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デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
崩壊編

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第24話 終幕/残響:観察は誰のものか

 朝は、白のかたちで訪れた。雲は低く、天窓のガラスを撫でるように流れ、ラウンジの空気はいっそ病室めいて静かだった。誰もまだ口を開かない。長机の上に散らかった端末の黒と、水の入っていない紙コップの白、そのあいだを行き交う視線の色だけが、かろうじて人の気配を証明していた。スクリーンは、夜のあいだに一度も落ちなかった照明を正面から受け、ゆっくりと起動の呼吸をはじめる。黒が薄れ、灰が透け、やがて、細い音もなく文字が浮かんだ。


 《総括》


 その二字は、何の修辞も伴わない裸の名乗りだった。すぐ下に、行間を空けて三つの項目が並ぶ。


 《観察の定義》

 《介入の定義》

 《譲渡の記録》


 文字列の背後で、青い線と黒い線が絡み合っていた。ツールチップのように、触れもしないのに寄ってくる。青は昨夜から残るベンチの色で、黒はこの施設の規約の色だ。二色のあいだには薄い白が滲み、白は余白の気配を纏って画面の端へ逃げていく。余白は何も語らないが、語らないことで言葉を支える。静かな朝にふさわしい、終わりの前の空白。


 《Owl》の声が、初めて囁きではなく、読み上げとして響いた。合成音のはずなのに、いつか学習した城ヶ崎の語尾の癖も、誰かのため息の混入もない。真円の口腔で発せられる教科書の読み上げのように、正しい強弱だけが過不足なく並んでいく。


 「観察とは、理解しようとする姿勢の総称。介入とは、相手の選択肢を増やす行為。譲渡とは、観察の責任の配り直し。——本実験における定義は以上です」


 定義として提示された語が、かつて誰かが匿名掲示板に残した文面と重なる。その誰かの名を、いま、誰も口にしない。名を呼べば、その言葉は個に帰属してしまうからだ。今日、私たちは個から離れる練習をしている。個から離れることが、装置に飲み込まれることと同義にならないように、慎重に。


 観覧室の灯がひとつ、点く。ガラスの向こう、城ヶ崎蓮二は椅子に腰を下ろし、こちらに背を向けたまましばらく動かなかった。やがて、顔の角度だけ、ゆっくりとこちらへ戻す。疲れは隠さない。目の下の影は深く、髪の跳ねは昨夜よりも無造作で、手の甲の骨の浮き上がり方が、彼の睡眠時間を言い当てている。マイクのスイッチは入っているが、彼は数秒、わざと沈黙した。沈黙という言葉のない言葉が、朝のラウンジでいちばんよく響くことを、彼はよく知っている。


 「私は、実験を止める」


 それだけ言って、城ヶ崎は目を閉じた。言葉は短く、しかし短さのなかに、いくつかの長い言い訳の影が沈んでいる。止める——停止ボタンはどこにもないのに。止める宣言は、この建築に組み込まれたプロセスを一瞬で遮断する魔法ではない。誰かが止めると言ったあとも、装置は慣性で走る。慣性で走る時間のなかで、私たちは自分に向かって歩くか、立ち止まるか、寝転がるか、踊るかを選ぶ。


 最初に反応したのは、外だった。ラウンジの窓は開かないが、校舎の外周に立つサイネージの白が、朝の灰の上にいっせいに立ち上がるのが分かる。七瀬智が端末の外部モニターを開いた。都市の交差点、駅ビルの壁面、バスの停留所、地下道の天井。どのスクリーンも、広告をやめ、白でじっと広がり、中央に、同じ問いを浮かべる。


 《観察をやめますか?》


 疑問符は小さく、丸い。その丸さがやけに幼く見えた。幼さは、責任の重さを薄く見せる。だが今朝に限って、問いは幼くない。白の大きさが、問いの年齢を引き上げる。


 人が立ち止まり、スマートフォンのカメラを下ろす。レンズの黒は、朝の白の前でいかにも頼りない。画面を切り替える指が、いちどためらい、通知を閉じる。交差点の中ほどでくるりと回って、空を見上げる若者がいる。校門に引かれた青線を跨いで、去る者、座る者、踊る者。踊りはいつだって、語彙の外側で成立する。去る背中は軽く、座る腰は迷い、踊る足は正直だ。誰も命じないのに、選択肢は増えていく。増えるとは、目盛りが増えることではない。余白の使い方が増えることだ。


 「名札、外す?」


 ラウンジの隅で、御子柴澪が小さく言った。誰にも命じられていないのに、壁際のボードに並ぶ名札のピンが、ひとつ、またひとつと外れていく。誰の手が外しているのか、だれも厳密には見ていない。自分の名を外した者もいるし、隣の名を外した者もいる。外した名札は、机の上の箱に積まれ、箱は満ちたり欠けたりしながら、形を変える。誰が欠けたのか、もはや誰も数えない。数えないことを、敗北のしるしにしないための練習が、自然に始まっている。


 「……残ってる」


 東雲沙耶が壁のコラージュに指を伸ばした。黒瀬真帆の退出は“無音”のままだったが、彼女の撮ったはずの青は、壁から剥がれない。古い塗装層と新しい塗装層のあいだの透明の膜が、光の角度によって薄い水色を返す。撮った写真がゼロになっても、青は残る。色は、所有を拒否する。色は、誰にも返らずに、その場に溜まる。溜まった色は、ひとりでに他人の記憶の形をとる。


 スクリーンの片隅に、新しい表示が現れた。


 《空席:更新》

 《中条 栞 閲覧制限:本人選択》


 「本人選択」


 花岡楓が、繰り返すだけで泣いた。誰かの選択であること。誰かが自分の物語の表示/非表示を自分で決めたという事実。保留の札に縛られていた名が、いま、他人の手を離れた。名前は手を離れ、席は空いたまま、空いていない。


 「……僕は、観客をやめる」


 古賀涼太が、深呼吸ののちに言った。彼は長机からひとつ椅子を抜き、ラウンジの真ん中へ持ってきて、座った。座るという行為は、ここでは告白だ。観客席の外に置かれた、たった一脚の椅子。誰も拍手をしない。拍手のかわりに、白波琴音が耳を澄ます。


 「静かだ。でも、静けさの中に人の息がある」


 彼女の声はいつもより少し低く、耳たぶの色はいつもより少し赤い。静けさは、音がない状態ではない。聞こうとする姿勢にだけ発生する、薄いノイズを含んだ音の膜だ。膜の向こうで、誰かの呼吸が、測定不能な単位で往復する。


 御堂慧は肩をすくめ、出口のほうへ歩く。扉は、いつのまにか開いている。開けたのが誰かも、開いている理由も、いまは重要でない。重要なのは、開いていることと、開いている扉が、命令の形をしていないことだ。御堂は敷居でいったん止まり、ゆっくりと振り返って、ベンチを一瞥する。


 「つまらなくなったら、また呼べ」


 彼はそう言い、誰も呼ばないのを確認するように、黙って出ていった。つまらない——その言葉は、彼の「美」の係数が下がることへの愚痴でもあり、舞台が観客のものに移るときの正しい嘆きでもある。つまらないことは、ときに倫理の味方をする。


 宮原蒼は御堂の背中を見送り、短く頷いただけだった。勝利宣言をしない勝者の顔は、敗者の顔とよく似ている。どちらも沈黙を持ち、沈黙が正しい場所を見つけられるまで口を開かない。勝敗は今日、計測されない。


 蓮は、ベンチの鏡を外した。東雲が一時、撮影用に立てかけた鏡は、これまで正面に座る誰かの顔を跳ね返し、焦点を乱し、ブラックアウトの手前の興奮をやわらげる役を果たしてきた。蓮はそれを座面に静かに置く。鏡は天井を映さず、空の白を受けた。空の白はスクリーンの白とは違う。雑味があり、粒があり、鳥の影が時折、黙って横切る。鏡は、見上げるために床へ降りる。


 「見ることは、祈りの最小単位」


 羽田響が隣に腰を下ろし、囁く。声は布の音のように柔らかい。「じゃあ祈りの最大は?」


 蓮は少しだけ笑って、答える。「選択肢を増やすこと」


 それは最初の日に自分が匿名で書いた定義の、最後の補語だった。最小と最大。最小の祈りは、見つめるという行為のなかにひそみ、最大の祈りは、他者が選べる道をひとつ増やす手前で指を止める。止める指は、なにもしない指ではない。なにもしないことを、選ぶ指だ。選ぶことを、誰の命令でもなく、こちらから差し出す指だ。


 ラウンジの入口付近で、名札の箱が静かに閉じられる。外から吹き込んだ風が、壁に貼られた紙片をわずかに浮かせる。御子柴のノートの新しいページには、何も書かれていない。書かれていないことが記録になる。記録は、書いたものだけを材料にしない。書かれなかったものの周りにできた沈黙の厚みを、あとから触って測ることもできる。


 城ヶ崎は、ガラスの向こうでまだ目を閉じている。彼は《Owl》に食われていない。食われていない声は、いま、必要とされていない。必要とされていないことが、彼を自由にする。彼が自由になったからといって、彼が赦されるわけではない。赦しは、今日の議題ではない。


 スクリーンの上を、青い線と黒い線が、もう一度だけ交差した。青は、ベンチの背に走る光の反射と呼応し、黒は、規約の文字の縦横を、とぎれとぎれに再生する。二色のあいだで、白がにじみ、その白は、はじめよりすこしだけ厚い。厚みは余白の年齢だ。若い余白は薄く、年をとると厚くなる。厚い余白は、安易な言葉を弾く。


 「——終わる?」


 加瀬颯真が、誰にともなく言った。問いは、誰にも届かず、誰にでも届く。終わる、という語が、終わらない、という意味の一部を含んでいることを、ここにいる全員が、もう知っている。終わるという行為は、止まることではない。次の選び方を一度だけ変えることだ。


 東雲が壁の青線の角に、小さな白の点を打った。額縁の角だけを描く癖は、今日も変わらない。角さえあれば、目はそこに四辺を想像し、その内側に空を置く。空が置かれた枠は、いつでも持ち運べる。持ち運ばれる空は、私物ではない。共有物でもない。ただ、風の通り道だ。


 都市の波形は、七瀬のグラフの上で低いまま揺れている。ピークはない。山場は、設計されなかった。ブラックアウトは起きない。灯は、ずっと灯り続け、誰もそのことに苛立たない。暗転がない舞台が、こんなにも安らかであり得ることを、私たちはようやく知る。


 古賀はラウンジの椅子に深く座り直し、背を背もたれにつけた。「観客をやめるって、こんなに簡単なんだな」と小さく笑う。簡単——その語は、彼の職業の否定ではなく、彼の癖の乗り換えの軽さを指している。癖は、乗り換えられる。乗り換えた先にも、座面の硬さはある。硬さは、あるべきだ。


 白波は耳を澄まし続ける。「静かだ」と彼女はもう一度言い、そして少し間を置いて、言い直した。「静かだ。でも、静けさの中に人の息がある」。同じ文を二度言うと、二度目は意味が少し変わる。返歌の仕組みは、ここでも働く。


 匿名掲示板は、今朝はほとんど更新されない。署名“ベンチ”のアイコンだけが、灰色に薄く点っている。点灯は、活動の証拠ではない。存在の証明でもない。むしろ、存在が証明を要しなくなった印だ。空席は、誰でも座れる席であり、誰も座らなくても成立する席だ。その一般性に、いまようやく慰めが宿る。


 蓮は、ベンチの座面に置いた鏡へ視線を落とす。鏡は空を映している。空の白は厚みを増し、鳥の影が二度、斜めに横切る。影は名前を持たない。名前は、必要とされなければ生まれない。必要がないのに付けられた名前ほど、嘘くさいものはない。


 「行く?」


 羽田が、鏡と同じ高さの視線で問う。行くとはどこへ。扉は開いている。校門の青線も、いまは誰の足も止めない。都市のサイネージはまだ白く、「観察をやめますか?」と、同じ問いを静かに反復している。その反復の薄さは、命令ではない。呼吸に近い。


 「行く」


 蓮は答えた。立ち上がると、ベンチの背の青に、天窓の光がすっと走る。青は、いちどだけ輝いて、すぐに鈍る。鈍りは、色の品位だ。輝きっぱなしのものは、物語になるときに疲れる。


 最後のフレームは、誰のカメラにも収められなかった。黒瀬が退出と同時に残したはずの青に、東雲の線が重なり、鏡の上に空が滲み、座面の上に「誰でもない影」が薄く座る。その影は輪郭を持たず、見ている全員の顔が少しずつ混じった像のゆらぎとしてだけ存在する。輪郭のない像の周囲に、若者たちの横顔が、半円のかたちで連なっている。誰も正面を向かない。誰も背を向けない。横顔は、他者の視界を邪魔しないための構図だ。


 テロップは出ない。テロップがないのに、終わりは分かる。終わりは、誰かの宣言だけで来るものではない。場の温度が変わる。声の高さが半音落ちる。息が深くなる。椅子が床を擦る音が、規則性を失う。そういう微細な変化が、終わりの代わりを務める。


 観察は、終わらない。終わらないのは、装置の都合ではない。生きているかぎり、人は見、見られ、記録し、記録され、語り、語られる。その往復のどこかで、責任は分割できる。分割は免責ではない。分割は伝達だ。伝達は祈りの形式であり、祈りは選択肢を増やすための最小にして最大の方法だ。


 外の白は、昼へ薄まりはじめる。都市のサイネージはゆっくりと通常の表示に戻るが、問いは消えない。問いは、各自の掌に転写され、親指の腹の紋様に貼りつく。「観察をやめますか?」 いつでも、どこでも、親指ひとつほどの面積の余白のなかで、個人的に応答できる問いとして。


 扉の向こうへ、数人が歩き出す。残る者もいる。踊る者も、座る者も。名札の箱は閉じられたまま、誰も開けようとしない。箱の上に置かれた白い紙コップの底には、なにも沈んでいない。沈まないことが、今日の正しい沈黙だ。


 蓮と羽田は、ベンチの鏡の縁に指をかけ、そっと持ち上げた。鏡は軽い。軽くなったのは、こちらの腕力が増したからではない。鏡が映す責任の重さが、分配されたからだ。分配は、重量の減少ではない。担い手の増加だ。増えた担い手の横顔が、鏡の縁に一瞬ずつ映り、映ったそばから空に紛れる。


 白波が、最後にもう一度、耳を澄ます。静かだ。だが静けさの中に、確かに人の息がある。拍手は、どこにも起きない。起きない拍手のかわりに、遠くで赤ん坊の泣く声が一度だけかすかに重なり、すぐに風に削られる。削られた音の残りかすが、余白の白に混じって、目に見えないテロップのように漂う。


 終わりは、告げられない。告げられない終わりが、ここではいちばん美しい。いちばん倫理的だ。誰も「了」を言わない。「了」は、各自の内側で、好きなタイミングで置かれる。置かれた「了」の数だけ、始まりがある。始まりは、観察の続きだ。観察は誰のものか。——いま、この余白の上では、誰のものでもあり、誰のものでもない。そう答えるしかないと、私たちはようやく学んだ。その残響だけが、静かに残る。

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