて。ここは、私が何とかする」
「正気か?」
レギアの言葉に耳を傾けず、フレアはゆっくりとアネモネに向かって歩き出す。と、不意にフレアの手を小さな手が握ってきた。
フレアの握られた手の先には、怯えた様子を見せながらも、瞳には決意に満ちた輝きを放つアリスタータがいた。
「ん、どうしたの?」
フレアに問われて、アリスタータは僅かに逡巡した後、自身の思いを口にした。
「私も、行く!」
フレアはアリスタータの前でしゃがみ込むと、その小さな両肩にそっと手を置いた。
「ここは危ないから早く逃げなさい」
フレアは優しく諭そうとするが、アリスタータは力強く首を振ってそれを拒否した。
「あの子は……アネモネは、私の初めての友だちなの! だから、私が助けたい!」
アリスタータは訴えるような瞳でフレアを見つめた。目の前の光景に怯えながらも、それでも友だちを救いたいという強い意思が宿っている。
その瞳をじっと見つめたまま、フレアは押し黙った。しばらく考えを巡らせて、やがて諦めたように小さく息をついた。
「あなたの名前は?」
「デボン皇国の皇女、アリスタータです」
力強い口調で答えるアリスタータにフレアは一つ頷き、
「私はフレアよ。それじゃアリスタータ、一緒に行きましょう」
「うんっ!」
フレアは立ち上がると、晶石を持つ手でアリスタータの手を握った。
「二人はソニアをお願い」
改めてカリスとレギアにソニアのことを頼むと、再びアネモネへと向きを変えた。気がつけば、黒い火は僅か数メートルまで迫っている。
アリスタータの小さな手を握ったまま、フレアは静かに目を閉じた。
「お願い母さん。少しだけ、力を貸して」
フレアは誰にも聞こえないような小さな声で呟くと、閉じていた目を見開いた。
次の瞬間、二人の手に握られた晶石から力強い光が放たれた。それと同時に、フレアの長い黒髪が、根本からその先端へと白く塗り替えられた。
「髪が白く……まさか……」
「白い髪の女……まるで聖女じゃないか……」
美しい長い黒髪を白く染めたフレアの後ろ姿に、カリスとレギアは声を漏らした。
「行きましょう、アネモネのもとへ」
フレアの言葉にアリスタータが力強く頷く。
二人は歩調を合わせるように、ゆっくりと前へ進み出る。
やがて二人の姿は、深くて暗いアネモネの哀しみの中へと飲み込まれていった。