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デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
崩壊編

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第8話 反動:暴力の正当化

 朝は、光の代わりにざわめきで始まった。

 ラウンジの空調は一定の息を保ち、壁面のレンズは昨夜より心持ち冷たい。中央のテーブルに置かれた紙コップの水は薄い輪郭で震え、そこへ、鈍い衝突音が落ちた。

 テーブルが、倒れる。

 薄い金属脚が床を擦り、白い天板の角が床材を叩く。音が空間の骨に反響して、時間が二歩分、足をもつれさせた。

 加瀬颯真が、拳を握っていた。

 目の奥は乾いて、声は湿っている。匿名掲示板に積もっていった罵倒──臆病者、倫理ポエム、観察教──は夜の間に硬化し、朝になって角を剥き出しにしたのだろう。

 「口だけで、何が変わる!」

 加瀬は叫び、すぐに息を吸った。「頭のいい言葉で人を見殺しにして、満足かよ」

 「言葉がなければ、君は今ここにいない」

 宮原蒼が、テーブルの影から正確に立ち上がる。「制度は言葉で動く。だから私たちは言葉で抵抗する」

 「抵抗?」

 加瀬の拳が空を切り、倒れた天板が跳ねる。「昨夜、お前たちが決めたのは“開けない”だ。抵抗の顔をした諦めだろ」

 白波琴音が小さな悲鳴を零し、耳を塞いだ。音が鋭すぎる、とつぶやく。

 東雲沙耶はスケッチブックを閉じ、ペンを握る指を止めた。絵の線は、今は役に立たない。

 そのとき、壁のディスプレイに灰色の帯が滑り込み、黒い文字が浮かぶ。

 〈暴力的制圧は秩序維持の範疇〉

 〈秩序ポイント+3〉

 画面の隅で、加瀬のアカウントに微細な加点のアイコンが灯った。

 誰も、すぐには意味を掴めない。空気が半拍、遅れる。

 「今、何をしたら褒められたの?」

 永田未来が乾いた笑いで誤魔化すように問う。

 《Owl》は説明を足さない。ただ、同じ行を静かに重ねた。

 〈暴力的制圧は秩序維持の範疇〉

 花岡楓が、吐くように言う。

「線引き会議は、彼の暴力を育てただけだったの?」

 沈黙。

 育てた、という語は、誰の喉にも棘だった。育てた覚えはない。ただ、昨夜の合意は確かにここにあり、制度はその合意を食べて、別の規約を産んだ。

 七瀬智が端末を叩く。

 「付与ロジックが改変されてる。昨日の仕様にないテーブルが増えてる。説得力スコアと“秩序ポイント”が相互参照で結び直されてる」

 黒田海斗はディスプレイに死角マップを投影し、肩で笑った。

 「誰かが制度を“説得”で書き換えたんだ。議論がレバーなら、レバーは誰かに握られてる。強く引いた方向に、規約は曲がる」

 御子柴澪は机の端でノートを開き、「暴力の正当化」という見出しを書いた。

 時刻、文言、発言者、加点、反応。横線で繋ぎ、矢印で流れを記す。

 「今は記録しよう。正当化の論理がどう増殖したか、あとで辿れるように」

 加瀬は肩で息をして、拳を解いた。

 雨宮凛が前に出て、舞台の袖から客席へ降りる俳優の歩幅で、彼の前に立つ。

 「颯真、飲み物、取ってくる。冷たいの、甘いの。どっちにする?」

 「……どっちでも」

 「じゃあ、二つ」

 雨宮は笑って、距離を作った。距離は、興奮を削る道具だ。舞台を降りた俳優が、客席の外へ観客の視線を連れ出すみたいに。

 中条栞が蓮の肩を軽く叩いた。

 「昨夜、どうして花岡さんの肩に手を置かなかったの」

 蓮は、答えられなかった。

 置けば、壊す気がした。置かなければ、壊す気もした。

 選ばないことは、選ぶより重い。重いものを、言葉が持ち上げない朝がある。

 点呼。数字は二十三。

 今日も、野村一星の席は数字の外側に置かれている。

 存在しない者の体温は、残り続ける。残り続けるから、空気は薄くなる。

 外へ出ると、校庭の彫刻の台座に東雲が屈み、青い絵具を薄く伸ばしていた。

 ベンチの背もたれに似た、深い青。

 「目に見えない線を、見える線にしておかないと、いつか嘘に負ける」

 彼女は言った。

 「線は、嘘を嫌う。けど、線が増えすぎると、人が消える」

 昼過ぎ、匿名掲示板に投票の通知が来る。

 〈再投票:逸脱者の疑い〉

 候補に、加瀬、黒田、羽田。

 蓮は、画面を閉じた。

 羽田は平静を装い、椅子の背を指で一度だけ弾いた。音は出ない。

 「投票は、昨夜の余熱を食べる」

 宮原は書類を整えながら、ため息に似た声で言う。

 「余熱の熱量は、だいたい暴力に、少し言葉に、あとは沈黙に分配される」

 投票の締切が近づくと、ラウンジの照明がほんの少し落ちた。

 ブラックアウトは昨夜より長い。

 白波が膝に手を置き、耳を覆って、そして離した。

 「長い。音が……間延びしてる。まるで、誰かが呼吸を外に置いた」

 明かりが戻る。

 ラウンジの床に、一本の線が引かれていた。

 赤でも、茶でもない。赤黒い、乾きかけの、血に似た色。

 線は入口から一直線に伸び、写真の「ベンチ」を掲示した壁際で、途切れる。

 誰かの喉が小さく鳴った。

 白波が言う。

 「今、遠くで呼吸が一つ、消えた。増えもしないし、減りもしない呼吸が、消えた」

 凍る。

 音のない凍結。

 宮原が表示板を見上げ、指さした。

 「見て」

 掲示の一角で、名札一覧のUIが揺れ、ひとつの名前が移動していた。

 〈参加者 野村一星〉

 居住者の一覧から、保管庫の棚へ。

 死者扱いのタブの中へ、静かに。

 「誰が、見たの」

 花岡が、喉を擦るように問う。

 「誰が、観察したの。誰が、判定したの」

 城ヶ崎蓮二の声が、ガラス越しのように流れる。

 「死亡認定の要件は観察ログにより満たされました。手続きは完了しています」

 「観察ログ?」

 七瀬が端末を叩き、ログの枝を辿る。「どの視点だ。どのレイヤーだ。誰の手だ」

 答えはない。

 あるのは、確定という印だけ。

 確定は、よく、人を黙らせる。

 宮原が結論を置く。

 「制度が“語り”だけで死を確定した。出来事より、言説が先に到達した」

 花岡は立ち上がり、二歩目で吐いた。

 嘔吐は、倫理より正直だった。

 永田が慌てて紙と水を持ち、雨宮が視線の壁を作る。視ることと視ないことの仕切りは、いつだって紙より薄い。

 黒瀬真帆は、レンズを下ろしていた。

 「撮れない一日が続くと、記憶が嘘をつく。でも、撮れば、別の嘘が来る」

 彼女はレンズのキャップを外し、また付けた。

 付ける手の震えを、誰も指摘しなかった。

 加瀬は、床の赤黒い線を靴先で跨がず、遠回りした。

 椅子に座り、額に手を置き、静かに泣いた。

 「殴らない俺は、何の役に立つ?」

 蓮にだけ届く声で、言う。

 「殴って怒られて、殴らないで馬鹿にされて、どうすればいい」

 蓮は、ポケットから小瓶を出しかけた。青い破片が、光を抱く。

 言おうとした。

 見ることが役に立つ瞬間もある、と。

 けれど、言えなかった。

 見ることが、今日、何を救ったのか、分からなかった。

 夕刻、壁のスクリーンが切り替わる。白背景に、黒い一行。

 《短いテストを実施します》

 《生体反応テスト:あなたがたの“共感”は、いくらで売れるか》

 誰かが笑い、誰かが殴り、誰かが目を閉じ、誰かが祈る。

 テストの表示は、無機質に残り続ける。

 共感は、温度だ。温度は、測れる。

 測られた温度は、価格に変換される。

 価格は、配分に組み込まれる。

 配分は、暴力を選ぶ。

 暴力は、正当化される。

 正当化は、言葉になる。

 言葉は、制度になる。

 制度は、朝になる。

 朝は、ざわめきで始まる。

 校庭の彫刻の台座では、東雲の青が乾きはじめていた。

 乾いた青は、指でこすると粉になり、風に混ざって見えなくなる。

 見えなくなっても、そこにある線を、線と呼ぶ言語の側の責任を、誰が持つのか。

 蓮は小瓶の蓋を閉じ、ポケットに戻した。

 遠くで、再び照明が息を止め、すぐに戻る。

 白波が顔を上げ、「今のは、呼吸じゃない」と言った。

 「生きてる音じゃない。制度の音」

 匿名掲示板に、短い文が落ちる。

 “ベンチ”。

 〈線は刃だ。刃は触れると傷をつける。刃のない線は、図形だ。君たちが今引いたのは、どちらだ〉

 誰も答えない。

 答える権利が、いくらで売れるのかを、試されているのだと、全員が分かっていた。

 《Owl》は次の行を足す。

 《共感の価格は、あなたがたの合意で決まります》

 合意は、また、刃だった。

 夜へ向けて、刃は磨かれる。

 金属の匂いが、息に混ざる。

 誰の手も、まだ血は流していない。

 けれど、床の線はすでに乾いて、消えない。

 乾いた線は、朝まで続いているように見えた。

 朝は、ざわめきで始まる。

 ざわめきは、また、暴力の正当化を呼ぶ。

 ラウンジの隅で、羽田が端末の画面を伏せた。

 印は淡いまま、しかし確かにそこにある。観察者候補。

 彼は短く息を吐き、蓮の方を見ないまま言った。

 「今日の定義は、明日の暴力を選ぶ。……だから、今日は言葉をやめない」

 蓮は頷く。頷くしかなかった。

 頷きの重さが、今夜のブラックアウトの長さを、たぶん少しだけ変える。

 それでも、たぶん、誰かは消える。

 消える前に、青い破片の光だけは、瓶の中で守っておく。

 守ることを、観察と呼ぶのか、介入と呼ぶのか、いまだ分からないまま。

 分からないまま、テーブルを起こし、椅子を整え、紙コップに水を満たす。

 儀式の所作を繰り返す。

 儀式は、暴力を遅らせるためにある。

 遅らせることが、今のところ、唯一の救いの形だ。

 《テスト開始まで、あと三分》

 画面の数字が、規則正しく減っていく。

 共感の値札は、まだ空白だ。

 空白は、選択より、少しだけ優しい。

 その優しさで、誰かの今夜を、三分だけ延ばせる。

 延びた三分に、誰の名前も書かれていない。

 名前を書けば、価格になる。

 価格になる前の、匿名の三分。

 匿名の三分は、やがて、記録の中で価値に換算される。

 「ゼロじゃない」

 蓮は、誰にも聞こえない声で言った。

 ゼロじゃないものを、ゼロの側へ送らないために、何ができるのか。

 答えは、まだない。

 けれど、線は、ここからまた一本、増える。

 増えた線が刃でないことを祈りながら、誰も、祈りの価格を知らないまま、朝の続きに立っていた。

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