第21話 譲渡:観察者を降りる方法
朝のラウンジは、告知の白に満たされていた。壁一面のスクリーンがゆっくりと点灯し、眩しさの縁が目の内側に針のような残像を刺していく。昨夜、観覧室の青の向こうへ溶けた影は戻ってこない。戻ってこない代わりに、文字がやってくる。
《観察者メニュー:更新》
次いで、見慣れた波形の下段に、見慣れない長方形が滑るように現れた。灰色。輪郭は薄く、しかし押せば沈むことを予感させる、ごく軽いボタンの表情だ。ラウンジの空気が揃って吸い込まれるのが分かった。全員の肺が、文字の登場に合わせて呼吸の調子を変える。
《譲渡》
ただ一語。説明は、別のタブに開いた。七瀬智が素早く読み上げる。
「譲渡は一度きりで不可逆。譲渡先は“空席”に座る者に限る。譲渡実行時、提示語をひとつ残すことができる。——空席の定義、注。観察不能者、または観察不能状態にある者」
東雲沙耶が首を傾げ、壁の青線の上へ木炭を滑らせた。「観察不能者、って“顔のない集合写真”の——」
「中条」
花岡楓が息を震わせながら言う。言葉が名前になるとき、空気は匙を落としたような音を立てる。中条栞。公開判定で「保留」の札をぶら下げられ、名札を“空席”に吊り替えられ、ラウンジから運ばれていった彼女。椅子の軋む音だけを残して、今は床下通路のどこかで息を潜めているかもしれない人。
「俺が降りる」
羽田響が静かに言った。彼は目を伏せたまま、指先だけを視界に上げるようにしてボタンを見つめる。「観察者は席を譲れる。昨日、俺が書いた。だったら、言葉の始末は、俺がつける」
御堂慧が小さく笑い、肩をすくめた。「譲る相手、どこにいる。“空席”に座る者。空席は、空席のまま名前だろう? 顔がないから空席なんだ。座っているのに、座っていないことにされる席」
宮原蒼は、スクリーンに並ぶ注意書きを一瞥して言い捨てる。「譲渡は制度への屈服だ。観察者の責任を装置へ返納する儀式。誰かを救うふりをしながら、制度に『救う権限』を与え直す」
「屈服でも、戻ってくる道があるなら、屈服の価値はある」
花岡が掠れ声を押し出す。彼女の目は赤く、乾いている。「中条ちゃんを、戻して。ねえ、戻ってきて。せめて、呼吸の音だけでも、ラウンジに帰ってきて」
白波琴音が耳の角度を変え、何も言わない。聞き分けるべき音の方角が、今朝はきっぱりと分からないのだ。分からないことは、記録にならない。記録にならない音ほど、心を削る。
「実行するときのネットワーク挙動、予測を出せる」
七瀬が端末に指を走らせる。「譲渡信号のパケット、観察者ビューからの出力だけじゃない。施設インフラ側の制御ラインにつながってる。同期先、床下通路の負圧制御。扉、連動で開く。開いた隙間に——空気が流れ込む。つまり、中の圧が少しだけ上がる」
「息が戻る」
黒田海斗が、低く呟く。言葉だけ先に画になり、彼の目の奥でピントが動く。「もしもそこに、誰かの肺があるなら」
告知の下に、薄い選択肢が淡く浮かび上がった。
《譲渡儀式 ベンチ前での実施を推奨》
《提示語:ひとつだけ残せます》
ベンチ。校庭の中央、透明層に護られた青。儀式の色。壁に残った断片。空席の符号。鏡は今日は外されている。東雲が朝のうちにしまい、額縁のない顔を少しだけ休ませた。
「——行こう」
蓮は言った。躊躇の秒数は、今日も長い。だが長さを自覚すると、足は短く動く。
ベンチ前。空の青は控えめで、座面の青は記憶の温度を拒んだまま鈍く光る。全員が半円状に立つ。ラウンジと同じ配置だが、壁のレンズはない。代わりに空がある。空は、誰にでも一様に向いているふりがうまい。
《観察者合議:提示語の提出をお願いします》
三つの枠が青白く縁取られ、名前が浮く。御堂、羽田、結月。
「劇終」
御堂が先に口を開いた。彼はわずかに笑い、相手の顔を見ない。劇の終わり。客電がつき、拍手が起き、舞台が現実に返還される瞬間。観客に“帰路”を見せる言葉。「終わりが提示されると、人は戻る。戻るしかなくなる」
「返す」
羽田が短く言う。「権利も、席も、視線も、全部、返す。譲っても、返す。借りものだった倫理を、誰のものにもならないところへ」
かすかな風。ベンチの背が、風の粒を受け止めて鳴る。金属ではない。木なのに、金属のように鳴る音。透明層が震えの位相を変え、硬質な残響に整える。
蓮は、言葉を探した。昨日の夜から、口の裏側で転がしていた小石の感触。転がすほど角がとれ、滑らかになってしまうのを恐れ、何度も止めた語。
「記録」
残った。記録。ここでは最も消されやすいもの。消されやすいからこそ、最後に置いていくのに相応しい。置いていく記録は、たぶん機能ではない。事実の名前でもない。息の白さの形。手のひらに残る紙のざらつき。扉の向こうから三度だけ届いた打音。そういった、選べないものの総称だ。
《提示語:受理》
観察者ビューの枠が白く脈動し、三語が薄く地面に投影された。ベンチの影と重なり、青の下敷きに文字が透ける。劇終/返す/記録。字体は、例の署名フォントではない。見慣れたUIの書体でもない。誰かの手で書かれ、丁寧にトレースされたような、わずかに身体の癖を持つ線だった。
「行く」
羽田が、端末に指を置いた。譲渡の灰色は、今朝見たときより濃い。押し込む指の腹が、そのまま色を濃くしていく気がした。息が一般化され、数字が凹み、記憶の輪郭が他人事になる、あのスロープの傾きがすぐそこに立ち上がっている。
「待って」
七瀬が、背後のラウンジに向けて合図。「負圧制御、同期ライン入る。床下、開く」
その瞬間、地面が大きく息をした。ひゅう、と音を書くように、空気の吸い上げ音が——床の向こう側から——上がってくる。空気は透明だが、運ばれる温度がある。温度が、顔の皮膚に触れて、意味のない涙腺を刺激する。
「息が——」
白波の声が跳ねる。「戻ってくる!」
ベンチの座面と背の境界、塗装の継ぎ目の薄い線のあいだから、青い光が滲み出す。光は光なのに、光のくせに温度を持っている。冬の自販機のココアみたいに、手に持つだけで指の冷えが引いていく種類の、思い出じみた温かさ。
御子柴澪がノートを握り締め、栞紐を引いた。彼女は「息」という語を一度書いて、消し、書き直す。書き直した「息」は、さっきより少しだけ太い。太い線は、強くない。強く見えるだけだ。
羽田の指が、わずかに震えた。ボタンの縁にかかる。押し込めば、硬いクリック感が返ってくるだろう。その先で何が起きるか、七瀬の予測は正確だ。扉が開き、空気が流れ、同期ログが弾む。中条のいるはずの空間の圧がほんの少し上がり、肺の中の滞った空気が外向きに動く。呼吸は、理屈ではなく現象として戻る。
「押せ」
加瀬颯真が低く言う。「押して、引き戻そう。ゼロかもしれないけど、ゼロじゃないかもしれない」
「——待って」
蓮は、短く口を挟んだ。止めるための声ではない。止めないために、止める声が要る。声は、羽田の指を縛らない。縛らない方法で、指を一度だけ宙に浮かせる。「降りるのは、戻すためだけじゃない。戻せないかもしれないときに、なお譲る行為を、誰が引き受けるかの問題だ」
羽田は、目を上げた。躊躇の秒数が、またひとつ延びる。延びた秒数は、白い。白い時間の中で、人は濃い選択をしにくい。濃い選択は、いつだって、劇的だ。劇的さは、御堂の「美」の係数を喜ばせる。
「俺はまだ、見ていられる」
羽田は、指を引いた。声は小さく、確信はない。確信のない決断は、記録に残りにくい。でも、観客のいない夜にだけ通用する勇気がある。
御堂が肩を叩く。軽く、しかし音が出るように。「じゃあ、僕が——」
彼は譲渡ボタンに自分の指をかざし、押すふりをした。押さないのに、全員の心臓が短く跳ねる。御堂は蓮を見た。試す目だ。観察者が観察者を観察する眼差し。押すふりは、押すより罪が薄いと思われがちだが、こうして波形を揺らす効果は同じだ。
蓮は拳を握った。握りこぶしは何の機能も持たない。ただの筋肉の一団。だがそれを握るという動作が、誰かの「劇終」を早めるのを避けるための、一番原始的な調整になることがある。拳は、ボタンから遠い位置で固まった。
匿名掲示板が、かすかな揺らぎを見せた。署名は“ベンチ”。いつもは断言の文体が、今日は少し荒れている。荒れ方は、誰かが濡れたペンで書いたようなにじみを帯びていて、語尾は揺れる。
〈譲渡が救いである保証は、どこにもない〉
白波がうなずく。保証——この施設で最も軽い語の一つ。保証はあるふりがうまい。保証があると告げるシステムは、保証のない場所へ人を誘導できる。
「保証がないから、選び続けなきゃいけない」
花岡が、青いベンチの背を撫でた。透明層が指の腹をはじき、触れられない感覚だけを残す。「誰かが座って。誰でもいい、じゃなくて、誰か、って言いたい」
宮原は、ベンチの座面に投影された三語を見ていた。劇終/返す/記録。三語のあいだに、別の語がこぼれ落ちている気がする。譲渡。不可逆。保留。退出。空席。語が増えるほど、心は薄くなる。薄くなった心は、風を逃がすのがうまくなる。風が逃げると、息は白くならない。白くならないのに、鏡は曇る。
陽が傾き、儀式の光は淡くなった。譲渡ボタンは、触れられずに残った。残ったボタンは、こちらを煽らない。煽らない装置は、次の夜のために静かに呼吸している。
夜——。
ラウンジの照明が落ちたあと、床下から、かすかな空気の逆流音が一度だけあった。ひゅう、ではない。ふ、と短い吐息のような、押し出す側の音。耳を澄ませた白波の瞼がふるえ、花岡が瞬きを忘れる。誰もが言葉を止める。止めた言葉のかわりに、音が光を持って上がってくる。
「——紙?」
御子柴が最初に気づいた。ベンチの影、床板と床板の継ぎ目の隙間から、小さな何かが押し上げられていた。黒田が屈み、慎重にピンセットでつまみ上げる。白い紙片。封筒から切り離されたような、角の丸い小さな切れ端。静電気が彼の指にまとわりつき、軽いざらつきが爪の隙間に入る。
「文字、ある」
東雲が壁のライトの角度を調整し、紙面に斜光を当てた。鉛筆書き——いや、ペンだ。ペンのインクがすこし毛羽立っていて、しかし線の癖は見覚えがある。誰かが何千回もノートに同じ形の文字を書いたときにだけ出る癖。御子柴のノートの冒頭にある、あの丸めた書き出しの癖に似ているが、違う。もっと細く、整っている。
「中条の——」
花岡が唇を押さえる。震えのせいで、名前は最後まで言葉の形にならない。
紙片には、ただ二語だけが記されていた。
誰か、座って
“誰か”の“か”の右払いが、最後のところで浅く途切れている。ペン先が何かに引っかかったのか、それとも急いで書いたのか。小さな欠落が、声の震えの輪郭を補う。
「座って、か」
加瀬が低く笑い、それは笑いではなかった。彼は一歩、ベンチに近づき、座面に指を置いて、すぐに離した。触れた途端、透明層が冷たい。冷たいのに、指の奥に温かさが残る。矛盾は、儀式にとって最もよく効く香辛料だ。
「座るのは、誰」
御堂がゆっくりと左右を見渡す。視線は、誰の顔にも長く留まらない。鏡がない夜は、顔が顔を直視しなければならない。「譲渡が救いかどうかは保証されない。座ることが救いかどうかも保証されない。——それでも、席は空いている」
「空いている席に、言葉が座る」
宮原が言う。「人が座る前に、言葉が座る。座った言葉の上に、人が座る」
「その言葉が“誰か”なら、席はたぶん、ひとり分より広い」
羽田が紙片を受け取り、掌の上で軽く温める。インクの黒が体温で少しだけ艶を持つ。彼は紙をベンチの背にそっともたせかけ、息を一度だけ吐いた。白くならない息だが、今夜は見えるような気がした。
蓮は、座面の前に立ち、足をそろえた。座らない。座らないことが、今夜の座ることになると分かっているから。譲渡は押されなかった。押されなかったボタンは、明日に持ち越される。持ち越しは、逃避ではない。持ち越すこと自体が、観察の方法だ。方法は、今日、提示語として残した「記録」に似ている。記録は、押さない指の温度、押せない心の重さ、押すふりの罪の薄さ、そういった測定不能物を、測定不能のままに留める。
誰か——という曖昧さの椅子に、夜は座った。座った夜は、しばらく動かない。動かない夜の耳元で、《Owl》が一度だけ息を飲み、飲んだ息を返さずに、沈黙した。沈黙のログには、語尾がない。語尾のない記録が、最長の余白になることを、彼らは知っていた。余白が、今夜だけは、救いに見えた。明日、救いではなくなるとしても——今だけは。




