第一話 朝は静かなはずだった
朝は、静かなはずだった。
少なくとも、レンはそういうつもりで起きた。
リーベルの町外れ、東畑の家。古い一軒家と、広すぎない畑と、少し傾いた薪棚があるだけの場所だ。
レンはそこで暮らしている。
元冒険者。現在は畑仕事。
朝食は黒パンと薄いスープ。鶏に餌をやり、井戸の水を汲み、畑に出る。今日やることは決まっている。昨日のうちに畝を整えたので、今日は倒れた豆の支柱を立て直して蔓を結ぶ。それから雑草を抜く。昼前に薪を少し割る。午後は町へ行かない。誰とも会わない。何も起きない。
完璧な予定だった。
レンは鍬を持ち、畑の土に刃を入れた。
その瞬間、頭の奥で警鐘が鳴った。
音ではない。実際に耳から聞こえているわけではない。鳥の声も聞こえる。風で麦が擦れる音も聞こえる。遠くで荷車の車輪がきしむ音も聞こえている。
だが、それとは別に、頭蓋の内側を細い針で引っかくような感覚があった。
高く、細く、しつこい。
「……微のくせに、うるさいんだよ」
レンは鍬を握ったまま、顔をしかめた。
分かった。分かったから鳴るな。
レンは鍬を地面に突き立て、周囲を見た。
畑の向こうに、町へ続く道がある。昨日の雨で、道の端は少しぬかるんでいた。そこを一台の荷車が進んでいる。
荷車を引く馬は、落ち着きがない。耳が後ろへ伏せられている。首の振り方も妙に固い。馬具の革紐が一本、緩んでいるように見えた。
荷台には木箱が積まれていた。積み方が少し高い。しかも右側に重心が寄っている。
御者は若い。おそらく慣れていない。轍の跡を読めていない。
道の左側には、荷物を抱えた若い男が立っていた。荷車の通り過ぎるのを待ちながら、空き家の壁に背を預けている。
そして道の右手には、子供が一人いた。落とした布切れを拾おうとして、ぬかるみの端にしゃがんでいる。
荷車の車輪が、ぬかるみに入った。馬が首を振る。木箱が揺れる。
レンは全部を見て、答えを出した。二秒で出た。嫌な答えが。
荷車が傾く。子供が気づかない。男が荷台を支えようと手を伸ばして、木箱の下敷きになる。そういう順番になる。
分かった。
分かった上で、レンは鍬を握り直した。
動かなくてもいい理由ならある。
子供は転ぶかもしれない。男は腕を挟むかもしれない。御者は怒鳴られるかもしれない。
だが、死ぬとは限らない。
誰かが駆けつけるかもしれない。馬が自分で落ち着くかもしれない。荷も、運がよければ片側に落ちるだけで済むかもしれない。
そういう可能性は、ある。
サイレンが、少し強くなった。
レンは目を閉じた。一秒だけ。
なんとかなる、と思いたい場合に限って、たいていなんとかもならない。それくらいは知っている。長く生きていれば分かることだ。
畑の端に置いてあった古い棒が、目に入った。
「……今回だけだ」
レンは棒を掴み、道へ向かった。
走るほどではない。走ると目立つ。目立つと面倒になる。だから、早足で行く。
その間にも、状況は悪くなっていた。馬が大きく足を取られる。荷車の右車輪がぬかるみに沈む。重心の偏った荷台が傾く。
御者が慌てて手綱を引いた。
最悪だった。慌てた人間は、だいたい余計なことをする。
「手綱を引くな!」
御者がこちらを見る。左側の男が、反射的に荷台を支えようと壁を離れた。その位置は悪い。木箱が崩れたら腕を挟まれる。
レンは棒の先で、道端の空き樽を叩いた。乾いた音が響く。馬が一瞬、耳をそちらへ向けた。
「左に寄せろ。馬を叩くな、声だけでいい!」
御者は戸惑ったが、従った。
「そこの子供、布は捨てろ。右じゃない、左に走れ」
子供が固まった。まあ、そうなる。子供は大人に突然怒鳴られると、だいたい固まる。
レンはもう一度、低く言った。
「左だ。足元を見るな。逃げる先を見ろ」
子供の目が、一瞬だけレンを見た。それから動いた。ぎこちない。だが、動いた。
男が子供の動きに気づく。伸ばしかけた手を引っ込め、子供の方へ走った。本人が後で首を傾げていた。なんで手を引いたんだろう、と。なんか、そっちじゃないって思って、と。
直後、荷台の木箱が崩れた。鈍い音を立てて、箱が道に落ちる。一つが割れ、中身が泥に散らばる。荷車は完全には倒れなかった。レンが棒を車輪止めのように差し込み、御者がようやく馬を落ち着かせたからだ。
サイレンが止まった。頭の中が急に静かになる。それが、腹立たしいくらい分かりやすかった。
「……だから嫌なんだよ」
レンは棒を引き抜いた。
御者が青い顔でこちらへ頭を下げる。
「ありがとうございます。助かりました」
「助かってない。箱は落ちた」
「いや、でも、人が」
「積み方が悪い。右に寄せすぎだ。馬具も緩い」
言ってから、レンは失敗したと思った。助言をした。しかも具体的に。こういうことをすると、人は覚える。
子供がぐすぐす泣きながら、レンを見上げた。
「ありがとう、ございました」
「布は諦めろ。あと、道の端でしゃがむな」
「……はい」
レンはそれ以上何も言わず、畑へ戻った。背中に、何人分かの視線が刺さる。
やめろ。見るな。覚えるな。
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畑に戻ると、静かだった。
鍬を拾い、土に刃を入れる。倒れた支柱を立て直す。蔓を結ぶ。それだけの作業だ。
レンの加護は、幸運だった。
正確には、教会の記録ではそうなっている。加護名、幸運。効果階級、微。
幸運。ただし、微。
初めてその記録を見た時、レンはしばらく紙を見つめた。剣が強くなるわけでもない。魔法が使えるわけでもない。身体が頑丈になるわけでもない。ただ、少しだけ運がいいかもしれない。そういう加護だと言われた。
それから冒険者になり、何度か死にかけ、何度か生き残り、最後には大きな宝箱を拾った。その報酬で引退できた。
以来、町ではこう呼ばれている。宝箱男。運よく宝箱を拾って、運よく引退した男。
レンはその呼ばれ方を、特に訂正していない。実力者だと思われるより、運のいい引退者だと思われる方がずっと楽だからだ。人は強い者には期待する。運がいいだけの男には、せいぜい酒の肴くらいの興味しか持たない。
それでよかった。
なのに。
道の向こうでは、御者がまだ頭を下げている。男は自分の手を見ている。子供は泥まみれで、時々こちらを振り返っている。
レンは深く息を吐いて、蔓を結ぶ手を動かした。
微のくせに、人の予定を狂わせる精度だけは一人前だった。




