第9話 代理観察者:羽田の告白
朝の空気は、前夜より薄かった。吸い込むたび、肺の奥がからりと鳴る。ラウンジの壁に埋め込まれた黒点のレンズ群は、光を飲み、返さない。半円に並ぶ椅子の布地はわずかに毛羽立ち、誰の体温もまだ乗っていない。テーブルの上に置かれた紙コップの水面は静かだ。静かすぎて、不安という単語が鏡のように底に張りついている。
最初に震えたのは、掲示板だった。匿名板のタイムラインに、異様に長いスクロールバー。新着を示す青い丸の横に、見慣れたハンドルネームはない。投稿者欄は空欄、ただ本文だけが、黒い塊になって落ちていた。
〈昨夜の投票後、昇格通知を受けた。代理観察者から、観察者候補へ。選ばれた理由を自分では説明できない。自分が何かをしたとは思わない。ただ、線を遅らせた。開扉の議論を引き延ばした。意図的に。私は、その遅延で誰かを傷つけた。私は、代理だった。私は、今も観察者候補だ。羽田響〉
ラウンジの空気が、姿勢を正す。椅子が軋む音が一斉に重なり、音が過剰になったところで、急に引いた。誰もが画面から顔を上げ、彼を探した。
羽田響は、ラウンジの入口に立っていた。手に端末。投稿を終えたばかりの指先が、微かに震えている。彼は深く息を吸い、吐き、目を閉じた。その一瞬の閉眼が、告白より雄弁だった。
「裏切り者」
最初に口を開いたのは加瀬颯真だった。言葉が短いほど、角が立つ。彼は立ち上がり、椅子の背を押して前へ出る。「お前、俺たちを騙してたのか。遅らせた? 誰のために」
「遅らせたのは、結果のためじゃない」
羽田は、かすかに首を振った。「記録のためだ。扉の向こうに人がいる。それは分かってた。だけど、あそこで開けたら、たぶん記録から消される。だから、記録を残すために……」
「言い訳にしか聞こえない」
宮原蒼は紙束を胸の前で揃えた。端の角が寸分の狂いもなく揃っている。「ただし、君の自白は制度の透明化に資する。観察者候補の選抜過程、代理の機構、線引き会議との力学。それらが今、露出した。露出は価値だ」
「価値?」
花岡楓の声が震える。「あなたは私から“助ける”を奪ったのに。価値、なんて」
羽田は言葉を飲み込む。飲み込んだ音が、喉の奥で小さく鳴った。彼はテーブルの端に指を置き、指先に戻ってこない感覚で現実を測るように押した。押して、離す。どちらでもない手の動き。
天井のスピーカーから、城ヶ崎蓮二の声が落ちた。ガラス越しの声。こちらの温度を拾わない声。
「告白は評価されます。観察者候補の透明性は善」
「善ねえ」
御堂慧が鼻で笑う。笑いが冷たい。「善って何だ。お前らの辞書には、善の定義がいくつ載ってる。都合のいい順番で、ページをめくれるように」
東雲沙耶はスケッチブックを開いたまま、目はそこを見ていない。「善悪は線の色。青は静か、赤は熱い。どっちも絵具で、手が汚れるだけ」
白波琴音が、小さく羽田へ歩み寄る。彼女の歩幅はいつも一定だが、今日は半歩分短い。紙コップに水を入れ、差し出した。「息が、崩れてる。飲んで」
「ありがとう」
羽田は受け取り、一口飲んだ。水の温度が彼の喉を通っていくのが、ラウンジの温度にも微かに反映された気がした。
蓮は、彼の腕を軽く取った。「外へ出ないか」
二人はラウンジを出た。外廊下は、朝の風の代わりに薄い空気の流れだけがある。磨かれた床に、天井の非常灯が淡く映っている。校庭の彫刻の台座には昨日の青が薄く残り、乾きかけの粉の縁が微かに白い。
「どうして、言った」
蓮は、練った問いを選ばずに、最短の言葉を使った。
「言わないでいる自分が、いちばん危ないと、今朝になって分かったから」
羽田は手すりに肘を置いた。金属は冷たい。「俺は、誰より早く他者の反応を拾う。息の深さとか、言葉になる前の目の動きとか。でも、それを自分の言葉にしない。しないで、場の言葉を選んで置く。多分、それが“代理観察者”の理由だ」
「制度は、君を好む」
蓮は言った。「君みたいに、場の反応を先に拾って、ただちに場の言葉へ渡すタイプを。誰の主語でもない声のために働ける身体。そういう身体は、制度と相性が良すぎる」
羽田は苦笑した。「俺は、自分を観察するのが一番下手なんだ。自分の主語を、いつも置き忘れる」
風が吹いたような気がして、二人は同時に振り返った。廊下の先で、レンズの一つがわずかに光った。光の反射だったのか、誰かの瞬きだったのか、判断がつかない。
戻ると、ラウンジはざわめきの密度を増していた。七瀬智がスクリーンを操作し、いつもの参加者用UIとは別の画面へ踏み込んでいる。画面の上に、鍵アイコン。グレーの曇りガラスが外れ、奥に別の部屋があらわれる。
「見つけた」
七瀬が言う。「観察者専用ビュー」
壁面に投影された画面は、見慣れた監視映像とは違った。上段に折れ線グラフ。〈投票の波形〉と題されたグラフが、ラウンジの議論の高低に合わせて波打ち、その下に〈説得力スコアの偏差〉のヒートマップ。赤く染まる箇所が刻々と変わり、左右に散る。下段には〈死角出現の予報〉。廊下の簡易マップに、薄い灰色の雲が現れては消える。「四分後、旧視聴覚室前で一秒」「八分後、音楽室の床下で〇・五秒」。さらに、画面の右端には小さな吹き出し。〈推奨〉と書かれている。推奨文は簡潔だ。「議論の熱量を高めろ」「反対票を誘導」「謝罪の提示」。
《Owl》の細い声が、画面の内側から滲む。「観察者候補へ。あなたの演出が、より良い観察を可能にします」
「演出、だってさ」
黒田海斗が肩で笑う。その笑いは、少し掠れている。「やっぱり、こっちが舞台で、向こうが客席じゃない。観客を立たせて、拍手のタイミングまで指示する。観察者の倫理を、これで試すんだ」
「罠」
御子柴澪がノートに書き、丸で囲んだ。「使えば、演出家。使わなければ、無能。どっちも記録。どっちも評価。どっちも制度の栄養」
花岡楓は拳を握りしめ、唇を噛んだ。血の味が、きっとする。彼女はその味を喉で押し留め、「見せないで」と言った。誰に向けての言葉か、自分でも分かっていない。「見せないで。これ以上、線を引くための色を」
「隠すことは、もうできない」
宮原は淡々と言い、画面を一度だけ上から下へ撫でた。「君たちが見なくても、誰かが見る。ならば、見る位置を決めるのは、今のうちだ」
その夜、羽田はラウンジの中央に立った。半円の椅子、中央のマイクスタンド。彼はマイクを使わない。素の声で充分だった。声は揺れ、しかし折れない。
「俺は、このビューを使わない」
ざわめきが、二つの方向へ割れる。賛同と、嘲笑。両方に説得力があることを、誰もが知っている。
「使わないという宣言は、使うよりも“演出”だ」
宮原が言い、すぐに黙った。言葉が良すぎると、傷が深くなる。
壁面に、数字が弾けた。〈説得力スコア+〉のアイコンが、羽田のアカウントの上を跳ね、次の瞬間、観察者専用ビューの右上に「権限解放」の小さな鍵が開いた。
皮肉。七瀬が口に出す前に、複数の視線が同じ言葉を喉に載せて飲み込んだ。皮肉は、もうこの施設の空気に混ざっている。空気を吸えば、皮肉が入る。皮肉は、短期的には痛みを減らすが、長期的には体温を奪う。
匿名掲示板が震え、短い文が落ちた。署名は、“ベンチ”。
〈観察者に必要なのは“無語”だ。語る観察者は、見られる演者になる〉
東雲沙耶は、その文をノートの余白に書き写し、青い線でひと引きして消した。「無語もまた記号」。彼女の声は眠い。眠い声は、残酷な言葉を柔らかく包む。
「無語が記号なら、記号にできない沈黙はどこに置く」
蓮が誰にも向けずに言い、誰にも届かないまま、その言葉はラウンジの照明に吸われた。
夜更け、点呼が終わり、各自が個室へ戻る導線の廊下に、僅かな風のようなものが流れた。風は生まれないはずなのに流れ、薄い紙の端を一枚だけめくった。蓮の個室の前、床に白い封筒。無地。差出人なし。
拾い上げると、封は糊付けされていない。指先で開けると、古い紙の匂い。少し湿っていて、角が柔らかい。中から出てきたのは、古い集合写真。白黒に近い退色。背景は、この群青キャンパスの中庭。写真の奥に、問題のベンチ。最終日の文字が薄く印刷されている。「観察会 最終日」。笑っている顔、笑っていない顔、視線を逸らす顔。ベンチの上に座るはずの学生の顔だけが、鋏で綺麗に切り抜かれている。空白。輪郭の穴。
写真の裏に、鉛筆の字が一本。
〈観察者は席を空けて待つ〉
蓮は指で文字をなぞった。鉛筆の粉が指先に移る。粉は匂わない。匂いがあるのは紙の方だ。紙の匂いは、よく記憶と混ざる。混ざると、何が先にあったか分からなくなる。言葉と出来事の時間の順番が、写真の中で入れ替わる。
「羽田」
蓮は封筒を持って、彼の個室の前に立った。ノックはしない。扉の前に立ち、息を整える。扉が内側から開いた。羽田が立っていた。顔色は悪くない。ただ、瞼の裏が薄く赤い。
「これ」
封筒を渡すと、羽田は受け取り、すぐに中身を見た。写真の空白に目が止まり、ほんの一瞬、彼の呼吸が背骨の手前で躓いた。
「席を、空けて待つ」
「座ってはいけない、という意味かもしれない」
蓮は言った。「座った瞬間、写真から切り抜かれる。座らず、空席として待て。観察者の作法」
「作法、か」
羽田は乾いた笑いをほんの少しだけ鳴らし、すぐ止めた。「俺は、昨日、立っているだけで座ってるのと同じだった。座ってないと信じたいから、立ってるポーズをしてただけだ」
「君が遅らせた時間は、たぶん無駄じゃない」蓮は続ける。「あの時間に生まれた記録が、この先の嘘を少しだけ難しくする」
「でも、死にそうな人の時間は、遅らせたら、減る」
羽田の声が低く落ちた。「俺は、減らした」
返す言葉の候補はいくつかあった。慰め、理屈、可能性。どれも、今この扉の前では重すぎる。蓮は封筒の紙の厚みを親指と人差し指で確かめ、それから言った。
「君が自分の主語を持てないなら、今夜だけ、俺が君の主語になる。俺たちは、観察者候補だ。観察者が複数いる意味を、制度はきっと計算している。ならば、計算の外側に二人で立つ方法を探そう」
「計算の外側」
羽田は小さく頷いた。「外側は、どこにある」
「外側は、まだ言葉になっていない場所のことだ」
「無語?」
「違う。無語は記号になりやすい。言葉になっていない、まだ手触りだけの場所。そこにしか、たぶん、逃げ道はない」
廊下の天井の赤い点が、ゆっくり点滅した。点滅と呼吸が合うまでに、少し時間がかかった。合った瞬間、白波の耳の地図では、きっと別の音が鳴っただろう。ここでは、ただ、静かだった。
翌朝の朝礼は、静かな破片で始まった。ラウンジのスクリーンに、昨夜の羽田の宣言が要旨として表示され、同時に〈観察者候補の透明性〉の項目にチェックが付く。チェックは善と等号で結ばれている。等号はまっすぐで、強い。等号の前で、人はよく立ちすくむ。
七瀬は再度、観察者ビューにアクセスを試みた。鍵は外れたままだ。〈推奨〉に新しい吹き出し。「共感の価格を下げろ」。意味が分からない、と言いかけて、昨夜のテストのことを全員が同時に思い出す。生体反応テスト。あなたがたの“共感”は、いくらで売れるか。
共感の価格は、昨夜のログに数字として残っていた。誰かが誰かの話に反応したときの皮膚電気反応、脈拍、呼吸の乱れ。それらが無名の数列になり、説得力スコアの補助指標として小さく割り込んでいる。数字は反論しない。反論しないから、従順に見える。従順なものほど、後で暴れる。
黒田がスクリーンの端を指で上下させ、波形の裾野を見た。「ここ。ノイズの底。共感が“買われた”痕だ」
「買われた?」
「誰かが、誰かの共感を安く引き出した。泣きの演技、痛みの露出、謝罪の約束。引き出すほど、価格は下がる。安い共感は、制度にとって馴染みがいい。馴染みがいいものを、制度は好む」
雨宮凛は、うつむきながら笑った。「演者は、観客の涙を見れば、次も同じ色の涙を取りに行く。そうして舞台は貧しくなる」
「豊かにする方法は?」
永田未来が問う。問う声が乾いている。「共感の価格を上げる?」
「上げるには、使わないことだ」
宮原が応える。「希少にする。希少なものだけが、価格を持つ」
「じゃあ、私たちは、誰にも共感しないで生き延びるの?」
花岡の問いは、刃の先で震えた。刃の先は、振れるほど鋭くなる。
答えは出ない。出ないことが、ここでは答えだった。出ない答えが壁に吸われ、吸われた壁は厚みを増す。厚い壁の前で、人はよく小さくなる。小さくなった人の影は、床に濃く残る。残る影を、誰も踏めない。
昼過ぎ、蓮は一人で旧視聴覚室の前に立った。扉の隙間からの光はない。黒い布は、昨日と同じ角度で垂れている。ベンチは見えないが、位置は分かる。歩幅で記憶した。青い塗装の薄い剝がれ、指で触れたざらつき。彼は掌を開いた。小瓶の蓋を少しだけ回し、青の破片が光を抱いて揺れるのを見た。閉める。戻す。開けない。開けないと決めるたび、選ばなかった選択肢が骨の内側へ沈む。沈んだものは、夜になると浮かんでくる。浮かんだものは、夢に線を引く。
夜、羽田はラウンジの隅に座り、誰もいない椅子を一つずつ見た。座面の丸い凹みは、しばらく誰かの重みが戻らなくても、そこに座っていた誰かの形を忘れない。席を空けて待つ、という文が、胸の裏へ刺さったままだ。空けて待つとは、来ないことを準備することだ。来ないものを待つことが、観察者の作法なら、自分はいつまで待てるのだろう。
匿名掲示板がひとつ、鳴った。短い音。新しい投稿の印。開くと、ベンチの署名。文は、さらに短い。
〈空席が続くと、人は座り込む。座り込むと、写真から切り抜かれる〉
羽田は目を閉じた。切り抜かれた輪郭の空洞が、胸の中に同じ形で生まれる。生まれて、空気がそこへ落ちる。落ちた空気は、呼吸と無関係に動く。呼吸は、手で数えるものではなかったはずなのに、手が勝手に指を折り始める。ひとつ、ふたつ、みっつ。昨夜のノックの回数。扉の向こう。息を止めた音。
「響」
蓮の声がした。呼ばれて、名前が身体に戻る。「聞いてほしいことがある」
蓮はそのまま手短に話した。「観察者ビューを、壊す方法を探す。使わない宣言は“演出”になる。なら、使って壊す選択肢がある。推奨に従って、推奨の外側へ誘導する。波形を上げる方向へ議論を煽る、けれど、死角は生まれない配置へ動線を組む。説得力スコアは上がるが、制度の目的には寄与しない。数値の上では従順、実際には不服。偽従順」
「偽従順」
羽田はその言葉を反芻する。「嘘をつくのか」
「嘘ではない。最小単位の祈り、の逆側。祈りの形を借りて、制度の胃を空にする」
「成功する?」
「分からない。でも、二人なら、重ねられる。君が場の呼吸を拾って先回りし、俺が遅れて意味を置く。主語を分け合う」
羽田は息を吐いた。吐いた息が、夜のラウンジで白くならないのが、どこか残念だった。「じゃあ、明日の朝礼で一度やってみよう。無語のままは、もうできない。語りすぎるのも、罠に近い。なら、語るふりをして、場を空腹にする」
「空腹は、暴れる」
「暴れる前に、眠らせる」
遠くで、換気の音が一度だけ深くなり、すぐに戻った。その一回の深さの前後で、白波の耳の中では、別の色がひとつ点滅したはずだ。群青の中に、青がひとつ増えた。増えた青は、まだ誰にも見えない。東雲の絵具皿の隅で乾ききらない青みたいに、じっとしている。
深夜、蓮の個室の机上に、もう一通の封筒が置かれていた。中身は薄い紙切れ。手書きの走り書き。筆圧が、焦りの角度を持っている。差出人はない。本文は、三行。
〈観察者の席は、二つ〉
〈ベンチの上は、一つ〉
〈空いている〉
蓮は全身の骨が静かに軋むのを感じた。骨の軋みは、ほとんど音にならない。音にならないものだけが、長く残る。残ったものだけが、朝になる。
朝はいつも、空調の規則正しい呼吸で始まる。だが今日、最初に鳴ったのは別の音だった。壁面のスクリーンが薄く灯り、白地に黒の活字。見慣れた無機質な書体。
《予告》
《赦しの儀を導入します。観察によって傷ついたと主張する者を指名し、観察者は公開謝罪を行ってください。謝罪は説得力スコアに正の影響》
「また、価格にする」
白波が小さく言った。彼女の声は、今日、いつもより低い。「謝罪の価格」
「価格は、上げられる」
宮原が言い、蓮と羽田は顔を見合わせた。偽従順の手順は、たぶんここから始まる。推奨の文言を読み上げる役は誰が担い、熱量をどこで逃がし、死角の予報を空振りさせるか。手順は、紙に書かない。紙は見つかる。紙にならない位置で、手順を体に刻む。刻むのは、呼吸の数と歩幅の長さ。数と長さは、まだ数字になっていない。
匿名掲示板に、また短い文。ベンチ。
〈席は空けて待て。座りたがる者には、座るふりを教えよ〉
誰も返信しない。返信をしないことで、言葉の温度を保つ。保った温度が、明日のどこかで役に立つよう、祈る。祈りは最小単位。最小は、ゼロとは違う。違うという差が、まだここには少しだけ残っている。
蓮は小瓶の青を、掌に載せて光にかざした。灯りは青を透過し、机の上に細い線を落とす。線は刃か、図形か。答えは出ない。出ないまま、彼は瓶の蓋を閉めた。閉めた音が、今日のはじまりの合図のように、静かに鳴った。




