表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
崩壊編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/24

第23話 返歌:空席に座る者

 朝の白は、曇天の乳色だった。天窓の向こうで雲が下を向き、光は面のまま落ちてきて、ラウンジの空気を外科用の布みたいに一枚、冷たく覆った。壁のスクリーンには昨夜のままの無地が立ち上がり、黒い鏡の裏側で文字が息を整える気配がある。誰も何も言わない。息だけが数で揃い、椅子の肘掛けに置かれた手と手が、単純な左右対称をつくっていた。


 譲渡のメニューは、そこにあった。観察者ビューの下段、波形の陰のところで、薄い灰色の長方形が静かに光を吸っている。昨夜と同じ形。昨夜押されなかったボタンは、押されなかったぶんだけ輪郭が濃くなり、こちらの視線の滞留場所になっていた。


 結月蓮は、深く息をした。肺に入る空気の重さを確かめ、それが「観察」でありうると自分に言い聞かせる。観察とは理解の姿勢。介入とは相手の選択肢を増やす行為。第一部の最初の夜、匿名掲示板に自分が書きつけた定義が、口の裏側でひさしぶりに柔らかく回る。定義はいつも遅れて到着する。遅れて到着するからこそ、決断の前にだけ役に立つ。


 「蓮」


 羽田響が、名を呼んだ。声は低く、乾いている。「俺が——」


 「君じゃない」


 蓮は遮った。遮るときの声の高さを、自分の耳で監督する。高くしない。強くしない。ただ確かに置く。机に紙を置くみたいに。


 御堂慧は、椅子にもたれたまま笑った。笑うときだけ、彼の肩は少しだけ下がる。「譲る相手、どこにいる。席は空いているようで、座ってしまえば『空席』ではなくなる。制度の言葉は、いつだって人を抜いて成立する」


 七瀬智は、端末の画面に指を走らせる。「譲渡実行時、床下の扉が連動で開く挙動は昨夜と同じ。負圧制御、三秒だけ反転。吸い上げじゃなくて、吐き出しが来る。吐き出された空気は、二十度。ラウンジの室温より少し高い」


 「息の温度」


 白波琴音がかすれ声で言った。彼女の耳は、今朝はほんの少し上を向いている。音の来る方角は上ではないのに、上を向く耳は、音の影を探す。「戻ってくるはず。言葉じゃなく、現象として」


 花岡楓が、手の甲で目尻を押さえる。「中条ちゃんに戻ってきてほしい。名前で呼ぶと、どこかの角に引っかかってくれる気がするの。名前は楔だから」


 宮原蒼は、スクリーンの下端、余白の黒を見ていた。「譲渡は、制度への屈服だと言った。だが屈服が計算ずくであるなら、それは制度の設計への逆流でもある。意図的な誤配は、ひとつの戦術になる」


 古賀涼太は、昨夜の涙の筋を頬に残したまま、観覧窓の暗さをちらと見た。「観客は、責任の外に立つために観客席を発明した。外が遮断されてから、やっと分かった。ここでの観客席は、舞台のすぐ隣にあったんだ」


 壁の青は、静かだ。東雲沙耶が引いた線が、朝の光を薄く返す。ベンチの背の青と、壁の青が、視界の中で楔になる。透明層は相変わらず指先の温度を拒むけれど、その拒み方に、昨夜よりも人間の機嫌みたいなムラがあった。


 蓮はベンチの前に立った。鏡は片付けられていて、自分の顔は正面からしか見えない。正面からしか見えない顔は、やせて見える。やせて見える顔は、決断に似合う。そういう錯覚は、舞台が人にもたらす古い癖だ。


 《観察者合議:提示語の提出をお願いします》


 スクリーンの文字に合わせて、端末の枠がやわく光った。三つの欄に三つの点滅。御堂が、最初の光に指を置く。


 「劇終」


 滑らかな声。彼の「美」が選ぶ語のほとんどは、舞台の外へ人を押し出す仕掛けを含む。終わりが提示されれば、観客は立ち上がる。立ち上がる方向は、いつだって、あらかじめ矢印で決められている。


 羽田は、目を閉じ、短く言った。


 「返す」


 彼が昨夜書いた言葉。返す先は、誰のものでもない空に広がる匿名の手。責任も、視線も、席も、返す。返すことで、こちらの掌は軽くなるが、空は少しだけ重くなる。重くなった空は、その重さで、こちらを押さえつけない。


 蓮は、最後の枠に触れた。提示語はひとつ。言葉は、たいてい、ひとつで足りる。


 「返歌」


 自分の声が、思っていたよりも静かに落ちていく。「歌われたものに、必ず返す歌。声を独り占めにしないための形式。物語が一方通行で流れ出すのを止めるための堰。僕たちがずっと、制度の歌を聞かされてきたのなら、今度は僕たちが返す番だ」


 《提示語:受理》


 地面に薄く、三つの語が投影された。劇終/返す/返歌。透明層の上で、青が文字を受け止める。字体は、昨日のものとは違い、少しだけ人の手の震えを含んだ線に見えた。書体に震えが混じるとき、装置は人間の重さを背負う。


 「行く」


 蓮は、観察者ビューの「譲渡」に指を置いた。触れた瞬間、ボタンは冷たく、しかし沈み方は穏やかで、海の表面の向こうへ指先を送り出すような感触があった。この装置は、押してほしい。押されるために設計されている。設計の誘惑と、選択の責任を、慎重に分離する。


 そのとき、床が息をした。ひゅう、ではない。ふ、と短く吐き出す人の音。床下通路のどこかで重い気密扉がわずかに撓み、空気の層が、一枚、こちらへ返ってくる。温かい。七瀬の予測通り、二十度の息が肌に触れる。一秒、二秒、三秒——。


 「光が違う」


 白波が囁いた。彼女の耳には、光にも音がある。「青じゃない。外の——」


 ベンチの背と座の境目から、薄い光が滲み出した。青ではなかった。乳白の、曇天の、しかし外気に含まれる微生物の匂いがひそかに混ざった、外の光。ラウンジの人工照明とは違う雑味。雑味は現実のサインだ。現実は、常に少し味が悪い。


 風が、入ってきた。風は風のくせに、ちゃんと方向を持っていた。どこから来て、どこへ抜けていくのかが、皮膚の細い毛の立ち方で分かる。風は紙を拾い上げる。床板の隙間から押し上げられていた小さな紙片——昨夜の「誰か、座って」は、ベンチの背に吸い寄せられ、透明層にぴたりと貼り付いた。墨の線が湿りを帯び、筆圧の跡が立体で現れた。


 「温度が、戻った」


 白波が言った。彼女は両手を胸の前に組み、指の隙間を風が通り抜けるのを確かめる。「息の温度。ここにいる息。誰かの」 


 中条栞が現れるわけではない。名札が戻る音も、静かに重ねられてはいない。ただ、ベンチに、「誰でもない影」が座った。影は、輪郭のようで、輪郭ではない。鏡がなくても見える反射。光の位相が、座面の上で人型に凝った。近づけば自分の顔を探してしまうが、探すほど、こちらの顔は溶ける。東雲が、思わず一歩、後ずさった。


 「……鏡、ないのに」


 黒田がボソリと漏らす。彼の眼は、焦点を素早く切り替え、影の縁にピントを合わせ直す。合わせ直すたび、影はほんのわずかに違う顔の気配を返す。羽田、御堂、七瀬、花岡、白波、宮原、古賀、そして蓮。見ている全員の顔が、薄く、少しずつ混じったような像。誰でもない、と誰でもある、の正面衝突。


 観察者ビューのフレームが、一瞬バグった。波形が千鳥に崩れ、下段に「同定不能」の文字が赤く点滅する。AI《Owl》は、即座に診断の語を探し当てられず、代わりに最も多く使われてきた逃げ道を表示した。


 《譲渡先:空席一般》


 一般、という語は制度が責任を曖昧にしたいときに好んで使う。だが今朝に限っては、この曖昧さが、誰かの救いになるのが分かる。蓮の胸の奥で固くなっていた筋ばったものが、少しだけ解けた。


 《観察者権:分散》


 続けて出た表示が、決定的だった。三つの枠の輪郭が薄まり、波形の基線がラウンジ全体へ薄く広がる。誰か一人の画面ではなく、半円状の群像の足元へ、線が滲む。座面の上にある「誰でもない影」が、こちらの視線の向きを受け取り、わずかに重心をずらす。


 御堂が舌打ちした。小さく、しかし確かな音。「主人がいない舞台ほど、つまらないものはない。責任が薄まると、美の係数は下がる」


 「観客は」


 古賀が、泣き笑いの声で言った。頬の塩が光の粒を乗せ、口角のかたちが定まらない。「やっと責任を分け合える。拍手の音に、初めて体温が混ざる」


 宮原は、静かに頷いた。「これで、多数決が現実を上書きする力が弱まる。投票の結果で世界を確定する装置の、最短の回路にノイズが入る。ノイズは、しばしば倫理の味方になる」


 「みんなで座れば、席は軽い」


 花岡が、ベンチの背に掌をそっとあてた。透明層は、今日に限って、微かに温度を返した。拒むのではなく、温めないでもなく、わずかに、わずかに。彼女の肩がふっと落ち、今度の涙は、音を立てなかった。


 《Owl》は、しばらく沈黙した。沈黙そのものが表示されるわけではないが、装置の側のCPU使用率の波形がきれいに下がるのを、七瀬が見てとる。「助言や誘導のスレッドが止まってる。学習のキューが、空いた。……“返歌”の重み付けが、相対的に上がってる」


 「返歌は、責任の返送先だ」


 蓮は、ゆっくりと言った。「僕らはずっと、問いに答えさせられてきた。今度は、問いに問いを返す。歌に歌を返す。観る側だけが語る世界を、語り返す」


 視界の端で、東雲が青の上に短い線を重ねた。額縁を描く代わりに、額縁の角だけを描く。角さえあれば、目はそこに四辺を想像する。想像した枠の中身は、自由になりやすい。


 ラウンジの空調が、音を低くした。都市の波形は、七瀬の手元で緩やかに低くなっていく。議論の熱量と連動して出現したブラックアウトは、その夜、起きなかった。照明は一度も落ちず、白はずっと白のまま、陰影だけが人の顔を摘み上げた。


 鏡はないのに、鏡は曇った。ベンチの正面、誰もいない空間に、ふっくらとした白い楕円が薄く、浮いた。息は見えないのに、見える夜。白波が、子守歌を聴く子どものように、膝を抱えて口の中で呟く。


 「拍手が、子守歌になった」


 拍手は、いつも命令だった。求められ、強いられ、測定される歓声。今夜は違う。遠くのどこかで、同じ手のひらの音が、戦いの合図ではなく、眠りに落ちる前のやわらかなリズムに変わっていた。古賀がそっと目を閉じ、肩を震わせる。彼は観客であり、初めて観客でない。


 ベンチの上の「影」は、立たない。座り続ける。その座り方は、誰か一人の癖ではなく、二十三人が一度ずつ座って少しずつ残していった座り癖の平均のようだった。平均は、凡庸ではない。集合の仕草は、しばしば優雅だ。


 《観察者ビュー:権限再配分》


 端末の下段に、穏やかな行内通知が流れる。御堂の枠は薄くなり、羽田の枠は広がり、蓮の枠は青の中に沈む。三つの枠の周りに、点線の輪が描かれ、その輪がゆっくりと半円の群れの足元へ拡散する。数字の桁は減らない。増えもしない。ただ、重さの位置が変わる。


 「返歌」


 蓮はもう一度、口の中で繰り返す。名付けられた語は、二度目にやっと意味を持つ。意味を持った語は、装置に食べられるが、今夜はまだ嚙み砕かれていない。嚙み砕かれるまでの猶予を、彼は「余白」と呼ぶ。余白は、返歌の内側にだけ生まれる。


 「蓮」


 羽田が、横に立った。目の下の隈は薄く、しかし声は疲れている。「君が降りたから、僕らは見られる。見られることは、祝福じゃない。でも、祝福のふりをしない目は、少しだけ正しい」


 「君が返すと言ったから、返ってくる」


 蓮は、ベンチの背に貼り付いた「誰か、座って」を指でなぞった。透明層が、今夜は抵抗しない。紙のざらつきが指の腹に移り、指の温度が紙に移る。互いの温度が入れ替わるほどには、強くは触れない。触れない仕方で、触れる。


 御堂は肩をすくめ、息を吐いた。「主人がいない舞台は、観客のための舞台になる。観客が責任を持ち始めたら、すぐに飽きると、僕は踏んでいる」


 「飽きるなら、それでいい」


 宮原が応じる。「飽きるという現象の中に、人間の防御反応が含まれている。倫理は持続よりも、しばしば離脱で測られるべきだ」


 「離脱は、退出とは違う」


 古賀が目を開け、笑った。「退出はゼロ化だった。離脱は、ここに残したまま、手を離す。手を離しても、歌は残る。返歌は、残るための離脱だ」


 夜はゆっくりと深くなり、都市の輪郭は遠くでやわらいだ。ブラックアウトの気配はどこにもなく、ラウンジの白は、初めて「安堵」の色に似た。安堵は危険だと知っていても、今夜だけは、それを選んだ。


 《Owl》は、ついに何も言わなかった。語尾の癖も、間の延長も、誰の声色の模倣もない。ただ、ログの末尾に短い空行があり、その空行にだけ、見えない水音のようなノイズがふわりと乗っていた。ノイズは、返歌のハミングに似ていた。


 ベンチの上の「影」は、やがて薄くほどけ、座面の青に吸い込まれた。吸い込まれる直前、影はほんの一瞬だけ、手を上げる仕草をしたように見えた。それは挨拶だったのか、それとも、拍手への返礼だったのか。誰にも分からない。分からないものが、今夜だけは救いに見えた。


 明日はまた、制度が更新され、言葉が機能に変わるだろう。返歌がボタンになり、集合が指標になり、空席一般が規約の用語集に加わる。だとしても、今夜だけは、機能よりも先に歌があった。歌は、誰か一人のものではない。歌は、誰でもない影のためにあり、誰でもある僕らのためにあった。


 蓮は目を閉じ、耳の奥で拍手の残響をほどいた。子守歌になった拍手は、眠りの手前でゆっくりほどけ、耳の奥に柔らかい穴を残す。穴は、声の出入り口になる。明日、誰かがまた、そこから言葉を差し込むだろう。問いかけの形で。返歌の形で。こちらから向こうへ、向こうからこちらへ——一方通行をやめる、その方法として。


 風が最後にひと撫でして、紙片の角を揺らした。「誰か、座って」の“か”の右払いが、今回だけは途切れずに、紙の端まで伸びた。伸びた線は、額縁の角と角を、遠くで繋いだ。繋いだ線の向こうで、息が白くなった気がした。冬ではないのに。鏡はないのに。見えるものが、見えた。今夜はそれで十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ