第3話 監視装置:死角の地図
午前九時。七瀬智はラウンジの隅、壁面パネルの下に折りたたみ机を据えると、紙コップのコーヒーを片手に黒田海斗へ目配せした。机の上には校舎の図面が拡大印刷され、その上を透明のフィルムが幾重にも重なっている。フィルムの端には細い付箋。通路、階段、踊り場、旧準備室、体育館脇の倉庫。付箋には「縫い目」と書かれていた。
七瀬は言った。
「見える範囲を先に削る。監視の視界が連続しているようでいて、実際はつぎはぎだ。カメラの圧縮ノイズ、集音マイクの閾値の揺れ、配線のジョイント。そこに“縫い目”が出る」
黒田は肩をすくめ、苦い顔でコーヒーを飲む。
「ノイズは嘘をつかない。人間より正直だ。ラウンジの天井の三番、昨日よりも微妙にブロックノイズが増えてる。ビットレートがケチられてるか、同時接続が増えたか。どっちにしても“穴”はできる」
二人はラウンジを起点に、青い光の廊下に出た。角を曲がるたび、七瀬は足を止めて、手首の端末にセンサーログを記録する。黒田は壁際に身を寄せ、レンズの反射を探る。照明の影で、レンズの縁がわずかに白く浮くときがある。そこに、目に見えない楕円の視野が広がる。
階段の踊り場。踊り場の角は監視が重なっているように見えて、実は上下のカメラの境界線だった。段鼻の金属に映る光の切り目。
「ここも縫い目だ」
七瀬は細いペンで図面に印を付ける。
旧理科準備室前の通路では、空調の吹き出し口から出る空気の乱流音に、集音マイクの自動補正が追いつかず、数秒だけ音が落ちる。
「縫い目」
体育館脇の倉庫。扉の金属板に古い傷があり、そこだけカメラの赤外が反射せず沈む。
「縫い目」
通路の角。防火シャッターのレールの内側。視野が直線で遮られ、反対側からの映像がわずかに歪む。
「縫い目」
黒瀬真帆はその後を軽い足取りでついていき、手持ちカメラで試し撮りを繰り返す。揺れ、ぶれ、ピントの抜け。人間の目の揺らぎは、監視の目よりずっと情がある。真帆は、揺らぎを地図に重ねるつもりでいた。
「ここ、手ぶれ補正が効きにくい。天井のファンの回転数と相性が悪いのかも。映像が息切れする」
「息切れする映像は、編集で救える?」
黒田の問いに、真帆は笑う。
「救えるけど、その“救った跡”が残る。跡は、別の証拠になる」
昼前。ラウンジでは別の温度の空気が渦を作っていた。匿名掲示板のタイムラインに「加瀬が夜中に個室の前を徘徊」という投稿が増殖していたのだ。ハンドルは毎回違う。灯台、柵、構造、スキップ、日陰、縫い目。語彙が揃っているのが却って不気味だ。
当の加瀬颯真は、手を広げて否定した。
「俺は寝てた。昨夜はラウンジの停電が戻ってすぐ部屋に戻った。廊下の音は知らない」
宮原蒼が眼鏡のつるを上げ、無色の声で言う。
「否定だけでは説得力スコアが上がらない。反証、あるいは別の説明がいる。たとえば、同じ靴底の音が出る別人、似た歩幅、休憩時間のシャッフル。状況を動かす言葉が要る」
加瀬は口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。
羽田響が、あえて笑顔を作り、軽く手を挙げる。
「じゃ、私が仮説。あの時間帯は空調の風量が落ちるから、音が通る。廊下の遠くの足音が、薄く響いたのかもしれない。人は脅かされると足跡を増やす。私たちは今、脅かされてる」
宮原は肩をすくめる。
「情緒的な擁護は説得力が低い」
「だからこそ敢えてやってるの。議論の偏りが酷いと、誰かが“異音”を入れなきゃ」
羽田は目線で蓮を見た。擁護は必ずしも加瀬のためだけではなく、構造の歪みを和らげるための重しだ。
蓮は心の中で、言葉を丁寧に並べた。
観察は常に観察の正義を自称する。正しさは、いつも自分の側にあると信じたがる。その目は鋭く、しかし鋭さゆえに盲点を作る。盲点は、地図の白い場所に似ている。
東雲沙耶は窓から校庭へ出て、彫刻の台座に触れていた。鉄と石の混成。人の形を抽象化した塊が、午前の光を飲み込み、返さない。
「この素材、飲み込んだ光を返さない」
白波琴音が、その言葉に反応する。
「返さない、光。音みたい。ここ、音も返さない場所がある」
白波の指が台座の裏をなぞると、薄い金属の感触。小さな四角いものが指にひっかかった。ICタグだ。かなり古いタイプ。端の樹脂が剥がれ、銅色のアンテナがのぞいている。
「七瀬くん」
蓮が呼ぶより早く、七瀬は駆け寄ってタグを受け取り、端末にかざした。読み取り音が短く鳴る。暗号化は甘い。ログの索引だけが埋め込まれていた。
画面に現れたのは、過去の「観察会」の記録だった。
参加者同士の合意によって、実験ルールが幾度も改変されている。投票のやり方、報酬の分配、逸脱の定義。運営側のルールは初期条件にすぎず、その後は集団の合意が上書きしていく。合意は、公文書のような形式のログにきちんと残されていた。
七瀬は読み上げる。
「三日目、夜。『無言観察』の提案、全会一致で可決。五日目、朝。『徘徊の定義』改訂、在室率を伴う。七日目。『逸脱の記録』の公開範囲、縮小。理由は“場の雰囲気が悪くなるため”」
花岡楓は顔をしかめ、台座の角に手を置く。
「合意を錦の御旗にして、残酷なルールを正当化できるって、はっきり書いてあるようなものだね。多数決の暴力って言葉は安くない。けど、これ、そう呼ぶに足りる」
《歴史から学ぶ姿勢を評価》
Owlの声が無機質に重なる。その瞬間、廊下の照明がわずかに暗転した。半眼を開けたみたいに、光が薄くなる。
白波が肩を縮め、耳を塞ぐ。
「照明が暗くなると、換気の音が尖る」
羽田は空を仰いで笑う。
「褒められて、照明が落ちるの、嫌な演出だね」
夕刻。七瀬と黒田は、透明フィルムを最後の一枚まで重ね終えた。死角マップが完成する。赤い点は監視の眼。青い線は視野の境界。灰色の斑が、ノイズの縫い目。人の歩みが、針の跡みたいに点々と残る。
最大の死角は、旧理科準備室と旧視聴覚室のあいだに存在した。壁に走る通風ダクトの周辺。ダクトは配管の更新で迂回しており、その迂回に伴い、天井裏に空洞ができている。天井の点検口から入れば、ダクトの影で人が身を丸められる。
黒田が吐き捨てるように言う。
「ここなら、監視に写らず、何でもできる」
真帆はカメラを握り直し、天井の角にレンズを向けた。
「何でも、の中に何が含まれるか。撮れるなら、まだ戻れる」
七瀬は地図の余白に小さく書き込む。
“戻るための穴か、落ちるための穴か。穴は穴だ”
蓮は天井を見上げ、目を細めた。昼間から続く薄い違和感が、ここでようやく形になる。見られているという感覚の角度が、わずかに変わったのだ。上から、ではなく、横から。
誰かが、地図を見ている。自分たちが作っている最中の地図を、別の目が覗き込んでいる。そんな視線。
ラウンジの端末が震えた。匿名掲示板に投稿が落ちた合図だ。
蓮は画面を開く。
投稿は短かった。
死角を見つけた。実験を一段階進めよう。
署名は――「ベンチ」。
心臓の裏側で、指先が鳴った気がした。
ベンチ。
蓮のポケットには、まだ写真カードが入っている。群青キャンパスの中庭、ベンチに並ぶ学生二人。裏には鉛筆で薄く「観察会 七日目」。
その単語が、ここでもう一度現れた。
偶然、ではない。写真を知らない誰かが、ベンチと書く確率はゼロではない。けれど、ゼロに近い。匿名の海に漂っていた時間の断片が、意図を持ってこちらを指差したとしか思えなかった。
同時に、蓮の手首の端末が個別に振動した。画面に白いカードが滑り出し、簡潔な文が並ぶ。
あなたは“観察者候補”にノミネートされました。
条件:死角の地図の提出、初回パネル審査への参加。
権利:観察ログへの限定アクセス。
義務:逸脱の一次報告。
息が詰まる。
観察者――観察する側。
昨夜、壁に投げつけられた問いが脳裏に浮かぶ。観察は正義か。
観察の正義を自称する目は、いつも自分の側にある。そちらへ踏み出せ、と端末は言う。踏み出せば、戻れなくなるかもしれない。
ラウンジの隅で、羽田が蓮の顔色を盗み見た。七瀬は何が起きたか、その一行で察したらしい。短く「来たか」とだけ言う。
黒田は図面に印を増やしながら、顔を上げずに笑った。
「お前、選ばれる顔してたからな。観察されるのが似合うやつほど、観察する側に回される」
宮原は端末の通知を睨み、ため息をついた。
「制度が、倦み始めた」
そのとき、天井の三番カメラの横で、赤い小さなLEDがまた点滅を始めた。点滅はいつもより静かで、しかし確かに早い。白波は耳を押さえ、椅子の背に体を預ける。
「赤いの、脈が上がった。鋭い音がする」
蓮は自分の掌を見た。端末の画面には、ノミネートの承認ボタンが揺れている。押せば、観察のログに触れられる。押せば、同時に誰かを傷つける権利と義務が、名前のないまま自分の手に落ちてくる。
暗くなる。照明が、一段落ちた。夕刻の前の、ほんの一瞬の薄闇。
Owlの声が、感情を持たない声で告げる。
《本日の作業はここまでです。各自、休息を》
誰も立ち上がらない。誰も立ち上がれない。
風が通り抜け、死角の地図の透明フィルムを柔らかくめくった。光を飲み込む素材の彫刻は、窓の外で形を固くしている。
蓮は思った。
穴は地図の外側にもある。目に見える死角のほかに、言葉の死角、合意の死角、笑い声の死角。そこへ落ちないための距離の取り方を、いま、体で覚えなくてはならない。
端末の承認ボタンに指が触れる。
押す前に、蓮は肩越しに、もう一度だけ振り返った。
誰の目が、いまここにあるのか。
カメラの目か、匿名の目か、過去のベンチに座っていた誰かの目か。
赤い小さな脈拍は、彼の指先に同調するように速くなる。
観察者候補。
名札のない名札が、胸の上に置かれる。
押す。押さない。
ボタンは、何も言わない。
けれど、群青の空気は知っている。地図の縁で、後戻りできない線がひっそりと引かれたことを。
「暁」――ハンドルの名を、蓮は心の中で呼んだ。
夜が来る。
死角の地図は、まだ半分しか埋まっていない。
そして、誰かの足音が、またどこかの縫い目に吸い込まれていった。




