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デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
招待編

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第4話 匿名投票:最初の夜

 夜は灰色だった。外の空は完全な闇ではなく、どこかで反射した薄い光が、校舎の輪郭を水平方向へと滑らせる。群青キャンパスのラウンジには、二十四脚の椅子と、中央に一本のマイクスタンド。昼の議論で磨かれた空気が、まだ温度を保って残っている。

 開始合図は、静音に近い鐘の音だった。鼓膜の手前で霧散する、融けるような一打。続けてOwlの声が降りる。

 《第一回匿名投票を実施します。議題は「逸脱の疑いが強い参加者」。提出締切は二十三時三十分。発言および反論は自由、録音は許可されます。説得力スコアは報酬へ反映されます。準備が整い次第、どうぞ》

 静まり返った客席のように、誰も立ち上がらない。最初の一人はいつだって、場の温度を変える役だ。十秒の沈黙ののち、宮原蒼が立った。資料を胸の前で揃え、マイクの角度を整える所作に無駄がない。

 「まず、定義からだ」

 宮原の声は粘りを持たず、数式の記号のように乾いている。

 「逸脱を判断するには基準がいる。ここでは三つ。ひとつ、時間外行動の頻度。ふたつ、行動の事前の宣言との乖離。みっつ、行動の情報価値。価値が高いなら、むしろ逸脱ではなく探索だ。価値が低く、宣言から外れ、頻度が高い場合、それは疑いの濃度を上げる」

 彼は端末を掲げ、前夜から今日にかけてのラウンジと廊下の通行ログを、統計の折れ線で示した。視線が自然に画面へ吸い寄せられる。青い線が夜半に二度だけ跳ねている。

 「加瀬の個室の前を通る足音、という投稿が複数あった。時間帯は二十二時三十二分と二十三時八分。いずれも停電復旧後の静音帯に重なる。ここで重要なのは“増殖する投稿が同じ単語を共有している”という点だ。目撃の重なりは独立ではなく、伝播の可能性がある」

 彼はそこで視線を上げ、短く言った。

 「結論。現段階では加瀬について『未判定寄りの疑い』。黒田の“死角の地図”作業は、価値が高い探索として正に評価。ただし、黒田個人が死角知識を独占することには抑止が必要。雨宮の模倣実演は線引きの試金石。許諾を得ない模倣は逸脱の手前」

 理屈は整っている。整っているからこそ、刃先が見えにくい。

 続いて、雨宮凛が立つ。細い目元に光を足して笑い、片手を軽く上げて観客へ合図するような仕草。演者の移動。立ち位置で空気は変わる。

 「舞台に立つとね、観る側の息の深さが分かるの。今夜は浅い。みんな、息が浅い。だから、簡単に揺れる」

 彼女は一歩前へ出て、低い声のまま言葉を繋いだ。

 「疑いって、ほんとは“期待”の裏返しだよ。期待を裏切ったとき、人は裏切られた自分を守るために疑いの札を貼る。じゃあ、誰が今、誰の期待を裏切った? 答えは――私。笑って模倣した。正直に言う。私は票を集めやすい。でもね、私がここにいる意味は、あなたたちの『線』を可視化するためで、『的中率ゲーム』で勝つためじゃない」

 彼女は自分を候補に挙げるかのように肩を竦め、最後に観客席をゆっくり見渡す。その視線に、数人が息を飲むのが分かる。議論を超えて感情が動く。説得力スコアの針が、見えないところで揺れた。

 永田未来が肩の力を抜いた歩幅でマイクへ近づく。

 「ここ、居酒屋じゃないから乾杯はしないけど、喉は渇くよね」

 笑いが小さく起きる。その笑いを背中で受けながら、永田は軽い調子で核心をつつく。

「疑いの儀式って、続けるほど上手くなる。人間、学習するから。上手くなるってことは、誰かを上手に疑えるようになるってこと。危ない臭いがする。だから僕は、一票を『予備』にする。黒田が“地図”を握るリスクと、地図を失うリスク、どっちが大きい? 後者じゃない? 雨宮の演技に救われた人、今日ここにいる。加瀬の夜歩きは、たぶん怖れの音。怖れは罪じゃない」

 冗談の衣を脱ぐと、芯は鋭い。この軽さに救われる瞬間があるから、人は場にとどまれる。

 花岡楓は立ち上がる前から苛立ちを両手に握っていた。握った拳をゆっくり開き、マイクへ近づく。

 「私は、投票そのものに反対。議論じゃない、儀式だ。誰かを名指しで疑う儀式が常態化する。儀式は中毒になる。ここは研究施設の衣装を着た『疑いのアクティビティ』じゃない」

 その瞬間、ラウンジ入口上部の表示に文字が浮かぶ。

 反対票も説得力を評価

 文字の白は冷たく、花岡の額に浮いた薄い汗を照らした。

 「反対すら制度に吸収される。つまり、逃げ道が設計されている。いつでも正義の形をして吸い込んでくる」

 黒瀬真帆はシャッターに置いた指をそっと離した。覗く側と覗かれる側の境界が、ピントの手前で溶け出していくのを、自分の瞳孔の収縮で知る。ファインダーを覗けば安心できた頃は、たぶんもう終わった。鏡の向こうがこちらへにじんでくる。レンズの硝子に自分の目が重なり、境界が曖昧になる。真帆は一度、カメラを下ろした。

 黒田海斗は肩で笑い、しかし笑わない目でマイクに向かった。

 「俺の“死角の地図”は全員の安全のためだ。独占してない。七瀬と蓮、それに真帆が持ってる。欲しいやつは言ってくれ。印刷して配る。俺だって一人で暗い穴を覗きたくない。穴は覗くものじゃなくて、埋めるものだ」

 言葉は粗いが、背中は開いている。場のいくつかの肩が、微かに下がった。

 投票は進行した。端末の画面に白円が開き、ハンドルネームと主張、根拠を書き込むたび、見えないメーターが動いた。説得力スコア。的中率は未来の結果でしか測れないが、今は仮の祭壇に信仰が積まれる。

 結果の集計は、心臓の鼓動より少し遅いリズムで進む。二十三時四十五分、Owlが結果を読み上げた。

 《得票の上位は三名。「加瀬」「黒田」「雨宮」。票の重みは説得力に応じて再配分されています》

 ラウンジの空気が少しだけ軋む。加瀬は舌で奥歯を押し、無言で目を伏せた。雨宮は笑顔を崩さない。演技として笑顔を崩さないのは、役者の矜持か、それとも自分自身の退路か。黒田は肩をすくめ、ひとことだけ。

 「俺に票を入れたやつ、明日、地図を取りに来い。話そう」

 解散の合図は、日付の境界が変わる音だった。誰かが見えないところで用意したタイムテーブルが、空調のリズムを一段落とす。深夜一時、各人が個室へ戻り始める。導線に沿うように天井のカメラが延び、等間隔に赤い小さな点が続く。

 その赤が、一瞬すべて同時に消えた。

 ブラックアウトは瞬き一回分より短い。けれど、白波琴音の耳はそれを確かに捉えた。音が、消えた。空調の呼吸も、遠い足音も、金属の、細い爪のような擦過音も。空気から棘が抜けるみたいに、無音が降りたのだ。

 白波は廊下にしゃがみ込み、耳を塞いで目を閉じた。無音のあと、遠くで小さな金属が擦れる音が生まれ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。足音ではない。構造物の移動。誰かが、何かを開けた音。

 蓮は体の中で何かが跳ねるのを感じ、走った。向かった先は旧視聴覚室。昼間、死角の筆圧が濃く滲んでいた場所だ。廊下の角を曲がるたび、背中に視線が触れる。赤い点は復旧している。点滅の周期が、彼の呼吸と同じ速度で震えている。天井の脈と自分の脈が合うとき、人はよく転ぶ。

 旧視聴覚室の前、扉の隙間から薄い光が漏れている。蛍光灯ではない。もう少し温度の低い、古いプロジェクタの色だ。蓮は掌で汗を拭い、扉を押した。軋む音は、思ったより小さかった。

 中は空っぽに見えた。けれど、中央にベンチがあった。長く低い木のベンチ。例の写真カードと同じ配置。背後のスクリーンは巻き上げられ、壁紙の継ぎ目が蛇のように走っている。ベンチの前には、空気の折れ線。誰かがさっきまで座っていた。

 薄い光が、どこからか投げかけられている。それは蓮の足元を斜めに横切り、ベンチに二重の影を作っていた。ひとつは蓮自身。もうひとつは――遅れて追いつく影。ほんの一秒前の自分の残像。蓮が一歩踏み込むと、光はふっと消えた。瞬間、部屋の空気が沈む。人の気配は消え、ただ匂いだけが残る。古い布の匂い、紙の乾き、手の脂の温度。

 机の上に、一枚の写真カードが置かれていた。まだ光沢が生きている。新しい。表には、ラウンジで議論する彼らが写っている。角度は中段の俯瞰。天井の三番でも二番でもない。人の手の高さ。裏をめくる。鉛筆の粉が指先に移る。

 観察会 二日目

 今日の日付。今日撮られたばかり。誰が、どこで、どうやって。蓮はカードを胸ポケットに入れ、部屋を見回した。目に見える物は少ない。スクリーン、古いスピーカー、配線の穴、ベンチ。それから、扉の裏の鍵。鍵は開いていた。誰かが手で開け、そっと閉めたのだ。

 廊下に出る。金属が擦れる音は、もう遠い。白波は立ち上がっていた。彼女は小さな声で言う。

 「今、音が戻った。戻る音が、痛い」

 蓮は頷き、返す言葉を探して見つけられず、代わりに呼吸を合わせた。耳を澄ますと、ラウンジのほうで人の気配が波のように動いた。夜はまだ終わっていない。

 各自の個室へ戻る導線は細い川のようで、ところどころに淀みがある。淀みには、視線が溜まる。蓮の手首の端末が震えた。通知は短い文を乗せて滑り込む。

 《あなたがたの“観察者”は、内部から選ばれます》

 Owlの囁きは空気の温度を変えないのに、皮膚の下側だけを冷やす。次いで、個別通知。

 《代理観察者を指名します》

 蓮は思わず周囲を見渡した。廊下の曲がり角の向こうで、誰かが立ち止まり、画面に目を落としているのが見える。息を呑む音が、距離を誤魔化さず届いた。

 羽田響だった。彼女は壁に片手を預け、もう片方の手で端末を持っている。画面が彼女の頬に青白い光を投げた。瞬きが一度、遅れる。口がわずかに開き、次の瞬間、閉じる。蓮が声をかけようとしたとき、照明がひと段落ちた。暗転に近い薄闇が廊下を満たし、羽田の表情が薄い影へ沈む。

 彼女は端末から目を上げずに、短く息を吸った。耳元の髪が揺れる。読唇術の真似事でもしない限り、その言葉は読めない。けれど、蓮には分かった気がした。彼女は、今、名前のない名札を受け取ったのだ。

 《あなたは代理観察者です》

 文字は声よりも早く、人を別の場所へ連れて行く。

 ラウンジに戻ると、七瀬が机の上の透明フィルムを指先で押さえていた。地図の端が呼吸みたいに上下している。

 「ブラックアウト、記録できた」

 「一瞬だった」

 「一瞬だから価値がある。均質な監視は、ほんとうは退屈に弱い。退屈は油断を呼ぶ。そこに一瞬の黒を差し込めば、人が動く。動いた人の形が残る」

 七瀬は視線を上げ、羽田の方へわずかに目を走らせた。蓮も同じ方を見た。羽田はまだ廊下に背を預けたまま、画面を見ている。彼女の肩越しに、天井の赤い点が規則正しく点滅を続けていた。さっきの無音は幻のように、もうどこにもない。

 加瀬は個室のドアノブに手をかけ、深く息を吐いてから入っていった。雨宮は笑顔を貼り直すのをやめ、扉の前で長い伸びをした。黒田は自販機で水を買い、半分を一息に飲んで、残りをベンチの足にかけた。水が床を薄く濡らし、蛍光灯の線を歪ませる。真帆はカメラのレンズを拭き、レンズに映る赤い点を指で隠してみて、すぐやめた。宮原は端末へ何かをメモしながら、歩幅を寸分違わず保っている。東雲はスケッチブックを閉じ、鉛筆を一本、耳の上に差した。白波は部屋へ戻る前に、一度だけ両手を耳から離し、空気の音を確かめた。

 蓮はポケットの写真カードを取り出した。ラウンジの俯瞰。今日の色。裏の文字の鉛筆粉を拭い、もう一度、暗い廊下の先を見た。匿名投票は終わり、結果は蓄えられ、説得力は数値になって報酬へ落ちる。儀式は完了し、しかし夜は完了しない。儀式の後には、いつも後片付けがある。見えない皿洗い。そこにこそ、本当の手触りが残る。

 個室に戻ると、机の上の端末が待っていた。さっきの通知の続きは来ていない。けれど、画面の隅に小さな目のアイコンが新しく生まれている。まばたきをしない目。蓮は椅子を引き、座った。背中の骨が一本、椅子の背と正確に重なる。呼吸は浅くも深くもない。中間に留まる呼吸は長く続かないと、どこかで読んだ。

 写真を机に置く。カードの角が光を一滴だけ跳ね返す。観察会 二日目。明日は三日目になるのか。三日目に何が起こるのか。過去のログは七日目で“公開範囲の縮小”を決めた。縮小は、隠すための言い換えだ。言い換えは、よく人を安心させる。

 天井の赤い点は、規則正しい心臓を演じ続けている。蓮は目を閉じた。暗闇の裏側で、羽田の画面の青白さがまだ指先に残っている。代理観察者。彼女は、それをどう受け取るのか。彼女の視線は、今、どこへ向くのか。観察は正義か、という問いは、だんだんと問いの形をやめて、選択の扉に変わっていく。

 夜は静かに厚みを増す。廊下の一点で、金属が二度、微かに鳴る。人の寝返りの音ではない。構造の寝返り。群青キャンパスという大きな体が、今夜、わずかに姿勢を変えたのだ。

 眠りの手前で、Owlの声がもう一度だけ囁いた。

 《おやすみなさい。観察は続きます》

 声は優しくも厳しくもなかった。ただ、事実を告げるだけの音。事実はよく、人を傷つける。

 蓮は夢の戸口に立ちながら、明日の地図を心に描いた。死角は物理だけではない。言葉の死角、合意の死角、笑いの死角。そこへ足を踏み外す前に、誰かの手を掴めるだろうか。手を差し伸べる方法は、まだ残っているだろうか。

 遠くで、また金属が擦れた。今度の音は、ほんの少し、昨日より近かった。

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