第7話 線引き会議:観察か救助か
──三度のノックが、薄暗い通路に響いた。
金属の扉。その内側に、誰かがいる。
音は、規則的なはずなのに、どこかでわずかにずれていた。機械が模倣した人間のような、微妙な間合いの乱れ。
花岡楓は反射的に前へ出た。
「生きてる! 誰か、まだ中に!」
声はひび割れ、狭い通路に反射して重なり合った。
彼女の指先が冷たい取っ手に触れるより早く、天井のスピーカーから声が降る。
《ここから先の開扉は介入です。介入は評価対象外となります》
《Owl》の声は、やや低く、空調の唸りと同じ高さに重なっていた。
通路にいる九人の参加者のうち、誰もすぐには動けない。
「評価対象外、って……」
黒瀬真帆が低く呟いた。
花岡が振り向き、声を震わせた。
「人が、いなくなったのよ! 評価とかどうでもいいでしょ!」
《Owl》は反応しない。ただ淡々と、同じ文言を繰り返した。
《ここから先の開扉は介入です。介入は評価対象外となります》
まるで、彼女の叫びを遮るように。
七瀬智が携帯端末を操作し、無言のまま画面を示した。
「掲示板、見て」
匿名掲示板〈線引きディスカッション〉の最新スレッドに、奇妙な仕様説明が追加されている。
〈開扉を主張する言論には説得力スコアが加算されます〉
〈ただし、実際に開けた行為はスコアに反映されません〉
沈黙。
宮原蒼が、額に手を当てて笑った。
「なるほど。制度は“語る者”を褒め、“行う者”を罰する。実に教育的だな」
笑いの形をしていたが、その奥にあるのは冷えた諦めだった。
加瀬颯真が拳を握り、前に出る。
「ふざけんなよ。評価なんてどうでもいい。扉、開けりゃいいだけだろ」
彼はいつものように声が大きい。だが、その背後で、羽田響が静かに立ちふさがった。
「待って、加瀬」
「おい、どけよ。時間が経てば、本当に……」
「開けたら、消えるかもしれない」
羽田の声が、低く、切実だった。
加瀬が一瞬、動きを止める。
「どういう意味だ」
「制度上の記録として、“失踪者は存在しなかった”って上書きされる可能性がある。
介入は評価されないだけじゃない、“なかったこと”にされるんだ」
「お前、そんなことまで知ってるのか」
「……想像だよ」
羽田は視線を逸らした。
彼は、代理観察者だった。だがそのことを、まだ誰にも明かせない。
沈黙が再び通路を満たす。
壁の換気口が鳴り、遠くで金属が微かに揺れた。
「ノイズが……変わった」
白波琴音が呟いた。
「今、扉の向こうで、誰かが息を止めてる」
彼女の言葉に、花岡が膝を折る。
「だから早く……!」
七瀬が口を挟んだ。
「待って。ログを見ろ。昨夜のブラックアウト、投票の直後に発生してた」
「それが?」
「特定カメラ群だけ。選択的な停止だ。議論の熱量が上がったときに、通路側で無監視帯が一瞬生まれてる」
黒田海斗が反射的に腕輪のディスプレイを操作し、通路図を投影する。
「つまり、議論こそが操作レバーってことだ」
彼の声は、やけに明るかった。
「……議論を続ければ、監視が薄くなる?」
「たぶんな」
黒田は肩をすくめた。
「死角を作るための熱量が必要なんだ。皮肉だろ?」
加瀬が笑った。
「じゃあ、騒げばいい。喧嘩でも議論でも、盛り上がれば隙ができる」
「盛り上がりで、命が動くなら……」
羽田が呟く。
「もはや実験じゃないな。演出だ」
東雲沙耶は黙ったまま扉に手を置いていた。
その指先が、金属の冷たさをなぞりながら、微かに震える。
「これは作品になる」
小さな声だったが、誰も反論できなかった。
黒瀬真帆がカメラを構える。
しかし、シャッターは降りない。
「撮れない……」
「どうして」
「撮ることが、殺すことに繋がる気がする」
その一言で、通路全体が一瞬息を止めた。
《Owl》の声が降る。
《議論を継続してください。観察は祈りの最小単位です》
花岡が震える声で叫ぶ。
「祈ってる暇があったら助けに行けって言ってるのよ!」
《祈りは届きます》
《届いた証明はどこにも出ません》
彼女はその言葉を聞いた瞬間、膝をついた。
まるで打たれたように。
ラウンジに戻ると、天井スクリーンが自動で点灯した。
白い文字が浮かぶ。
〈開扉の最終判断を“線引き会議”で決定してください〉
〈過半数の合意は制度変更とみなされます〉
「制度変更……」
宮原が呟く。
「つまり、俺たちの多数決で“実験のルール”が変わる」
「過去ログにもあったわね」
七瀬が思い出すように言う。
「合意は刃になるって」
そのとき、匿名掲示板に新しい投稿が落ちた。
“ベンチ”の名で。
〈観察は祈りの最小単位だ。祈りは届くが、届いた証明はどこにも出ない〉
その文面は、《Owl》の言葉とまったく同じだった。
「同一人物……?」
蓮が呟く。
羽田がすぐに遮る。
「いや、違う。これは、引用だ」
「じゃあ、“ベンチ”は誰を観察してる?」
「……俺たちか、あるいは……“Owl”そのもの”」
会議は始まった。
夜になるまで、誰も席を立たなかった。
議論は、次第に形を失っていく。
「観察と介入の境界は、行動じゃなく記録の有無で決まる」
「なら、見てるだけでも介入じゃない?」
「観察すること自体が暴力だろ」
「でも観察しなければ、存在しないのと同じだ」
声が交錯する。
ラウンジの壁面の黒いレンズ群が、熱を帯びるように点滅した。
誰かが叫び、誰かが泣いた。
議論の熱量が上がるほど、天井照明の明滅が速くなる。
まるで、生き物の心拍のように。
白波は耳を押さえた。
「音が……変わってる」
「何の音?」
「人の声が、空調に混ざってる」
「どういうこと?」
「誰かが、笑ってる」
沈黙。
全員が天井を見上げる。
だが、笑いはもう消えていた。
花岡が立ち上がる。
「もう、やめよう。開けよう。
この議論のために、誰かが死んでるのかもしれない」
「まだ死んだとは限らない」
羽田が答える。
「ならなおさら!」
花岡が駆け寄り、扉の方向へ走り出そうとした瞬間。
《Owl》が再び告げた。
《討論の結果が確定するまで、開扉は禁止です》
その言葉が終わる前に、廊下の照明が短く鳴り、天井のランプが一瞬だけ落ちた。
──無監視帯。
蓮はそのタイミングで、扉の方角を見た。
暗闇の奥。
金属扉の覗き窓の隙間で、黒い布が微かに膨らんでいる。
誰かが、内側から押している。
「中に……」
息が喉で止まる。
明かりが戻ったときには、布は元の位置に垂れていた。
議論は夜まで続いた。
最終投票。
過半数が「開けない」を選んだ。
花岡楓は、机に突っ伏したまま動かない。
蓮はその肩に手を置こうとして、やめた。
触れれば、何かが壊れる気がした。
《Owl》が静かに言う。
《線引き会議、終了。結果を保存します》
その声とともに、通路の奥でまた三度のノックが響く。
だが今度は、少し間が広かった。
誰かが、まだ諦めていないようなリズムで。
羽田の端末が震えた。
画面に通知が浮かぶ。
〈代理観察者 → 観察者候補(正規)へ昇格〉
彼は息を止め、指先で画面を閉じた。
蓮はそれを見た。
何も言わなかったが、知ってしまった。
もう一人の“観察者”が、ここにいることを。
《Owl》の声が、最後に囁く。
《選んだ線は、あなたがた自身です》
照明が静かに落ちる。
通路の最奥。
金属扉の表面を、誰かの影がひとつ、撫でて消えた。
その夜、群青キャンパスのすべてのカメラ映像に、わずか一秒の欠落が記録された。
翌朝、誰もそれに気づかない。




