タイトル未定2026/01/30 14:05
青の目、あるいは始まり
わたしは、何もできなかった。
泣くことすら忘れていた。いや、もしかしたら、生まれたときから、泣くための筋肉すら持ち合わせていなかったのかもしれない。体は動かず、声も上げられず、ただ、まばたきと目の動きだけが、わたしが「ここにいる」と訴える唯一の術だった。
医師たちは「全身麻痺」と呼んだ。脳の異常か、出生時の事故か、原因は定かでない。母は一目わたしを見て、顔をしかめたという。父のことは知らない。ただ、「こういう子は育てられない」とだけ言い残して、わたしを病院に置いて消えた。
次に目を覚ましたとき、そこは病院ではなかった。薄暗い木造の建物、畳の擦り切れたにおいと、香のような甘い煙の中。私は“場所”を移された。
「この子は神の贈り物だよ。見てごらん、この目。青いなんて、まるで西洋の人形みたい」
女の声がした。誰かが私の頬を撫でた。その指先は細くて冷たく、しかしどこか哀しみのにじんだ手だった。
わたしはそのとき、まだ「売春宿」という言葉の意味も知らなかった。ただ、そこではたくさんの女と、時折現れる異様に大きな声の男たちがいた。そして、わたしは“見せ物”としての命を得た。
「喋れない」「動かない」「でも、笑っているように見える」
わたしの青い目が、幻想のように彼らを慰めたのだと、あとで知った。
女たちは優しかった。中には自分の子を失ったばかりの者もいて、私を抱きしめ、歌を歌った。彼女たちは皆、どこか壊れていて、そして、壊れながらも他人の壊れた部分に優しくなれるような人々だった。
それが、ほんのわずかな幸福だったのだ。
戦後の夜にて
戦争が終わった。
だが、それはこの国のどこか遠くの空で鳴り響いた合図でしかなかった。わたしたちの暮らす場所には、平和の鐘など鳴らなかった。むしろ、終戦という名の「自由」は、人の欲望を解き放つ合図にすぎなかったのだ。
街は焦土になり、家も家族もなくした男たちが、流れ者としてこの宿にやってきた。軍服を脱ぎ捨て、飢えた目で女たちを値踏みし、怒りと孤独をぶつけるように金を投げた。
「女が足りねぇんだよ!」
誰かが怒鳴る。
そして、誰かが私を指差した。
「そいつはなんだ?」
「売り物じゃないよ、ただの――」
「目が青いな。人形みたいだ」
わたしの名は、そのときから「青い人形」となった。
わたしには、拒む力がなかった。逃げる足も、叫ぶ声も。だから、男たちは笑いながら私の身体を使い、そして、使い終わると目を背けた。
「気味が悪い」
「人形みたいに動かねぇから、興が冷めた」
それでも、私は瞬きを繰り返しながら、天井の染みを見つめていた。指の感触、熱、唾、血。それらはすべて記憶となって私の中に沈殿し、沈み続けた。
女たちは泣いた。彼女たちも止められなかった。むしろ、彼女たち自身が、同じように、何度も蹂躙されていたのだ。誰も彼もが生き延びるために、心を殺し、身体を差し出していた。
ある夜、一人の兵士が言った。
「お前の目は、あまりにも綺麗で、見ていると気が狂いそうになる」
それが、わたしが最後に覚えている言葉だった。
廃棄
翌朝、わたしは宿の裏手に捨てられていた。
誰かがふとんにくるんで、裏庭のごみ置き場にそっと置いた。朝露が肌を濡らし、頭の奥に痛みが広がった。けれど、もう泣くこともなかった。涙腺という機能が、この体にあるのかどうかすら、知らなかった。
私の体は痩せ細り、男たちの粗暴な欲望に壊され、声を上げぬまま、ただ“使えないもの”になっていた。
売春宿の者たちは、何も言わなかった。誰も迎えに来なかった。私は、捨てられた。
人々が捨てるもの。それは、役に立たなくなった道具、あるいは、見たくない過去。私はその両方だった。
それでも、私はまだ、青い目で世界を見つめていた。
空が、青かった。私の目と同じ色だった。
再生
気がつくと、わたしはどこか別の場所にいた。
天井は真っ白で、光がまぶしかった。清潔な匂い、電子音、そして誰かの足音。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
泣き声がした。それは私の声だった。
――泣いている。
わたしは泣いていた。動いていた。指が、足が、声帯が機能していた。ああ、そうか。生まれ変わったのだ。わたしは“転生”したのだ。
それはまるで神の悪戯のような出来事だった。
今度こそ、ふつうの人生を送れるのだろうか。あの地獄のような人生は、もう終わったのだろうか。そう思った。
だが、世界は変わっていなかった。
時代は現代に進んでいたが、人々の顔に刻まれた疲労と欲望は、あの売春宿の男たちと同じだった。格差、暴力、無関心、そして透明な差別。テクノロジーは進化していたが、人の心は何も成長していなかった。
今度の身体は健常で、男として生まれ、歩き、話し、学ぶこともできた。けれど、わたしの中にはあの「青い人形」の記憶がずっと残っていた。誰にも言えない。理解されない。ただ、夜になるとまぶたの裏にあの薄暗い畳と、押し殺した声と、血のにおいがよみがえる。
家族は貧しかった。学校では「空気を読みすぎて気持ち悪い」と言われた。大人たちはわたしの“優しさ”を「気味が悪い」と笑った。
身体が動けば、心が通うわけではない。口がきけても、言葉が伝わるとは限らない。
転生してもなお、わたしは「異物」だった。
生きるとは、選べない配役を演じ続けることなのだ。どの舞台に立たされても、誰かの目には「ただの人形」としてしか映らない。
ある日、誰にも言えずに書き溜めた物語を、匿名で投稿した。青い目をした動けない少年が、声もなく世界を見つめ、最後には捨てられる話。
誰かがコメントした。
「美談ぶってるけど、ただの性搾取ファンタジーだよね。気持ち悪い」
わたしは静かに画面を閉じた。
やはり、わたしは生まれ変わっても、“世界の外”にいるのだ。
第五章:そして、人形は微笑む
人生は不思議なほど、ただ「続いていく」。
あの夜、匿名の投稿に浴びせられた嘲笑。何の価値もないような日々。冷たい春風、つめたい眼差し。わたしはただ、それでも毎朝目を覚まし、飯を食べ、何かをして、眠った。
夢を見た。動けないわたし。青い目のまま、ただ見つめ続けるわたし。誰にも気づかれず、誰にも望まれず、ただ在るだけの存在。
だが夢の最後、私はなぜか、笑っていた。
微笑みだった。
どうしてだろう、と考えた。
思い返してみると、あの宿にいた女たちの顔が浮かぶ。名前も覚えていない。だけど、誰かが唄ってくれた子守唄。わたしの頬に涙を落とした、あの震える手。ほんのわずかな時間、彼女たちはわたしに人として接してくれていた。
その記憶だけが、朽ちずに残っていた。
わたしは一度、人間として生きることを許されたのだ。
社会はわたしを知らない。理解も共感もされない。ただの「変なやつ」「気味の悪いやつ」。それでも、わたしは誰かの中に、何かを残すことができるかもしれない。たとえ、それがほんのわずかでも。
ある日、ボランティアとして老人ホームに通うようになった。
誰にも頼まれたわけではない。ただ、自分の体がまだ動くうちに、誰かのために何かをしたかった。誰かが、あのときのわたしにしてくれたように。
車椅子の老婆が、ぼそりと呟いた。
「昔、青い目の子どもがいたのよ。動かないのに、ちゃんとそこにいたの。不思議だったわ」
思わず、わたしは言葉を失った。
「それから…笑ったの。あの子。まるで、世界全部を知ってるみたいな顔で」
わたしはそのとき、静かに微笑んだ。
誰にも気づかれないように、小さく、小さく。
人生は酷薄で、世界は不公平だ。転生すれば幸せになれるわけでもない。人は、何も学ばず、同じ過ちを繰り返す。それでも、心の奥に残るものが、確かにある。誰かが触れてくれた、そのぬくもりが。
わたしは今も、ただ在る。
だが、もう「壊れた人形」ではない。
わたしは、世界を知り、傷を知り、それでもなお、生きている。
わたしの青い目は、今日も世界を見つめている。
静かに、穏やかに、微笑みながら。




