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デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
招待編

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第5話 消失:最初の犠牲者

 朝の点呼は、いつもより一拍早く始まった。空調の拍が少し速い。Owlが時間を進めたのか、それとも、こちらの体内時計が焦りを先回りしているのか。ラウンジの椅子は半円のまま、中央の卓上に並ぶのは紙コップの水、規約の改訂履歴、そして昨夜の投票結果を要約した無味乾燥なグラフ。青白い照明の下、二十四の席に二十三の背中が座った。ひとつだけ、空席があった。

 野村一星。

 名前が呼ばれても、返事はない。二度、三度。花岡楓が眉根を寄せ、羽田響が椅子から半身を起こしかけて、やめた。永田未来が冗談の弓をひく前に、宮原蒼が立ち上がる。

 「個室を確認する」

 言い終えるのと同時に、蓮と七瀬智、黒田海斗、黒瀬真帆が立った。誰かが見張っている気配の中で、身体はむしろ簡単に動いた。ラウンジから居住区へ向かう廊下は、朝の光と呼ぶには冷たすぎる青に満たされている。天井の赤い点は規則正しい脈を演じ、壁のレールに沿ってただの記号のように続いていた。

 野村の部屋の前。ドアは施錠状態を示す小さなインジケータを青に灯し、ドアスコープは暗い。呼び鈴を鳴らしても反応はない。羽田が耳を当て、首を横に振った。

 「音がしない」

 宮原が管理端末の臨時開錠を申請し、Owlの承認音が二度鳴る。鈍い解錠音。ゆっくりと開いたドアの向こうに、整った部屋があった。整っている、ということが、こんなに不穏だと思ったのは初めてだ。

 ベッドは折り目正しくシーツが張られ、枕も夜明け前の空のように皺がなかった。机には昨夜配られた匿名投票のサマリー、コップに差し込まれた歯ブラシは乾き、洗面台は水滴ひとつ残していない。窓は施錠。内鍵はかかったまま。シャワールームは乾いている。クローゼットを開けると、ジャケットとスウェット、靴下の替えが丁寧に畳まれていた。

 野村だけが、いない。

 「典型的な密室消失、か」

 黒田が低く言った。低い声は、部屋の壁で丸くなる。加瀬颯真は腕を組み、つま先で床の材質を確かめるように軽く叩いた。

 「死角があるから抜け出せる。昨日の地図、覚えてるだろ。点検口に入ってダクトを――」

 「短絡だ」

 宮原の声が鋭く割り込む。

 「まず事実。失踪はルール違反。規約第六条。『所在の申告なく居室を離れ、点呼に応じない』は逸脱に該当。報酬はゼロにリセット。以後の加算は要審査」

 その言い方は残酷というより、乾燥していた。乾燥はときに、濡れた言葉より痛い。Owlが、追い打ちのように通達する。

 《失踪は逸脱の範疇。調査は参加者の義務です。調査の報告は説得力スコアに反映されます》

 まるで、事態を歓迎している口ぶり。唇が乾く。唾液が足りない。

 七瀬は端末を取り出し、すぐにログを呼び出した。夜間の電源系ログ、監視ネットワークの接続状態、ブラックアウトのタイムスタンプ。昨夜、廊下の赤い点が一斉に消えた瞬間。無音のほんのわずかな断層。

 「ここだ。〇時五十八分二十七秒から、全系統が一秒未満の遮断。復帰後、二番と三番のカメラのビットレートが一段落ちてる。負荷か、帯域の振り分けか」

 黒田が死角マップの最新レイヤーを重ね、最短経路を示す。旧視聴覚室の脇を通り、理科準備室の通風ダクトへ。天井裏で人が身を丸められる空間。昨夜、蓮が踏み込んだ場所と重なっていた。

 蓮は黙って頷いた。あの薄い光、ベンチ、二重の影。もし誰かが――野村が――同じ道を通ったのだとしたら。だが、それで外へ抜けられるわけではない。ダクトのルート図を辿ると、外部への出口は封鎖されている。換気口は細すぎて、人が通れるものではない。出口がない路。断ち切られた道。

 理科準備室に入ると、冷気が鼻腔を刺した。薬品棚の匂い。破損したビーカーの口に残る古い粉末が光を飲み、返さない。天井の点検口に脚立を立て、黒田が身を乗り出す。埃の層が波打っている。新しい波だ。誰かが這った跡。指の腹でこすると、灰色の粒子が爪の間に入り込んだ。

 「通ったな。だけど――」

 「出口側がない」

 七瀬が言い、蓮が続ける。

 「どこかで回収されたか、別の導線がある」

 回収、という語は、器具に対して使うほうが馴染む。人間に使うには、冷たすぎる。それでも、この場にぴったり貼り付くのはその言葉だった。誰かの意思でもって、人がどこかへ移された。そんなイメージだけが、冷たく明確だった。

 白波琴音が廊下の角から小走りで来る。手のひらを広げ、薄い金属片を見せた。親指の先ほどの四角い板。端に微小なアンテナ模様。樹脂が剥がれて、銅色が露出している。ICタグに似ているが、印字された番号のフォントが古い。数字の角が丸い。かつての規格。

 「拾った。ここ。踊り場の隅。誰か、落とした」

 蓮は受け取って光にかざし、七瀬に渡す。七瀬は読み取り機能を起動し、かざしてみせる。読み取り音は短く鳴り、画面に小さなエラーが現れて消えた。

「データは飛んでる。けど、ヘッダの一部にログの索引が残ってる。観察会の時代のタグだ。ここ一、二年のものじゃない。古い」

 黒瀬真帆は床に膝をつき、カメラをベルトから外して低いアングルで廊下を撮った。レンズに映る光の線。すぐに写真を表示し、指で拡大して別の小さな反射を示す。

 「見て。床の下、ここ。微妙に光が波打ってる。配線トンネル。床材の継ぎ目の下に、空間がある。光の返しが違う」

 羽田がしゃがみ込み、爪先で床の端を軽く叩く。音は密ではなく、浅い空洞を抱えた板の音がした。密室は、四方だけで作られるのではない。下も、上も、穴は穴だ。

 花岡が壁にもたれ、低く言った。

 「失踪じゃない。誰かが“消した”。ここで、人が消される演出が、設計された」

 ラウンジの空気が凍る気配は、言葉の端に霜をつけた。Owlは反論しない。黙って、記録だけを続ける一種の礼儀正しさで、現場の温度から距離を取り続ける。

 匿名掲示板は、午前十時を待たずに祭りになった。タイムラインを開くと、スクロールの速度に追いつかない投稿が降り続ける。野村の行動履歴。消灯後の足音。投票の前後での視線の動き。誰かが誰かを見たという伝聞。説得力スコアはめまぐるしく上下し、的中率の予測バーが脈打つ。さらに、いつの間にか自動生成された金銭的見込みのグラフが、参加者ごとに別の色で踊っていた。数字の祭壇。数字の灯明。

 「この変動が、人を語らせ、判断を荒らす」

 宮原が自嘲気味に言った。口元は笑っていないのに、声が笑っているように聞こえるのは、諦めの乾燥のせいだろう。説得力が報酬に繋がり、報酬への道筋が図解されれば、人はそこを歩く。そこに誰かの影が落ちていても。

 永田は苦い顔で画面を閉じた。

 「こういうとき、軽口で空気をまっすぐにできればいいんだけど、今日は喉が縮まるな」

 羽田は首から下げたカメラのストラップを指で弄び、蓮の方を見た。蓮はポケットから写真カードを取り出す。ラウンジの俯瞰。裏面に、鉛筆の粉がまだ新しい。

 観察会 三日目

 今朝、認めたときは、薄いかすれのように見えた。その文字は、時間が経つほど濃くなる気がした。カードそのものが、文字を吸っている。吸って、返さない素材。校庭の彫刻と同じだ。

 調査は続く。死角マップとログの重ね合わせ、廊下の床材の継ぎ目の探索、点検口の裏の埃の層の変化。だが、野村の影はどこにも残っていない。部屋に髪の毛一本すら落ちていないことが、逆にひどく人工的に思えた。人が生きていた痕跡を、過不足なく拭い去る技術。完璧さは、不気味だ。

 昼過ぎ、ラウンジに戻ると、Owlがいつになく長い文面を壁のスクリーンに表示していた。失踪に関する過去の記録の抜粋。観察会の時代にも、同様の事案があったと淡々と示す。そのたび、参加者は合意によってルールを改変し、対応した、と。

 「合意を錦の御旗にして、残酷なルールを正当化する」

 花岡の言葉が、スクリーンの白を汚す。誰も返さない。反論は規約に吸い込まれて、評価の数字に変わる。反対票も説得力に換算される。彼女はそれを知っていて、それでも言い、言ったあとで沈黙した。沈黙の評価はどこにも現れない。だからこそ、沈黙は人の骨の側に残る。

 黒瀬真帆のカメラが小さく音を立てる。シャッターではない。記録を止めた音。覗かれる側と覗く側の境界が今日ほど曖昧になった日はない。レンズは境界を信じる器具だ。信仰が揺らぐと、器具はただの硝子になる。

 午後三時。七瀬と黒田は、配線トンネルの存在を確証に近づけた。床材の継ぎ目に微妙な段差、ヒールの先が触れると振動の返りが異なるポイント、配線図と一致しない床下の空洞。試しに小型のマイクを細い隙間に落としてみると、落下音はすぐに吸われ、遠くで金属に触れる響きが返ってきた。空間がある。そして、その空間は自由に歩けるほどには広くないが、何かを滑らせるには十分だ。

 「人を?」

 羽田が小さく問う。七瀬は首を横に振る。

「人をそのまま滑らせるのは無理だ。けど、何かを運ぶことはできる。たとえば、証拠とか、道具とか。あるいは、観察するための目」

 目、という語を口にしたとき、天井の赤い点が瞬きをした気がした。白波はその瞬間、耳を押さえてうずくまる。

 「今、音が折れた。赤いのが鳴った」

 鳴らないはずの、赤い点。鳴ったことにして耳が痛むのは、彼女だけの地図の上の現象だ。それでも、彼女の地図はこれまで正確だった。蓮は息を整えた。数字も地図。耳も地図。どちらも現実の別の面を切り取って差し出す。

 夕刻、調査はいったん区切りがついた。野村は、いない。いない、という事実だけが、確かだった。いないことは、いるよりも大きい。いないことの重さが、ラウンジの床を少し沈ませる。沈んだ床の上で、各自の端末がまた鳴り始めた。匿名掲示板。推論が氾濫し、説得力が跳ね上がり、沈む。数字の波で人が洗われる。

 蓮は画面を閉じた。目の前の空気に、数字はない。あるのは、誰かの呼吸、椅子が軋む音、誰かの喉が鳴る微かな気配。そして、ポケットの中の写真カード。指で裏面の文字を撫でる。鉛筆の粉がほんの少し指先につく。観察会 三日目。誰が書いた。いつ書いた。このカードは誰の手を経て、今ここにある。問いは減らない。増える。

 部屋に戻る前、蓮は旧視聴覚室の前で立ち止まった。扉の隙間から覗く暗がりは、昼のそれよりも厚く、光は黒へ吸われていく。ベンチの背が、暗闇の中で低い山のようにかたちを保っている。背もたれの縁の青。あの色は、夜の水の色に似ていた。

 個室のドアを開けたとき、蓮は違和を即座に掴んだ。机の上。昨夜の配置と、角度が違う。端末と同意書の間に、見慣れない小瓶が置かれていた。透明な硝子。薬瓶ほどの大きさ。蓋はアルミの色で、ラベルが一枚貼られている。手書きの文字。

 三日目の証拠

 瓶の中には、砕けた青いガラス片が数枚、光を抱えて静かに横たわっていた。背もたれの色と同じ、深い青。蓮が指で瓶を転がすと、破片の片が陽の角度を一瞬だけ捉え、短い青い線を机上に描いた。青は、すぐに消える。消えて、目の裏にだけ残る。

 誰が置いた。誰のために置いた。鍵は内側からかかっていた。窓は施錠。密室に置かれた、小さな証拠。誰かが入ってきたのではない。何かが通ったか、通された。床の下か、天井の上か、あるいは、見えない導線。蓮は耳を澄ませた。遠くで、また金属がこすれ合う音がする。音はもう、怖れの音ではない。呼びかけの音でもない。運搬の音だ。何かが運ばれている。運ばれて、置かれる。ここへ。

 端末が短く震えた。心臓の裏側を指で叩かれたような感覚。画面に、新しい通知が一瞬だけ現れて消えた。スクリーンショットを取る間もない。文字の残像だけが網膜に薄く残る。

 あなたは“観察者候補”にノミネートされました――昨日のそれとは別の、冷え方をしている気配。内部で誰かが、役割を配っている。観察者は内部から選ばれる。代理観察者は昨日、羽田に与えられた。今夜は誰に。明日は、誰に。

 瓶を持ち上げる。アルミの蓋を回そうとして、やめる。開けてはいけないものの重みは、手に取った瞬間、必ず伝わってくる。開けるのは、順序が要る。順序は、守らないと記録にならない。

 蓮は瓶を机に戻し、写真カードを横に置いた。青い破片と、白いカード。並べたとき、両者は互いの色をわずかに食い合うように見えた。青は白を冷やし、白は青に輪郭を与える。手を伸ばし、机の引き出しから薄い封筒を出した。裏書きに日時を書き、瓶とカードを入れる。封じるという行為は、記録の第一歩だ。感情を封じるためでもある。

 椅子に座り、深呼吸をひとつ。耳の奥で、赤い点の脈がゆるやかに続く。白波の地図ではきっと、今の脈は丸く聞こえる。七瀬の地図なら、今のネットワークの負荷が静かに山をつくっているのが見えるだろう。黒瀬のレンズなら、机上の小さな世界が、この部屋の外よりも遥かに深い影を持っているのが分かる。羽田の眼なら、この瓶はたぶん、撮られることを前提に置かれているのだ、と悟る。撮られることで意味を成す証拠。撮られなければ、ただの破片。

 窓の外で風が鳴る。鳴ったように感じるだけかもしれない。群青キャンパスは風を入れない。入れないはずの風が、今夜は入ってくる。風は穴を探し、穴を通る。穴の形を覚えて、同じところを何度も往復する。そうして床下の配線トンネルは、風の道にもなる。音の道にもなる。誰かの道にもなる。

 蓮は端末を開き、匿名掲示板に短い文を置いた。ハンドル「暁」。送信ボタンに指が触れる手前で、文を二文字削った。言い過ぎることを、今夜は避けるべきだ。

 暁:ベンチの青い硝子は、夜の色と同じだ。色は光の記録。記録は、置かれた時間を語る。語り手は、内部にいる。

 送信。画面の端で小さな目のアイコンが瞬き、赤い点の脈が一度、速くなる。遠くでまた、金属が擦れた。今度の音は、ほんの少しだけ、昨日よりも近い。近いということは、こちらに向かっているということだろうか。それとも、こちらが向かっているのか。

 机上の封筒に手のひらを乗せた。体温が紙へ移る。紙は熱を記憶しない。だからこそ、そこに残るのは文字だけだ。文字は熱を持たない代わりに、時間に耐える。耐えるものだけが、証拠になる。

 野村一星の空席は、夜になっても空席のままだった。空席は席よりも存在感が強く、目を離せばすぐに、そこに誰かが座っていた気がしてしまう。人は空白に人影を置く。空白は人影を好む。そうして、空白は増える。増えた空白へ、夜が降りる。

 Owlが静かに言う。

 《おやすみなさい。調査は続行中です。観察は継続します》

 「継続」という音は、やさしくも厳しくもない。けれど、骨には冷たい。蓮は目を閉じた。まぶたの裏に、青い破片の輪郭が残る。裂けた輪郭は、地図の裂け目に似ていた。地図の裂け目は、通路の始まりかもしれない。終わりかもしれない。

 眠りの縁で、蓮はもう一度だけ思い出す。朝の点呼の空席、密室の整頓、天井裏の埃の波、床下の浅い空洞、古いタグの丸い数字、写真カードの鉛筆粉、瓶のラベルの文字。すべてが「三日目」を指さしている。三日目は、始まりでも節目でもない。柔らかい中間だ。中間はたいてい、崩れやすい。

 遠くで、また金属が擦れた。さっきより、近い。音に、微かな呼吸が混ざっている。呼吸は、誰のものだろう。蓮は目を開けず、骨の中で耳を澄ませた。返事はない。返事は、明日の朝が持ってくる。明日の朝が、またひとつ空席を連れて来ないことを、祈るという行為を、いまはまだ許されている。祈りは観察されない。観察されないものは、少しだけ救いに近い。そう信じて、蓮は浅い眠りへ滑り込んだ。

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