第11話 四本の剣
騒然とする宮廷内で、ゼフィランサスは一室に身を潜めて乱れた呼吸を整えていた。扉の向こう側からは、臣下たちの声が微かに聞こえてくる。その会話の中に自身の名が含まれていることから、誰もが自分を探しているのが分かった。
客室のようなその部屋で、ゼフィランサスは皇王の返り血で染まった白い鎧を脱ぎ捨てた。ようやく呼吸は落ち着きを取り戻しつつあるが、胸の内では動機が治まる気配はない。
目の前での皇王の死。しかも突然、鋭い刃物で喉を裂かれたような傷口。考えれば考えるほど皇王の不可解な死に、ゼフィランサスの頭は混乱するだけだった。
「いつまでも、ここに身を潜めておくわけにもいかないか」
独り言のように呟くと、僅かに扉を開けて部屋の外の様子を覗き見る。臣下たちの姿がないのを確認すると、音を立てずに素早く部屋を出た。そのまま、やや身を屈めるような姿勢で、人の気配がない方へ駆け出した。
特に行くあてを決めずに、ただ人の気配を避けて進んでいくと、広大な部屋に辿り着いた。人が千人は入るであろうその部屋は、部屋の入口から玉座まで真っ直ぐに赤い絨毯が敷かれた皇王の間だった。絨毯の左右には、天井を支えるかのように幾本もの大理石で作られた柱がある。
身の隠しようがない皇王の間に入ったことを後悔したが、不用意に引き返すわけにもいかない。内心で舌打ちをし、ゼフィランサスはひとまず柱の陰に身を隠した。
その直後、皇王の間が開く音が聞こえてきた。そして、一人分の足音が皇王の間に響き渡る。数回響かせた足音がやむと、今度は足音の主の声が響いた。
「いるんだろう、ゼフィ」
聞き慣れた友人の声に、ゼフィランサスは僅かに肩を震わせた。小さく溜息をつくと、柱の陰からその身を晒した。
「ハイド……」
ゼフィランサスは、やや沈んだ声で友人の名を呼んだ。
「説明してもらおうか」
普段よりも少し低い声で、ハイドは静かに問いかけた。その顔には、哀しみと憤りが混在したような複雑な表情が浮かんでいる。
「…………」
ハイドの言葉に、ゼフィランサスは口を閉ざした。皇王を殺害したのはゼフィランサスではない。それは当の本人がよく分かっていることだ。
だがあの状況は、第三者から見れば誰もが真っ先にゼフィランサスに疑いの目を向けるだろう。あの部屋にいたのは、皇王と皇妃、そしてゼフィランサスの三人のみ。そのゼフィランサスが身に付けていた白い鎧は、皇王の喉から吹き出た鮮血を浴びている。
あの不可解な出来事を説明するのは困難を極めた。ありのまま話をしても、誰もゼフィランサスの言葉を信用しないだろう。それに、皇王に対して殺意を持っているのは事実。いつか訪れるであろうその日が、突然来ただけだ。心の内で、ゼフィランサスはそう考えていた。
「沈黙もまた答え、か……?」
先程よりもさらにハイドの声が低くなる。
「皇王様を快く思わない者は、決して少なくないさ。俺だってその一人だ。だがな、それで人殺しが正当化されるわけじゃあない」
ハイドは腰に下げた鞘から、ゆっくりと剣を抜いた。刀身と鞘が擦れる音は、どこか冷たさが含まれていた。
「せめてもの情けだ。大人しく拘束されるか、俺と剣を交えるか……お前に選ばせてやる」
ハイドに突きつけられた選択に、ゼフィランサスはきつく目を閉じた。その永遠とも一瞬とも思える時間でゼフィランサスは考え、一つの答えに辿り着いた。
皇王殺害は目的の一つであり通過点でもある。ゼフィランサスの辿り着く先はゴトランドの復興。そのためには、ここで大人しく捕まるわけにはいかなかった。もはや後には引けない。前へ進む他はない。その思いが、ゼフィランサスに剣を抜かせた。
「それがお前の答えか……」
剣を抜いて構えるゼフィランサスを見て、ハイドの瞳は一瞬だが哀しみに揺らいだ。だがすぐにそれは消え、逆賊を見据える鋭い眼に変わった。
「いくぞっ!」
ハイドの声と同時に、二人は床を蹴った。二人の振るう剣と剣が激しくぶつかり合う。皇王の間には、二人の運命を狂わせた皇王の死という事件を嘆くような、甲高い剣撃音が響き渡った。
光射す庭園で、アネモネとアリスタータはその小さな身をさらに小さくして震えていた。二人の目の前には、大きく立ちはだかるドゥーベの姿がある。太陽を背に立つドゥーベから生まれた影が、二人の少女に覆い被さった。
「どうして……お母様を……」
アリスタータは震える声で、先程の光景を口にした。
顔色一つ変えずに、ドゥーベは冷ややかな瞳で皇女を見下ろしていた。
「この国のためですよ、アリスタータ様」
ドゥーベの声は、その瞳と同じように冷淡そのものだった。
「あなたの両親は、国政や国民に対してあまりにも無関心で、王の責務をまったく果たそうとはしなかったのです。ただ王家の血を引いていると言うだけの無能者。王の座に、あぐらをかくどころか雑魚寝をしているような者です。そのような者に付き従うことに、愛想が尽きたのですよ」
まだ十歳のアリスタータには、ドゥーベの抱える思いすべてを推し量ることはできなかった。だが、ドゥーベの表情と温度のない声から、父と母のことを快く思っていないことだけは理解できた。ドゥーベの威圧感に何も言えないアリスタータは、ただ震えることしかできなかった。
怯えた二人の少女に、ドゥーベは皇妃を斬ったばかりの剣を抜いた。
「アリスタータ様、申し訳ありませんが私が皇妃を殺めたところを見た以上、生かしておくわけにはいきません。どうかお許しを」
そう言い放つドゥーベの声には、どこにも謝罪の響きはなかった。顔色一つ変えることなく、手にした剣を振りかざす。
「ご安心を、すぐご両親に会えますよ」
ドゥーベは無慈悲にその剣を振り下ろした。幼い少女たちはドゥーベの斬撃によって無残にも切り捨てられる、はずだった。しかしドゥーベの剣は空を斬り、その切っ先は地面に突き刺さった。
「なに……?」
「アネモネ、大丈夫?」
その声にドゥーベが振り向くと、数メートル離れた場所で両脇に二人の少女を抱えるフレアの姿があった。
ドゥーベの剣に斬られたとばかり思っていたアネモネは、何が起こったのか理解できないといった表情を浮かべている。
「どこにもケガはなさそうね、よかったわ」
そう言うと、フレアは両脇に抱えた少女を解放して、その場に立たせた。ゆっくりと立ち上がり、フレアは静かにドゥーベへと振り返る。
「あなた、ここの騎士のようだけど……子供に剣を振るなんてどういうつもり?」
「見かけない顔だな……どこの国の者だ?」
見知らぬ女に邪魔をされたことで、ドゥーベはやや不快そうに口元を歪めた。
「さぁてね、どこだったかしら。それよりも、私の質問に答えてくれないのかしら?」
「よそ者に関係のないこと……と言いたいところだが、見られた以上はお前も生かしておくわけにはいかんな」
ドゥーベは地面に突き刺さった剣を引き抜くと、その剣先をフレアへ向けた。有無を言わせないドゥーベに、フレアもまた腰に下げた短剣を抜いた。
「ずいぶんと身勝手な男ね。悪いけど、大人しく斬られるほど私はお人好しじゃないわよ」
フレアは剣を持たない左手を、背後の少女たちを庇うように広げた。
「二人とも、早くここを離れて」
二人の少女に背を向けたままフレアは言った。状況が飲み込めないままの二人だったが、フレアの言葉に頷くと二人は手を取り合って走り出した。
「あなたが何者かも、今がどういう状況なのかもよく分からないけど……一つだけはっきりと分かることがあるわ」
「ほう……何だ?」
「私はあなたが気に入らないってことよ」
言葉と同時にフレアが地面を蹴り、ドゥーベに迫った。
これから本格的な春の陽気を迎えようとする時期に、聖都マルムの中心地にある宮廷では、四本の剣が火花を散らして交わった。