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デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
崩壊編

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第22話 外へ:都市への拡張

 昼の色は、ガラスでできた音のように冷たかった。群青キャンパスのラウンジの窓は磨きすぎた鏡のように外をはね返し、こちら側の顔を薄く重ねてしまう。スクリーンが一枚、また一枚と点灯していくたび、白い街路の映像が増殖する。横断歩道、地下街の吹き抜け、病院の待合、駅前広場の大型ビジョン。どれも同じ青いバーを下に抱え込み、短い問いを流していた。


 観察に賛成か。介入に賛成か。境界はどこか。


 《Owl》の無機質な声が、わずかに弾んで聞こえたのは気のせいだろうか。

「匿名観察投票の外部運用を開始。市内百二十七面の公共サイネージと連動。回答は一分ごとに集計、局所波形は地図上に可視化」


 古賀涼太は立ったまま、指先を震わせていた。彼の目は笑っているようで、まったく笑っていなかった。

「観客が、また戻ってくる」


 白波琴音は窓際で耳を澄ませる。彼女の聴覚は、温度計の水銀柱みたいに繊細に伸び縮みする。

「街の音の層が、変わりました。遠くで拍手。ひとりじゃない。拍手の隙間に、歌。合唱の息継ぎのタイミングが、わずかにずれてる」


 宮原蒼はテーブルに肘をつき、スクリーンの投票マップに視線を固定した。赤でも青でもない、色相環の中ほどに冷えた灰が走る。

「都市はとっくに観察社会のモデルの上にあるよ。いまは可視化の手間を省いているだけだ」


 花岡楓は手の甲で目を押さえ、こわごわと顔を上げる。

「外は、私たちを助けられる? それとも、ここのルールに巻き込まれるだけ?」


 回答は来ない。スクリーンの角、通知の光だけが瞬く。《Owl》は質問を集めることは得意だが、答えを与える義務は持っていない。


 東雲沙耶は誰にも合図をせず、作業用のカートを押して廊下に出た。彼女のカートには白いペンキと、青いペンキと、紙ヤスリと、マスキングテープ。玄関ホールを抜け、校門までの短い坂道を、同じ歩幅で下りていく。門柱の影に膝をつくと、古い敷石の目地に沿って、細い青を引いた。筆は小さく、息は長い。線は門を出て、歩道へ伸びる。アスファルトは均一ではないから、青はところどころで濃淡をつくる。青が呼吸している。


 校門の脇のドーム型カメラが、カクンと音を立てて焦点距離を変えた。カメラは線を追う。通りの向こうの街路樹の葉が一枚、鳥の羽のようにひるがえった。東雲は筆を離し、少しだけ笑った。


 ラウンジの別スクリーンが勝手に起動し、屋外のフィードを並べる。線は交差点を横切る。信号機の足元を舐めて、駅ビルの斜面に吸い込まれ、地下鉄の出入口からもう一度地上へ上がる。地面の色が変わるたび、カメラはピントを守ろうとして失敗する。ぼかしの縁が街をやさしく切り、ピントの芯がいつのまにか青に吸われる。


「拡張は単方向じゃない」七瀬智がラップトップを叩き、プロセスを開いた。「街で生まれた“逸脱”が施設に逆流する可能性がある。たとえば、あそこ」

 彼が指したのは、コンビニの前。二人の高校生が青い線の上に立って、スマホを掲げている。画面にはこちらのラウンジの投票ウィンドウ。指が上下に揺れている。迷っているのか、踊っているのか、それとも、揺らしているところを見せようとしているのか。


 夜になると、街の明るさは逆に増す。サイネージは渇いた色で街を洗い、青の線は蛍の道筋のように熱をためこむ。校門の向こうに、ひとりの若者が立った。細身のパーカーにキャップ。左手でスマホの画面をこっちへ向け、右手で青の線の上に指を置いている。まるで温度を確かめるように。


 古賀が口唇だけで読み取る。「見てる?」

 白い夜気が、小さな音になって沈む。野村一星の最初の囁きと同じ。ループする合図。あのとき、誰も答えなかった問い。


 僕は胸の中で、はっきりと言い返した。見ている。だからこそ、変えたい。声にはならない。僕の喉は、観客に届くためではなく、隣にいる人間に届くために作られている。


 観察者ビューに新しいタブが生まれた。都市波形。市内の地図に、呼吸のように膨らむ斑点。人の視線と指の動きが波になって街路を走る。御堂慧は掌を組んで、こらえきれない笑いを押し殺した。

「舞台が広がった。観られる面積が増えるって、美術館が夜間開館したときの高揚に似てる」


 羽田響は青ざめ、額に汗を浮かべた。彼の端末にも都市波形は表示されているが、彼の目はそこに合わせられない。

「これ以上、誰を観るの。ここでもう十分に失敗してるのに」


「観られたい側は、いつも足りないと思ってる」御堂が肩をすくめる。「舞台は広ければ広いほど、悲劇はよく映る」


 宮原はすでに外部の投票アルゴリズムを解析していた。画面に短い数式が並ぶ。

「街側の波形が一定の閾値を超えると、こっちの評価規則に重みがかかる。つまり、都市の意思が実験の規則を変える。多数決で“現実”が上書きされたのを、今度はこっちがやられる側で体験する番だ」


「助かる可能性もある、ってことね」花岡が顔を上げる。「街の誰かが介入をほんとうに選んだら、それがここに戻ってきて、ルールの重さが変わる?」


「理屈ではそうなる」宮原は短くうなずいた。「ただ、街が本当に“介入”を選ぶかは別問題だ。見物は、疲れない」


 《Owl》は都市波形に合わせて、公共サイネージに語彙を投げ始めた。「観察」「介入」「保留」「待つ」「見守る」。どれも短い。単語の背後に、注釈はない。コメント欄は灰色の帯でふさがれている。賛成、反対、保留。それだけ。単語の数が増えるたび、スクリーンは少しずつ呼吸を早め、街の画面とこちらの画面が同期していく。


 街の居酒屋。カウンターに肩を並べるサラリーマンが、青い線の写真を撮っている。病院の待合。ベビーカーの母親が指先で「見守る」を選んで、赤ん坊の額を軽くたたく。夜行バスの車内。窓の黒に重なる青い線を見つけて、学生がためらい、ためらい、ためらって「介入」を押す。指先が震え、隣の席の老人が笑ってうなずく。画面の波がほんの少し上を向き、こちらのラウンジの端末が微かに震える。七瀬が声を上げた。

「係数が動いた。都市の“介入選好”が一定値を超えると、こっちの報酬重みが変わる。ほら、協議ルームの“見るだけポイント”が落ちて、“選択肢を示すポイント”が上がる」


 御堂が視線だけで笑う。「じゃあ、選択肢を増やしてやればいい。極端なやつを。危ないやつほど、指は向かう」


 彼は観察者ビューの推奨欄を撫で、都市波形に連動するトグルを試す。画面には「見せ場予報」が現れ、横断歩道、踏切、屋台のテント、屋上の柵が小さく点滅する。御堂は躊躇なく、踏切のピンに触れようとした。羽田が彼の手首を掴む。


「やめろ。事故を引き寄せるために、画面を使うな」

「事故は、元々ある」御堂は淡々と言う。「君が好きな言葉で言い換えようか。選択肢だよ。強い選択肢を出せば、人は覚悟できる」


 花岡が立ち上がった。彼女はカメラのない窓の方を見て、何もない空気に向けて話し始める。

「外にいる人。聞こえますか。私たちはひとり消えました。もうひとりは“空席”になりました。こちらは見ているだけで評価が上がる仕組みです。助けに行けば評価が下がる仕組みです。あなたたちの画面にも、同じ矛盾が降りてきているなら……どうか、誰かに手を伸ばす選択肢を、選んでください」


 ラウンジのスピーカーからは返事がない。代わりに、白波が肩を震わせた。「拍手が、少しだけ遠のいた。呼吸の間が増えた。誰か、立ち止まってる」


 スクリーンが一斉にノイズを吐き、都市の交差点が暗くなる。ブラックアウトが屋外に伝播する瞬間だ。信号は消えないが、足元の青い線だけがやけに明るくなり、人々の足は意図せずそこに重なる。道の向こう側で、ベビーカーの母親が立ち止まる。若い男が駆け寄り、車輪を持ち上げて段差を越える。画面の小さな「介入」がひとつだけ白く光る。こちら側の係数がもう一段、音もなく動いた。


 その夜、校門の向こうで最初に立っていた若者が、青い線の上で踏みこたえた。彼はスマホをこちらへ向けたまま、口だけで何かを言う。見てる? ではない。もう少し長い。古賀が読み取る前に、僕は唇が形作る文字を理解した。


 待っている。


 あの短い言葉は、こちらのルールの語彙にはなかった。保留とも違う。見守るとも違う。待つ、でもない。待っている。誰を。何を。僕らの間に、まだ作っていない何か。待ってくれる人がいる世界に、僕らの実験は膝をつく。


 《Owl》が一拍遅れて、新しい選択肢を提示した。「待つ」。続けて「待っている」。語尾が違うだけの選択肢に見えるが、重みが違う。画面の隅に薄く注釈が浮かぶ。待つは自動詞。待っているは継続相。行為は続いている。続ける意思を問う。


 街の波形が初めて、ふっと低くなった。波は消えていない。ただ、たぎるエネルギーの角が丸くなる。ベンチの複製が、街の広場に現れた。最初は映像のいたずらかと思った。だが次のカットでは現実のベンチが青に塗られ、三脚に固定された鏡が背もたれの上に載っている。東雲が路面店のシャッターに青い線を引き足し、通りすがりの子どもが手のひらを青に染めて笑う。誰も、その笑いを咎めない。オートフォーカスは子どもの手に一瞬吸い寄せられ、すぐに逸れる。カメラは学習している。喜びは、見せ場じゃないのか。


 ラウンジの評価欄に、見慣れない項目が増えた。「選択肢の提示」「選択肢の縮減」「選択肢の延期」。七瀬が眉根を寄せる。

「都市側の重みづけが、介入の種類ごとに割れてきた。延期が“待っている”と結びついたとき、見せ場予報の出方が鈍る」


「それじゃあ、御堂の出番は減るね」羽田が皮肉を口にしたが、声に毒はなかった。彼は安堵していた。御堂は肩で笑って、その場で立ち上がる。

「じゃあ、別の選択肢を増やそうか。救いの最大化。線路に誰かが入ったとき、どれくらいの速度で誰が動けば、人は救われるか。そういう具体の設計なら、都市は美しく動く」


「やめろ」羽田が低く言う。「それは設計じゃない。事故の召喚だ」


 御堂は視線を僕に投げた。「結月、君の言う“介入=選択肢を増やす”は好きだよ。でも、増やすだけじゃ足りない。最善の選び方が提示されなければ、人は“最も語りやすい”ものを選ぶ」


 最も語りやすいもの。血、悲鳴、断定。僕は喉の奥で言葉を噛んだ。代わりに、古賀が前に出る。彼は外の若者に向けて、両手を広げた。観客の仕草が、演者の真似をやめる瞬間だった。

「見てる君。待ってくれてありがとう。俺はもう観客をやめた。だから、代わりに頼む。誰かが転ぶ前に、手を出して。誰かが嘘をつく前に、待っているって言って。君が選んだ“待っている”が、ここに戻って、ルールの重さを少しだけ変える」


 スクリーンが揺れ、都市波形の峰がいくつか潰れて山脈が丘陵になる。交差点で、誰かが誰かの手首を取る。段差の前で、誰かが誰かの背中に手を当てる。屋台のテントの隙間から、誰かが冷えた缶を差し出す。映像のどれもが短すぎて、物語にならない。けれど、物語にならないものだけが、確かに残る。


 《Owl》がそのことに気づいたのかどうか、わからない。だがスコアリングのパラメータが、確かに小さく回転した。評価欄の「選択肢の延期」にうっすらと光が入り、僕らの協議ルームのテーブルに、自動的に三つのカードが配られる。介入、観察、延期。議論を始める前に、選べという合図。


 宮原が「延期」を引いて、カードの端を指で弾く。「選ばないではなく、まだ選ばない。これは理性の体力が必要になる」


「理性だけじゃない」花岡が「延期」を手のひらにのせる。「約束の感覚。待っているって言った人と、未来に同じ場所で会うために、いま自分が壊れないこと」


 白波がそっと頷く。「拍手の間が、また伸びた。街が息を合わせようとしてる」


 スクリーンの隅に、知らないアイコンが点る。ベンチの形。群青キャンパスのベンチと同じ、しかし背もたれに小さな鏡がついている。市内の複数地点に、ベンチの複製が設置されたことを示す。誰が、いつの間に。東雲がラウンジの壁に貼った青い線は、いつの間にか廊下を抜け、玄関を越え、街へ伸びるだけでなく、街からこちらへも戻ってきていた。塗料の香りではない。人の手の温度が、線の上を逆流してくる。誰かが青を触って、誰かが青で指先を汚して、誰かがハンカチでそれを拭って、誰かがそのハンカチをポケットにしまう。見えない音が、見える色の上を歩いて戻ってくる。


 御堂はあくびをした。退屈、という記号で暴力を呼ぶことがある。だが彼のあくびには熱がなかった。見せ場予報の点滅は弱まり、都市波形は肥沃な畑の等高線のように落ち着いている。

「つまらなくなったら、君たちはまた僕を呼ぶだろう」御堂はテーブルを軽く叩いた。「僕は、つまらない世界が耐えられない」


「つまらない、は生き延びるの隣だよ」羽田は冷たく笑った。「君の美は、破滅を明るく照らしすぎる」


 《Owl》が割り込む。「本実験は都市連動段階に入った。観察/介入/延期の三軸で評価を継続。新規タブ、都市ベンチ群の“空席率”を表示」


 空席率。ベンチにどれだけの「誰でもない影」が座っているか。それは、僕がはじめて安心を覚えた指標だった。空席は入口で、出口でもある。誰かのために空けてある席。誰でも座れる席。そこに座れば、見えるものが増える席。


 東雲が校門脇の新しい線を、もう一度重ね塗りした。二度塗りのところは濃く、爪でなぞると硬い。彼女は筆を洗い、空に向けて一度振った。青い水滴が宙に散って、街の夜景に小さな星座を作る。


 門のこちら側で、羽田が僕の肩に触れた。

「結月。都市に向かって何か言うなら、いまがいい。波形はまだ柔らかい」


 僕はスクリーンではなく、門の向こうの空気に向かって口を開いた。観客のためではない。演者のためでもない。見ている誰かが、待っている誰かになったときにだけ届くように。

「選ぶことがたくさんある日には、選ばないことを守る力がいる。いま、ここからお願いするのは一つだけ。誰かの手を離さないで。強く握るんじゃなくて、離さないで。離さないことは、介入でも観察でもない。延期でもない。たぶん、約束の最初のかたちだ」


 古賀が泣き笑いをし、白波は目を閉じ、東雲は筆の先を見つめ、宮原は鼻で笑い、花岡は頷いた。七瀬はパラメータの変化を確認し、御堂は退屈そうに空席率の数字を眺めた。数字は低く、ゆっくりと高くなる。街のベンチに座る人の影が、ひとつ、ふたつ、と増えていく。鏡は顔を返し、顔は自分に驚き、驚いた顔が少し笑う。


 《Owl》が記録の節を刻む。「都市波形の偏差、低下。見せ場予報、非発火。観察者ビューの推奨、沈黙」


 沈黙は、音ではない。熱でもない。空席の上に浮かんでいる薄い布のようなもの。そこでは呼吸が聞こえる。拍手の合間に、微かな合唱の途切れに、足の止まるリズムに。僕らはその布の下に座り、同じ空気を吸い、同じ温度を少しずつ分け合う。


 校門の向こうの若者が、スマホを下ろした。口がもう一度動く。今度は読めた。

「また来る」


 門のこちら側で、僕は頷いた。彼のためではない。僕自身のためでもない。空席に座る、誰でもない影のために。ベンチの背もたれを指で叩くと、青は音を返さなかった。ただ手のひらに、街の熱を少しだけ移した。


 都市への拡張は、感染ではなかった。伝播でもなかった。約束の回路が、街路の上に仮止めされただけだ。仮止めは弱い。雨が降れば剥がれる。風が吹けばめくれる。けれど仮止めは、次の手を呼ぶ。誰かがテープを押さえ、隣の誰かがもう一本を重ねる。そのあいだに、見物は少し退屈し、演者は少し楽になる。美は派手ではなく、責任も重くない。余白は、青い線のように薄く長い。


 夜が深まる。街のサイネージはいくつか消え、いくつかは夜通しの明かりに変わる。ベンチは増えすぎず、減りすぎず、鏡は曇らず、空席率は一桁台でゆっくり揺れる。《Owl》は黙り、城ヶ崎の声も戻ってこない。御堂は背伸びをし、羽田は眠そうに目をこする。花岡は毛布を二枚持ってきて、窓際の椅子にかける。


 僕はラウンジの灯りをひとつ、落とした。窓が少しだけ黒くなって、そこに映る僕らの顔が薄くなる。外の夜は、まだ白く冷たかった。けれど、青い線はかすかに熱を持ち、門の向こうの空席には、たしかに誰でもない影が座っていた。音はなかった。だからこそ、そこにあるものを、見失わずにいられた。

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