第1話 レーティア村の惨劇
ファネロ歴一二五六年。かつて、聖女と呼ばれた女性フリージアがこの世を去ってから、五十五年の月日が流れた。
様々な奇跡を起こしては人々を助けたフリージアの死後、その身体からは幾つもの奇石と呼ばれる石が発見された。奇石は持つ者に特異な力を与え、それはまさにフリージアが持っていた力だった。奇石の存在は瞬く間に知れ渡り、当時は奇石を巡っての抗争が頻繁に起きていた。
今では抗争も落ち着きを見せつつあったが、完全になくなることはなかった。さらに、その抗争に紛れるかのように、広大なデボン皇国では各地で小さな村が野盗たちに襲われるという事件が増えていた。
かつては強大な国力で近隣諸国を圧倒してきたデボン皇国。しかし、広大すぎる領土があだとなり、辺境にあるような小さな村まで保全を確約することは、ほぼ不可能に近い状態に陥っていた。諸外国との抗争を控えて国内の平定に注力し、少しずつだがその成果が表れるようになった。
デボン皇国の領土内にあって、聖都マルムの北西に位置するノーリ地方にある小さな村レーティアは、十数名からなる野盗たちの手によって文字通り火の海と化していた。十一月の乾燥した風に煽られて、レーティア村を焼く炎は衰えることなく燃え続けた。
野盗たちは、家々を襲っては食料や金品を強奪し、立ちふさがる村人は容赦なく剣で斬り捨てた。百人にも満たないその小さな村は、村を焼く炎の轟音と、人々の逃げ惑う絶叫と野盗たちの怒号に支配された。
その中を一組の親子が、息を切らしながら村の中を駆け抜けていく。
後ろでまとめられた黒髪が、褐色の肌を持つ少女の走りに合わせて小さく揺れていた。
少女の右手には母親の手が、左手には父親の手がそれぞれ握られている。少女は両親にやや引きずられるような形で、必死に走り続けていた。
「くそっ、野盗たちめ……こんな辺境にある村まで襲いやがって!」
青年のような若さを感じさせる父親が、恨みと憎しみを込めて吐き捨てる。
母親と少女は、その声に応える余裕もなく、苦しそうに息を吐きながら走ることしかできない。
「村を出たら、南東に向かおう。少しでも聖都マルムに近づけば、野盗たちも追いかけてくるのは難しいはずだ」
父親は妻と子を励ましつつ、今後の進路を告げた。
駆け抜ける道には、同様に家を焼く炎と野盗から逃れようとする村人たちの姿で溢れていた。三人の親子も、その後に続くように走り続ける。
しかし突然、父親は力が抜けたように走る速度が落ちた。そのまま崩れ落ちるように前のめりに倒れた。
左手に父の手が握られたままの少女は、引っ張られるようにしてその走りを遮られる。
「あなたっ!」
夫の異変に気づいた妻が振り返ると、倒れた夫の背中に二本の矢が突き刺さっているのが見えた。
妻が夫のもとに駆け寄ろうとしたとき、今度は妻の左胸と腹部に矢が突き刺さる。ゆっくりと身体が後ろへ傾き、少女の母は仰向けになって倒れた。何度か痙攣するように全身が震えた後、ぴくりとも動かなくなった。
「……っ!」
両親の身体に矢が突き立てられる様を、目の前で見た少女は絶句した。
「ア……アネモネ……早く、逃げるんだ……」
痛みに苦しみながらも顔を上げ、父親は娘に逃げるよう言った。
背中から突き刺さった矢の先端が胃に到達していたのか、その口からは赤い血が吐き出される。
呻きに似た声しか出せずに、アネモネは倒れた父親のそばに座り込んだ。少女の大きな瞳から涙が溢れ出す。
アネモネは父の手を両手で握りしめ、しきりに首を横に振った。
「お、お前は……生きるんだ。ここではない、どこかで……幸せに、くら……」
父親の言葉は最後まで声にならずに、その口は動きを止めた。必死に上げていた顔は、まるで糸が切れたかのように地面に突っ伏す。
アネモネがゆっくりと顔を上げると、そこには父の背中に剣を突き立てる野盗の姿があった。
「くくっ、俺たちの姿を見て生かすわけがないだろう」
無造作に伸びた髭を揺らしながら、野盗は醜い笑みを浮かべた。
絶命した父のそばで座り込んでいる少女に目を向けると、野盗はさらに口元をにやりと歪ませる。
「おいガキ。良さそうな物を持ってるじゃねぇか」
野盗は、漆黒色に輝く石が付けられた少女の首飾りに目を付けた。美しく磨き上げられたかの様なその表面は、夜の闇よりも暗い色で染まっている。見たことも聞いたこともないような黒い石は、野盗の興味を惹きつけるには十分だった。
アネモネは言葉を失ったまま、恐怖に身体を小さく震わせる。
野盗が少女の胸元にぶら下がる漆黒色の石に、ゆっくりと右手を差し伸ばした次の瞬間。漆黒色の石を掴むはずだった野盗の右腕は、身体から離れて宙を舞っていた。野盗の右腕は、回転しながら数メートル離れた場所へ鈍い音を立てて落ちた。
右肘から先にある腕を失った断面からは、赤い鮮血が勢いよく吹き出した。鮮血は、その目の前にある少女の顔を赤く染めた。
「ぐあぁぁあっ!!」
右腕を失った野盗は、痛みに耐えきれず地面の上をのたうち回る。
何が起きたのか分からずアネモネは呆然とした。気がつけば、少女の隣には白い鎧に身を包んだ若い騎士の姿があった。
精悍な顔立ちの中にも青年らしさが見える若い騎士は、苦しみもがく野盗に無言のまま剣を振り下ろす。若い騎士の一撃を受けた野盗は、それ以降動くことも声を発することもなくなった。
付いた血糊を振り払うかのように剣を振ると、ゆっくりとした動作で剣を鞘に収める。
「野盗たちは生かして返すな!」
若い騎士の号令に、後方からデボン皇国の旗を掲げた兵士たちが、一斉に村へ駆け込んできた。兵士たちは声を上げながら、若い騎士とアネモネの横を駆け抜けていく。
白い鎧の騎士は片膝をついてしゃがみ込むと、アネモネの頭を優しく撫でた。
「遅くなってすまない。もう大丈夫だ」
騎士はできる限り優しく声をかけた。
涙を流したままのアネモネは、身動き一つも取れずにその手を受け入れた。
少女のそばで倒れている二人の男女を見て、若い騎士が訪ねる。
「君のご両親かな?」
騎士の質問に、少女は小さく頷いて答える。
「そうか……」
少女の頷きに、若い騎士は静かに目を伏せた。
おそらく、目の前で両親を殺されたのだろう。まだ十歳にも満たないような少女には酷な体験だ。若い騎士の内に、胸が張り裂けそうな思いがこみ上げる。
騎士は少女の境遇に、かつての自分自身を重ねた。このレーティア村のように、住んでいた場所を奪われ、命からがら逃げ出したあの時のことを。唯一の違いは、襲ってきた相手が野盗ではなかったことくらいだ。
「俺はゼフィランサス。デボン皇国の騎士長だ。君の名は?」
騎士は優しく少女の名を訊ねた。少女は質問に答えようとするが、言葉が声にならず、ただ虚しく口を開閉させるだけだった。
「まさか……声が?」
まだ八歳という年齢で、突然目の前で両親を殺されたショックからか、少女は声を出すことができなくなっていた。
「ところで、行く当てはあるかな? どこかの街や村に、君の親族や頼れる人は?」
声を失ったアネモネは、首を横に振って答えて見せた。
「そうか……」
少女の答えに、ゼフィランサスはしばし考え込むように顔を俯かせたのち、
「行く当てがないのなら、俺のところへ来るか?」
少女の境遇に、かつての自分を見たゼフィランサスには、このままアネモネを放っておくことはできなかった。当時の自分は十三歳で、その時は一人ではなかった。しかし、目の前の少女はかつての自分よりも幼く、身寄りがない。その上、言葉を話すこともできない。
少女と似た経験を持つゼフィランサスは、少女を引き取る覚悟をした。そこには、少女の両親を守れなかった自責の念もあった。
幼い頃に両親と家と住んでいた場所を失った自分なら、彼女の痛みも分かってやれるのでは。そう考えた末での結論だった。
ゼフィランサスの提案に、アネモネは小さな手でゼフィランサスの手を握りしめた。
アネモネの応えにゼフィランサスは穏やかに微笑んでみせると、ゆっくりと立ち上がった。そして、握られた少女の手を静かに握り返す。
「おいゼフィ、そろそろ片付きそうだぞ」
不意に声をかけられたゼフィランサスは、声がした方へ振り返った。
そこには、ゼフィランサスと同年代の若い騎士が、剣を鞘に収める姿があった。
「ハイドか」
ゼフィランサスは近づいてくる若い騎士の名を口にした。
「分かった。では、兵たちには残党がいないか周辺を調べさせつつ、村人たちの受け入れ先を探させよう」
ゼフィランサスの言葉に頷いてみせると、ハイドは隣にいる少女に目を向けた。
「ん、その子は?」
「目の前で両親を野盗に殺されてな……声も失っているみたいだ」
自身の左手を握りしめる少女に目を向けて、ゼフィランサスは続けた。
「他に行く当てがなさそうだから、この娘は俺が引き取ろうと思う」
「そうだったか……」
少女の身に起きたことを聞かされたハイドは、悲しげな表情を浮かべた。しかし、すぐに表情を引き締めると、
「じゃあオレは、兵たちと村の周辺を見に行く」
そう言い残すと、ハイドは短い髪を揺らしながらゼフィランスのもとを離れた。
親友の背中を見送ると、ゼフィランサスは少女に声をかけた。
「俺の家は聖都マルムにある。狭くて汚いところかもしれないが……君の身の安全は保証する」
若い騎士の顔を見上げたアネモネは、小さく頷いた。
いつの間にか、周囲からは野盗たちの怒号も村人たちの悲鳴も消えていた。
家を焼く炎はまだ燃え盛っていたが、デボン皇国北西に位置する小さな村を襲った悲劇は、ようやく終演を迎えようとしていた。
こうして、のちにデボン皇国の存亡に関わることになる若い騎士と幼い少女の出会いは、デボンの辺境にある小さな村で果たされることになった。