第10話 そして命運は動き出す(後編)
「ゼフィランサス、お前……」
ドゥーベは首から血を流して絶命している皇王と、その返り血を浴びているゼフィランサスを交互に見た。誰が見ても、ゼフィランサスが皇王を殺害したと思わざるを得ない状況だ。
「ち、違う……俺では……」
ゼフィランサスは震える声で否定しようとした。だが、自身でも説明のできない出来事に言葉を詰まらせ、その声は動揺を隠しきれなかった。
サーラバリア地方へ出立したばかりのドゥーベが、なぜここにいるのか。そのことに疑問を抱くも、今のゼフィランサスには些細なことだった。
二の句が継げられないゼフィランサスは、混乱したままドゥーベを押しのけて皇王の私室から飛び出した。目的も定めずに走り出した。ただ、皇王の部屋から一歩でも遠のくために。
宮廷の広い廊下を走っていると、廊下の角でハイドと危うくぶつかりそうになった。とっさに身体を捻り衝突は免れる。よろめきながらも足を止めずに、ゼフィランサスは再び加速した。
「ゼフィ……?」
様子がおかしいことに違和感を覚えたハイドは、ゼフィランサスが走ってきた方へ目を向けた。その先にあるのは、皇王の部屋だった。そしてゼフィランサスが通った跡には、僅かな血痕があった。
部屋を飛び出したゼフィランサスを追うわけでもなく、ドゥーベは無表情でその背中を見送った。
「な、何をしているのですドゥーベ。早くゼフィランサスを追いなさいっ!」
金切り声で皇妃が叫んだ。
「その必要はありません、皇妃様」
「な……ど、どういう意味です?」
ドゥーベの意外な返答に、皇妃は驚きを隠せなかった。皇王殺害の容疑者と言えるゼフィランサスを、ドゥーベは意にも介さないという風に見逃そうとしている。皇妃にはドゥーベの考えが理解できないでいた。
ドゥーベは静かに皇妃のもとへ歩み寄り、
「ご安心を。すぐに皇王様のもとへお連れします」
「な、何を言っ……!」
ドゥーベは腰に下げた鞘から、柄に深緑色の石が埋め込まれた剣を抜いた。無言のまま剣を振り上げると、その剣先を皇妃の胸に突き立てた。
ドゥーベの剣は布団ごと皇妃の左胸を貫き、その剣先は皇妃の背中から僅かに突き出ていた。布団ごしのためドゥーベは、ゼフィランサスのように返り血を浴びることはなかった。布団は皇妃の血を吸い、徐々に赤く染まっていく。
皇王と同じく何度か全身を振るわせると、やがてそれも止まり、起こした身体は再びベッドへと沈んだ。皇妃の身体が動かなくなったのを確認すると、ドゥーベは突き立てた剣を静かに引き抜いた。
「これもデボン皇国のためです、皇妃様」
剣についた血糊を拭き取ると、ドゥーベは剣を鞘に収めた。
その直後、開け放たれたままの扉の奥から足音が聞こえてきた。ドゥーベが扉の方へ振り返ると、扉の奥からハイドが姿を現した。
「ドゥーベ様? サーラバリアへ向かわれたのでは……こ、これはっ!?」
出立したばかりのドゥーベに驚くも、眼前の光景にそれはすぐにかき消された。皇王と皇妃が寝所で血を流して倒れている。出血の量から、おそらくすでに息はないだろう。そう察したハイドは、恐る恐る皇王の私室へ足を踏み入れた。
「ドゥーベ様、これは一体……」
「あぁ、ゼフィランサスが謀反を起こした」
「ゼフィが!?」
ドゥーベの言葉にハイドは驚愕した。しかし、先程すれ違ったゼフィランサスの様子がおかしかったこと、廊下にあった血痕、そして目の前の光景が、ドゥーベの言葉の信憑性を濃くさせた。
「ハイド……王族殺しは極刑に値する。このことを宮廷にいるすべての兵に伝え、ゼフィランサスを討て」
「…………」
大きく目を見開いたハイドは、呆然と立ち尽くしている。
「ハイド!」
「は……はいっ」
ドゥーベの声に反射的に答えると、ハイドは慌てた様子で皇王の部屋を駆け出した。ドゥーベの言葉を信用したくないが、自身の目で見た光景がそれを否定した。
「くそっ……わけが分からねぇ!」
とにかく、ゼフィランサスを見つけなければ。その思いだけが、今のハイドを突き動かしていた。
ハイドが部屋を飛び出したあと、ドゥーベは僅かに口角を上げた。
「ゼフィランサス……悪いがお前の復讐は、あの世で果たすといい」
ドゥーベは自身の思惑通りに事が進んでいることに、満足げな微笑を浮かべた。
邪魔な愚王殺害の罪をゼフィランサスに着せる。まだ幼い皇女アリスタータが玉座に座るにはまだ早すぎる。皇王に次ぐ位置にいる四聖三賢、その中でも最上位にあたるドゥーベが摂政という形で国を治める。その数年後に、皇女には不慮の死を迎えてもらい、摂政から皇王になる。それがドゥーベが思い描いている計画だった。
ドゥーベは動かなくなった皇王と皇妃に目を向けた。そのとき、視界の隅で何かが動くのを捉えた。ドゥーベが視線を向けると、庭園に面した大きな窓ガラスの向こう側で、アネモネとアリスタータががこちらを覗き込むのが見えた。
ドゥーベはゆっくりと窓へ近づいた。アリスタータは目の前の出来事に身体を震わせ、動けなくなっていた。アネモネも同じだったが、近づいてくるドゥーベに対して本能的に危険を察した。アネモネは立ちすくんでいるアリスタータの手を握ると、その手を引いて走り出した。
「どうやら、見られたか?」
ドゥーベは窓ガラスを開け放つと、そこから庭園へと飛び出した。二人が逃げた方へっめを向けると、その姿はどこにもなかった。
「どこかに身を潜めたか……悪いが見られた以上は子供とて見逃すわけにはいかん」
皇王暗殺の話は瞬く間に宮廷中に伝わり、それはやがて聖都マルムへ広がった。人々はその話にざわめき、街は騒然となっていた。
「皇王暗殺?」
「そのようだな」
先日と同じ場所にいるフレアとセージは、街の人々の言葉を耳にした。
「奇石が絡んでいると思う?」
目を包帯で覆われたセージは、見えるはずのない宮廷へ顔を向けた。
「それは分からん。だが、先程聖都を離れた奇石の一つが宮廷へ戻っているようだ」
「戻ってきたところで皇王暗殺、ね……」
そうこぼしたところで、フレアは考え込むように腕を組んで見せた。先日、宮廷内の庭園で出会った、黒髪で褐色の肌の少女アネモネのことを思い出していた。皇王暗殺に奇石が関わっているのなら、あの少女も何らかの関わりがあるかも知れない。
フレアは組んでいた腕を解き、
「ちょっと様子を見てくるわ」
セージにそう言い残すと、フレアは先日と同じように軽々と宮廷を囲む壁を飛び越えると、宮廷の中へと姿を消した。